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. 独身生活R  
 昨夜書いたようなわけで独身生活を送っているのだが、(けっして無理なスケジュールが言い渡されていたけではないのだがこちらの怠慢ゆえにそうなった)急ぎの仕事のために、どこに出ることもできない状態にある。こうなってみると母子の不在は好都合である反面、気の利いた定食屋のようなものが近くにまったくないので食事を自分で調達する苦労が発生する(男女同権の観点からすればいかにも問題多い発言だが)。
 昨夜はそういうわけで、スーパー(ライフ太秦店)で夕刻買った牛ヒレ肉を焼いて(もう1枚、今夜用に残っている)、パック詰めの寿司とともに食べた(野菜は面倒なのでカゴメの食塩無添加のトマト・ジュースで済ませた)。今朝はバターロールをかじって(ハムエッグが自動で出てくるロボットが欲しい)、昼は近くの「さくらいや」(小さなスーパー)で惣菜類を買い込んでだらだらと食べながらキィを叩いて、途中でビールを飲んで仮眠(昼寝)をとった。夜用は食べかけのシューマイや豆腐や、(残っている)肉やトマト・ジュースがあるが、その不規則もあっていかにも不健康で、さらにそれに追い討ちをかけるように今、マクドナルド(いつもの金閣寺店2階)でマックピタのセットを食べながら仕事をしている(いまは休憩中;ちなみにマシンはこういうときのための入力&モバイル特化マシンのモバイルギアMC/R330)。
 ちなみに、すでに下の[60]に書いたとおり、明日は祝日(の代休だっけ?)のはずなのに、わが大学は「平常営業」で、しかもぼくは早朝からの会議に招集されている。夜中までだらだらと仕事が続いて、思いっきり睡眠不足の状態で自転車をこぐのか(朝はまたハムエッグもないバターロールだ)と思うと、すでにして気分がよろしくない。
モダニスト 2001/12/23日20:01 [62]


. ビンラディン証拠ビデオの見方[深夜の速記メモ版]R  
 トラボラだかの民家から見つかったという、いわゆるビンラディン証拠ビデオを、当初そういう論調があったようにあのヒゲの人物がほんとうにビンラディンであるのかどうかを疑いながら見るのは、心底馬鹿げている。
 理由は、端的に2つ――。
 (1) こんな確実な物証を待って判断することは、単純左翼思想家には許されても、政治家には許されない。そしてそのような意味のかぎりでの政治的判断のための素材は、じゅうぶんにあった、といわねばならない。
 (2) 軍事行動への反対は本質的に、ビンラディンが犯人であったとしてもなおそれへ反対するというものでなければ、多少ともの意味すらも有さない。軍事行動への賛否に関わるのは、証拠ではなく、論拠である。
 それにしても、なぜこれが民家から見つかったのか、の問いについては、少なくとも管見では未だ誰の口からも聞きえていない、以下の分析が、いちばん妥当であると、私は自負する。
 つまりあれは、わざと民家に残された。
 あのテープでは、たとえば夢にまつわる興味深い会話が聞かれる。また、いくつかの発言内容には、イエスのそれを思わせる、比喩的なウィットすらがある。残されたことで、われわれはそれを見る/聞くことになった。
 そもそものビデオの収録については、日頃からビンラディンの映像を残すスタッフがいるのだろう、という指摘は、いかにもありそうなことである。
 このたび「発見」されたテープは、ビンラディン主犯説を疑い得ないものとするが、それで目が醒めるのは、正確には右でも左でもない思索なき人びとなのであり、つまりいまそのことを隠しても仕方のない局面で彼は、みずからのメッセージを世界にたいして残すこととした。
 思い出してもみたまえ――テロ後、数週間を経たころから、彼の発するメッセージを極力、具体的な映像・音声によっては放送しないように、との要請が各種メディアにたいしてなされていたことを。ところがいまやアメリカ政府がまんまとそのメッセージを伝える、文字どおりのメディア(媒介者)になってしまったのである。彼が主犯であることを示す必要性があるという判断はわかるが、今回の軍事行動の意義をすでにじゅうぶん理解している者にとっては、なんともそのような無防備な資料公開の仕方は避けてほしかったと思う。
[以上は、12月20日(木)の授業「表象批判II」で話したことの一部と重なり、当日記にも記すであろうことを下の[59]でふれている。]
モダニスト 2001/12/23日02:42 [61]


. 雑記は続くR  
●母子が24日(月・祝――ただしその日までわが立命館は授業期間でぼくも朝から2つ会議がある)まで、富山・魚津の実家に帰省して、いない。年に何日か訪れる、静かな心やすらぐこの夜に、いただきものの"ゆず"を湯船にうかべてじっくりと温まった(すこし疲れがとれた)。湯のなかでぐいっとそいつをしぼったりしたものだから風呂場はむろん、家中に香りがひろがった。おまけに、ひとりだからお湯がもったいない、と洗髪後シャワーを浴びる替わりに湯船のをかぶったら、そのあと何度すすいでも髪から柑橘臭が消えない(部屋についた香りなのかな)。まあ、冬至なんだから良しとしよう。
●「花様年華」(過去の日記[とくにVAIO日記のほう]で何度も言及している)のDVD国内盤を購入。国内盤とわざわざ書くのは香港盤をすでにYahoo!のオークションをつうじて購入していたからだが(過去の日記の11月13日[火]を参照)、その直後にもらした「どうか国内盤DVDは愚劣な吹き替えを含むがゆえのモノラル音声でありますように」という願い(同11月16日[金])に反して、それはステレオどころではない5.1chドルビーサウンドで、おまけに映像は、こちらは予想したとおりとても鮮明で、しかも上映時同様の16:9のビスタサイズだった。たしかに存在した「愚劣な吹き替え」のトラックは見なけりゃいいんだから減点材料にならないとしたら――でもちょっと見てみたい気がする(笑)――、何がわざわざ苦労して香港盤を購入したメリットといえるだろうか!? そうだ、香港盤には国内盤にはない英語の字幕がついているゾ。といったところで、セリフが広東語なんだから英語のリスニングの勉強にもならない。
●――と、これからその映画の世界をもういちど訪れるのかと思いきや、25日の朝が締切の執筆の仕事(正確にはかつて書いたもののリライト;当初の締切はすっかり過ぎている)があって、そうもいかない。今夜のところは上のような比較チェックのみで。
モダニスト 2001/12/22土22:56 [60]


. 雑記R  
●卒論提出締切日(20日)には今年もやはり、あってほしくなかった小さな悲劇が、あった。こういうセミ・パブリックな場処で書く内容ではないが――おかげで基本的に楽しいもので(あるいは喜劇的ですら)あった他の学生の分について言及することもはばかられるようになる――、責任の一端は指導教員=主査(予定)者にもあると、反省はしなければならない。
●その悲喜劇も少しは関係しているにちがいないのだが、見かけはその締切から少し(あるいはその指導のピークからはだいぶ)遅れて、わが身体にガタがきた。もうほんとうにダルくて、昨日も今日も、日付が変わる時間帯はLDの床のうえで突っ伏して寝入ってしまっているのだった。ま、きょう2限目の「西洋美術史II」で、年内の授業は一応終了したのだけれど。
●ちなみに今日は子の誕生日(5歳の)なのであった。いろいろと書き留めておきたい成長ぶりもあるが、今夜のところは、この子は父親というものは食事のあとすぐ寝てしまうんだな(わが誕生日の日もいささかも変わることなく)と思っているだろうな、という反省のみを――。
●その他、余力があれば本編へのアップも睨みながらこの場処に「速記」しておきたかった(おおげさなようだがその力もいまは尽きている)話題について、さしあたり(つまり今後の継続的考察までは放棄せずに)週刊誌ばりにタイトル[仮]を――「ビンラーディン・ビデオの正しい見方」(20日の「表象批判II」で略述済)、「いま明かされるアガンベン氏の過去」(21日の「西洋美術史II」で略述済)。
●以上、今夜もまた推敲もせずに。
モダニスト 2001/12/22土03:11 [59]


. 訂正 などR  
●たしかにすでに本編[002]で紹介済みの北村稔の新著は、下の[2−54]に記すごとき『南京の真実』ではなく、『「南京事件」の探求――その実像を求めて』が正しい題であった([002]ではもちろんちゃんと紹介している)。記して訂正します。
●――といった誤りもそれに帰そうとは思わないけれども、明日ついに提出締切を迎える卒業論文は、じっさいの指導のピークはたしかに月曜日にはとっくに過ぎたのだけれど今ごろわが身体と精神に、疲労のほうのピークをもたらして、夕食後はひとときも机に向かうことを許さない(要するに「仮眠」を余儀なくするということだ;あるいは本編の更新を2日連続で果たす元気はないとも)。そして、こんなときにも授業負担は軽減されることはない(明日も2コマ)。試練は続く――と、自己を主人公としたドラマの主題歌としていま、シベリウスが室内に流れている(作曲家が怒るでぇ)。
モダニスト 2001/12/20木01:47 [58]


. 続編のためのメモ――でも書く気があんまり起こらないのに本編[009]を消したい一心で闇雲にメモっているだけなのでちっとも読むべき出来に達していないR  
 そう、「死んでナンボ」ということでは、タリバンに一時拘束された日本人ジャーナリストにまつわっても、たしか同様のことを感じたっけ。
 つまり、登山に出かけて遭難する者にたいしていつもそうであるように、このたびもその柳田某にたいする同情の念は、ぼくにはいっさい湧いてこなかった。そうした危険を承知で、彼らはそこに赴くのであろうからであり、またじっさい、ジャーナリスト=非スパイという称号(タイトル)――だがこの場処[002]で以前ふれたように北村稔『南京の真実』が明かした英国人ティンパリーみたいなケースだってあるだろうに――を与えられて自由の身となって彼が帰国を果たしたさいには、雪山から命からがら救出された登山家以上のカッコ悪さを、ぼくはそこに認めざるをえなかったのである。
 ひるがえって、あそこでタリバンがその拘束を解かず、そればかりか「人間の盾」として彼を戦闘地域に随伴させていたならば、と仮想してみること――。そのときは、人質をとられてなおアメリカの軍事行動に賛同・協力するか否かというかたちで、日本政府そして国民の判断がリトマス紙による試験のごとくにして試されたことであろう。
 いずれにしても、命あった登山家が下山した翌日にはその救出のためにかかった費用のゆえに親族から「もうこれからは山には登らせない」と痛罵されているであろうように、ジャーナリストというそもそも実態たしかならぬ称号さえを柳田某から剥奪してやることは、重要な作業であるように思われる。
 いやその意味では、即身成仏を一つの理想とする世界におけるあの尼僧の仕儀もまた、やはり同様の仕置きの対象となるというべきか。
 だが、ジャーナリストをやめたらふつうの人間になればいいだけだが、ふつうの人間であることをやめて仏の道に入った者がそれをやめたら、彼(女)はいったいどこに行けばいいのか。
モダニスト 2001/12/19水15:41 [54]


. 未明の、ワインによって促されし、メモR  
 「[…]近代国家による単一で分割されていない人々を産み出そうとする企図は、失敗する運命にある」と、その講演原稿の末尾近くで語ったアガンベン氏は、講演後の討議(というには応酬に欠ける消化不良のものだったが)においては「World Civil War」という用語を創出しつつ、この外戦と内戦が分かち難いという以上に混交した状態を生きざるをえない、われわれの「運命」について、言及した。
 さて、この洞察=造語じたいはマクルーハンの、メディア環境が進展すればするほど世界は「村」(global village)化するという有名な予見を「父」としてもつというべきだが、現下の、すなわち「9月11日」以降の状況下において特別な意義を帯びることは、明らかである。
 問題はしかし、ここからである。
 たしかにいまは、まさにアメリカを巻き込んだ世界−内−戦(World Civil War)状態にある――西成彦氏は9月11日以降に内戦が始まったのではなくてその日のあの事件/事故がそもそも内戦そのものであったのだとまで敷衍する――、さしあたりそう表現することは可能であるとして、ならばアメリカをその内戦当事者として非難して、それで済むかの気配は、いったい何なのだ。
 洞察=分析が意義を有するのは、ある矛盾に満ちた事柄の〈可能性〉の議論にレトリカルに関わっているときであり、他方、リアリズムの観点からその矛盾の〈解消〉に向かうとき、議論はふんぷんと倫理の香りを漂わせながら、退嬰化する。
 国内における警察行為と、対外的な軍事行為の、差異が消滅して安全性(security)が、これまでになく幅を利かせる時代と、アガンベン氏は現代/現在を分析する。
 だが、ぼくにいわせれば、いちばん安全な場処にいるのは、内戦をメタ的に見渡す言説である(内戦はいまは避けられない)。ついでながら西氏の情緒的に美しい言説に抗って、9月11日の出来事が、戦争ではなくあくまでもテロであって、ましてや事故ではない、とも。
モダニスト 2001/12/19水03:17 [52]


. 少々の落胆R  
 本編において一部敷衍することがあるやもしれぬが、きょうの「一件」にかんするこの欄での書き込みとしては、最後のものとしよう(だってクダラナイことを書きすぎたもの)。
 議論はまだ続いているが、やはりしょせんはシンポジウム(しかも通訳をはさんだ)なのであった。つまり、ほんとうの「議論」にまでたどり着かない。しかも日本人3人のコメントのあとにとっととそこに入るチャンスがあったのに、午前中の講演にたいする会場からの質問を、ごたいそうに一人当たり3問(×2人)も紹介して、それへの回答に多くの時間をとってしまっている。(「朝まで生テレビ」でも進行をじゃまするのは会場からの質問でしょ?)
 このあと、たとえば話す自身をイメージ化することに長けた西成彦氏あたりがピエロを買って出てわざと問題提起的な発言をして場を盛り上げることもありえるが(じっさいそうだとしたら舞台上でいまじれったくしているだろうな)、しかし時間的にみて(つまり言葉の応酬としての「議論」にならないうちに残り時間は30分ほどになってしまっている)、それも遅きに失したという感は否めない。
 いずれにしても、そういう盛り上がりがこれからあろうとなかろうと、きょうは17:30には会場を出て保育所に迎えに行く。以上、誤字脱字誤文法はあらかじめ深謝(今夜もいそがしいのでコレにかんする訂正記事は出さない)。
モダニスト 2001/12/18火17:02 [50]


. 追加訂正[45にかんする]R  
[誤;第2段落第1文]「その理由の一つとして、[…]にたいする姿勢にある(ただしお二方とも英米圏以外の生まれである)とでも書けばそれは」>>>[正]「その理由の一つとして、[…]にたいする姿勢(ただしお二方とも英米圏以外の生まれである)をあげるとすればそれは」。――でも、午後の部のやはり会場内からアップするほどのことかい? ――いやぁ、でも気になったら直さずにはいられないのです(しかもいったん[47]としてアップしたものの再訂正なのであって…)。
モダニスト 2001/12/18火15:06 [48]


. 注記と訂正R  
●授業があって午前中は講演を聴けなかったという学生(しかも昼休みに図書館で下[45]を読んだらしい)から今し方、内容もさることながら投稿自体に偽装(あとから時間を偽ってアップする)があるのでは?/そうでなければかなり周りに迷惑なのでは?、と感想(イヤミ)をいわれた。だが、内容はほんとうに「さることながら」、アップはたしかにリアルタイム/会場内なのではある。というのもCGIの設定で投稿時刻が自動に表示されるのであり、また、わが隣席には同僚(何度も書いたことがあるが大学と保育所の両方における)である「ひもだY」さんがいて横目で執筆&アップを目撃されているはずだからである(その意味で「迷惑」のほうは否定できない)。
●ついでながら、いま読みかえすと1ヶ所、文章が乱れている。[誤]「もとより充実した内容の批判的紹介するものでないことは」>>>[正]「もとより充実した内容の批判的紹介を試みるものでないことは」。でも、文法的には直ったが長ったらしい悪文にはちがいないな。削除して再アップしたいところだが、[45]の時刻表示を残すためにそのままで。
モダニスト 2001/12/18火13:48 [46]


. 速報R  
 ヌスバウムとアガンベンの両氏を招いた講演会[44]は「いま」、この種のものとしては異例なほど興味深く聞かれ「つつある」。
 その理由の一つとして、異なる言語を話す人びとにたいして明晰に語ろうとする、お二人の英語の発話にたいする姿勢にある(ただしお二方とも英米圏以外の生まれである)とでも書けばそれは、これが内容以前の、あまりに初歩的な報告――いかに「速」報であるとしても――であることをただちに予感させるだろうが、会場のなかで書かれアップされる不謹慎きわまるこの書き込みが、もとより充実した内容の批判的紹介するものでないことは、最初から吐露しておいていい。
 それにしても、いまここでぼくがこの不謹慎な速報性をもって――つまりこの場所にいるいかなる聴衆とも意見を交換する以前に――書かねばならないのは、ともに興味深いなかでも2番手の、アガンベン氏の「内戦と民主主義」のほうがなお面白いということなのである。
 たとえば、「[…]スターシス[内戦]が同化を生じさせ、兄弟と外敵、オイコスとポリス、内部と外部とを区別不可能にする[…]。スターシスにおいてはもっとも近しい者の殺害はもっとも遠い者の殺害と等価のものとなる」(ほんの2分ほど前に通り過ぎた講演原稿の日本語訳より)といった、スリリングな論理の構築的進行は、もちろんこのように不謹慎にもキィを叩く者に十分に理解されているわけではないが、直観的な共感を瞬間瞬間に与え、また講演後に原稿を味読することで得られる喜びをすでにして予感させる。
 重要であるとともに至極当然であること(女性の権利)を語る女性・ヌスバウム氏(女性)のそれよりも、男性・アガンベン氏の内戦にかんする議論のほうが、少なくとも「いま」興味深く聞かれていることが、私が男であることの、これじたいジェンダー的な問題に由来するのではないことを、祈る。
 あっ、いまアガンベン氏の講演が終わりました。
モダニスト 2001/12/18火12:02 [45]


. 雑記R  
●夕刻。年1回のワクチン接種のためにセリとニゴを「ブライト動物病院」(嵐電竜安寺道駅南スグ)へ。ついでに体重を計るとそれぞれ3.7kgと4.7s。「弟」(もちろん血のつながりはないが)のほうがいつの間にか1sも重くなってしまったのだが、それはいいとして、もともとそこに問題(畸形)があるセリ[「過去の日記」の2000年夏分にはそのことがたくさん記されているはずだ]だけでなくニゴも腎臓の機能がイマイチらしい(体温が比較的低い)と診断されて、すこしショックを受けた。8歳7ヶ月で逝ったタマといい、わが家のネコはどうやらそういう子たちばかり(マリはそうした診断を受けたことがないが)のようだ。
●そのまえの、昼の時間帯。卒論の指導は、きょうの7名で、こんどこそほんとうにピークを越えた(4名にGOサイン=あとは時間の許す範囲で推敲を重ねて勝手に提出するようにとの指示を出した)。残りの、きょうまだその指示を出せなかった者をふくめた数名については、(明日は終日つぶれるので)明後日に最終チェック。まだ面談にも訪れない若干名については――いくら何でも、もう責任はとれない。
●「終日つぶれる」明日。学内で国際シンポジウム(とってもデザインがダサいのだけれどWEB上の案内は→こちら)。講師はマーサ・ヌスバウム(シカゴ大学)とジョルジョ・アガンベン(ヴェローナ大学)という、近年の思想界のスターお二方と、国内から気鋭のコメンテーター3名(西谷修、田崎英明、西成彦)+司会(岡野八代)。じつは今回のもいちおう裏方的な立場にあるが、9月の別のシンポでじゅうぶん疲弊したので[笑;ただしこれについては訳あって「過去の日記」でも書きたいことをじゅうぶんに書いていない]丸一日、聴衆としてのんびり「拘束」されることに。ちなみに夕刻のレセプション・パーティーは、細君が実習指導で遅くなるのでお迎え+子守りの責務が発生してキャンセル。ま、そういう機会が苦手な人間としてはそのほうがじつはおおいに望ましい。
モダニスト 2001/12/18火02:43 [44]


. 雑記あるいは、日記らしくあるためにR  
●このあいだ授業(「表象批判II」)でふれたドリカムの《決戦は金曜日》(どんな授業だ[笑])に、「わたしらしくあるために〜」という歌詞がみえる。今夜の標題はそれを流用したのだが、「日記らしさ」が何であるかが、あらかじめわかっているわけではない。あるいは、じつはこの不明の申告さえが、日記だったらとっくのむかしに書いているであろういくつかのことをこのところ書いていないことの、言い訳となっているのではないかと、すでにして自分が疑わしい。いずれにしても、そうした厄介なことは棚上げにして/あるいは逆にその棚をとり壊すためにこそ(?)、無防備なメモを――。
●15日(土)の午前は保育所の生活発表会。「生活」の何を「発表」するんだ、と最初の年は訝ったものだが、小学校なら学芸会と呼ぶ種類の発表会で、就学/学芸以前なのだから生活なのだ、といってしまえば理解できないではない命名だ。で、その意味ではじゅうぶんに学芸がかっている年長の子たち(ウチのもそれにふくまれる)よりもその「生」そのものをむきだしにした0歳児からせいぜい2歳時あたりまでの子たちの、「芸」以前の「芸」が、やはり感動的だ。そうして、こういうのをみて「もうひとり!」と誤った夢を抱いてしまう親が多いのだろう、と(じっさい、保育所に通う年長の子はウチみたいな「一人っ子」はすごく少ない)。
●きょう(16日[日])は奈良に帰省。一時期ずいぶん弱々しかった母がだいぶ持ち直し、逆に丈夫であらねばならない/あってほしい父がいくつかの部位で不調をきたしている。同居? それにもまたいくつかのハードルがあるが、そう遠い未来の話であるはずもない。
●こうした私事に(あるいは他の些事に)土日を費やしたこともあって、明日までの公務が溜まったままである。だが、なぜ土日に持ち帰る授業関係以外の公務が、教員に課せられるのか。ついでながら明日もまた卒論指導の面談が7名210分が確定している。誤解がないように書いておけば、しんどくてもこちらの仕事は、まあ楽しい。問題はこういうのではない公務のほうだ。
●さて、本編の更新は? 下[42]の「続編のためのメモ」を元に改訂してこの土日のうちに、と思っていたのだが、どうやって改訂するか、浮かばない。せめて、それだけ初発のメモの完成度が高いのだ、とでも自惚れて、今夜は気持ちを仕事へと切り替えるか…。
モダニスト 2001/12/16日23:32 [43]


. 続編のためのメモR  
 わが国の考古学界を震撼させた例の旧石器捏造は、行為としては万死に値しようし、そうであればこそ法は無力であるほかないこと、だから誰かが彼に天誅を下すほかないことを、先に述べた[下の本編の007]。
 だけれども同時に、それがその「学問」(ディシプリン)の体質に由来するものでもあることを、われわれは知っている。
 だってあなたは、お人よしにも「藤村新一」がひとりしかいないと思っているのか? そうでないというのなら、それはどのように証明されうるのだ?
 ザックからとりだした事物を古い地層に埋め、それをみずから(あるいは指示した者の手で)掘り当てるだけのシンプルきわまる行為が、日本中の42箇所で反復された。重大なのはこの発覚が、「現場写真」とその後の「自白」にもとづいている点であり、つまり学問の自己批評的展開のゆえなのではない点に、存する。
 ちなみに、在野にあった藤村が、たんなる功名心だけでなく「学問」(アカデミズム)への悪意をも抱く者であっのならば、「残り」の41箇所の自白以前に自死を決行して考古学にいま以上の混迷をもたらし、あるいは遺跡の地元住民にいたずらに希望をもたせ続けたことだろう。
 いや、逆説的な表現としてではなく、そうする「べき」だったのだ。彼自身ひとりのマニアであったがゆえの、最高の天誅として。
モダニスト 2001/12/15土14:12 [42]


. そんな元気はない、と下[39]に書いておきながらR  
このあいだの「メモ」[36]を発展させて本編側にアップした[007]。
 いや、眠くて目の回りが落ちくぼんでいて、キィの打ちまちがいもヒドい。読み直す元気も、ほんとうに、ない(でもこれを書いてるんだな)。朝になって冷静になって読んだら削除したくなるかもしれないが、そのためにはまた次のをアップしなければならない(この書き込みにもその意味合いが多少はある)。それがルールだ。
 ルールが書くことを強いる。そして書くとまたそのルールに言及する。俗な表現だが、それこそウロボロス状態である。
モダニスト 2001/12/15土00:28 [40]


. 数日サボった本編を更新せねばと思いつつその元気もでない夜には、こんなつぶやきもいいだろうR  
 1週間の終わり――。卒論の指導とか会議とかで疲れが飽和状態になって廊下をのたりのたりと歩いていたら、姜尚中氏(東京大学)を講師に招いた講演会(まさに今日その時間帯に学内で開かれている)のポスターが貼ってあるのに、気づいた。とたんに何やら疲れが増した。
 氏は、じつは先月もある対談に招かれて来校していた。だいぶ前になるが(去年だっけ?)、別のシンポジウムのパネラーにも名を連ねていた。主催者(招聘団体)がその都度ちがうから別にいいのだけど(今回のどこかの学部の自治会だったはずだ)、総じてウチの学校(いわゆる学校法人格のことではないがやはりある種の「人格」的なニュアンスを込めていっている)が、ああいうタイプの論客が好きなのであるらしいことは、疑いえない。
 さて、同じように一つの大学のさまざまな団体に呼ばれでもしたら「このひとたちには企画力があるんかいな?」と思ってしまうであろう、そんな悪意に満ち満ちたぼくが「ああいうタイプ」と反りがあいそうにないことは、ここを多少とも継続的に読んでくれているひとには、明らかだろう。
 だが、それに加えて、もう一点告白してしまえば、顔つきがきらいなのだ。何というか、心から笑うことをせず(もちろん私的な場所ではどんなであるか知らないさ)、つねに被告席を見つめる原告のそれのような目をしている、そのようにぼくには見える。同時多発テロ以降の米英の軍事行動やわが国の協調路線へのコメントを主催者から当然のごとくに求められて、彼もまたいつものあの目、あの口調で、批判の言葉を発したのだろう。
 ――だからどうだというのだ!? いや、どうということもないさ。つぶやきにすぎない。ぼくの近しい同僚のなかにもいる、彼を招聘したひとたちの心証を害することはありこそすれ、何らのプラスももたらさない、しかし命をつなぐための呼気に紛れて発せられる、つぶやきだ。
モダニスト 2001/12/14金22:33 [39]


. 悪いクセ(こんやの雑記)R  
●また悪いクセが出たといわねばならない。田代まさし(つい先日、早稲田の学園祭によばれてしゃべっている映像はおもしろかったな)のことではない。「日記らしからぬ公式意見表明の場所」[本編の006]としたからといって日記にはちがいない場所で、またしても日記なるものについてクダクダと書いたのである。しかもそれは「その1」と銘打たれ、「[続く]」とさえ注記されたのだが、いまやそれが未完のまま断ち切られねばならないことは明白である。
●――といったって、つぎのテキストをアップしないことには、それは消せはしない。でも、じっくり書いてる時間なんかないよぉ。あるいは、下[36]の「万死に値する」は、ちょっと暖めてから本編に出すべきだったかしらん、と。
●ついでに阪神にからめても「悪いクセ」のお題で。せっかく星野氏が「昔から阪神のファンで、それは選手になってからも、監督をやってるときもそうだった」なんて言ってくれてるのに、そのひとの、田淵幸一氏を打撃コーチに迎えたいとの条件提示にたいして、久万オーナーは「ひとつイヤな思い出があって」と、阪神のお家芸といってもいい内紛の過去を、しかも満場の記者・テレビカメラたちの前で、語ってしまったのである(しかもその思い出とは田淵氏が「巨人にたった1勝して狂喜していた」という他愛のない場面のことなのである[表面上は])。大嫌いな筑紫哲也(笑)もいっていたが、やはりこの球団はフロントに問題アリとしなければならない。
●あす。2つの授業。そのうち午前の「表象批判II」では、またしても同時多発テロがらみである映画の一部を上映しよう――と最初は思っていたのだが、じつは、先週授業中に紹介したある学生のミニレポート[授業中にたまに20分ほどかけて書かせる]に関連して、その学生本人から、教員(つまりぼく)の出題や紹介の仕方、そして解釈にかかる反論があって――悪いクセが出てすこし面白おかしく紹介したかな――、それをうけて2日前から少しメールをやりとりしたので、その軌跡を紹介しようかと、気が変わりつつある。卒論の提出締切を直前に控えたこの時節、授業は簡単にやりすごしたいというのが本音だが、必要にして、また有益なプロセスだろうと思われるからである。
モダニスト 2001/12/13木00:55 [37]


. 万死に値するR  
 村の借入金13億5000万円を私的流用した罪で、高知県土佐山村の前収入役に懲役12年の判決が出た(12日、高知地裁)。被告の現在の年齢が75歳だからこれで刑が確定して満期まで服役するとシャバに出るときには87歳の高齢となる。まあでも、ふつうにいけば獄中死だろうな。
 いや、被告の犯した罪はじっさい万死に値する。
 まずは死刑廃止議論に、私が反対する者である、そのことを明言しておきたい。だが、残忍な殺人などの重罪だけがそれに値するというのではなく、そこにすら/そこにこそ勘案されるべくしてある理由や意味すらも欠いた、馬鹿げた罪がある、と私は思うのだ。
 土佐山村村民が借金返済に要する時間は、少なく見積もっても20年だそうだ。被告が仮に刑期を満了してシャバに出てきたとしても、被告の私財を没収しても4000万円にしかならない村は、そのときなおも超緊縮財政のさなかにある(ちなみにその救済のために公的資金が注入されるのもまた筋違いである)。
 量刑にふさわしい刑期という観念は、ここには存在しないといわねばならない。
モダニスト 2001/12/12水22:41 [36]


. ダンボの正午、あるいは日記論番外編R  
 午後の卒論指導のために例のごとくマクドナルド金閣寺店2階でランチがてら下準備(流し読み)にいそしんでいるのだが、となりにウチの女子学生(だがどうみても文学部でないことはわかる→と書けばだいたいどこの学部か察しがつきそうだ[笑])が二人陣取って、こっちが「耳ダンボ」になりそうな話をしている。
 うん、ユーミンはこんな状態で曲の構想を練ったわけやね。そうしてぼくは、いそがしいのにこうやって日記で報告する。こういう目的のためにモバイル環境を整えたわけではないのだけれど。
モダニスト 2001/12/12水11:54 [35]


. 雑記R  
●ピークは過ぎたと書いた[26]卒論指導だが、まだひと山、控えていた。明日もまた14:30から18:30まで8人がびっしりと。ちなみに30分刻みで、ずいぶん律儀(punctual)だと思われるだろう。うん、そのとおり。で、学生も慣れていて、ひとりも予定時刻に遅れる者はいないのである。
●その卒論のなかに、大学の演劇部でみずから脚本と演出をてがけた作品の改訂をテーマとするものがある。指導教員はじつはその上演作品を観ず、論文執筆に先立って完成して届けられた改訂版もじゅうぶんに読み込まずに、指導していた。もちろんプロだから、それでも指導は成り立つ(要するに論文のイロハの次元です)。が、作品を読んでみて驚いた。けっこうおもしろいのだ。そう、すくなくとも論文そのものよりも。それから気合いが入った。改訂を論じる論文を、改訂作品以上におもしろくすること。成功すればいいのだけど。
●じつは、なかには締切まで10日を残して完成した強者もいる。いや正確には、他学を受験するさいの提出物件のひとつとして卒論の、とりあえず第1版は完成させる必要があったのだ。ちなみに内容は、写真家の中平卓馬をきっかけにして、写真の匿名性について論じるもの。指導のために、その写真も見た。こうやって勉強する。しんどいけど、トクな商売であるというべきかもしれない。
●ついでに。しばらく「おあずけ」にしてあったワインを、このところ寝るまえに毎晩飲んでいる。で、ビンの底のほうに残っていたぶんをグラスにあけたのだが――ずいぶんな量ではないか。つぎの朝までアルコールが残ってしまう、その閾を越えるのではないかしらん。(もっとも、卒論指導が始まる昼すぎまでにはさすがに醒めているだろうが。)
モダニスト 2001/12/12水01:59 [34]


. こんやのお題R  
 国連と同アナン事務総長がノーベル平和賞を受賞しました(10日に授与)。バっカじゃないか?、授与するほうも、されるほうも――という本音をいわないで、せいぜいこの一件を賞賛しなさい。
 (1) 「9月11日のテロの後、新しい脅威は、民族や国、宗教に関係なく襲ってくることが分かった」とし、「目をそらさず、これに立ち向かって行くべきだ」と述べている(受賞後の記念講演→こちら)ということは、軍拡やね、国連軍の。うん、ブッシュに、君が手を汚す必要はない、ウチがやるから、といってやったら喜ぶと思うよ。
 (2) F1レーサーに運転免許証を交付しても悪くないでしょ。ましてやゴールドの優良運転者用なんだから。
 (3) 今回の英断は、ノーベル賞委員会じたいがノーベル平和賞を受賞することへの道を開くことであろう。
モダニスト 2001/12/12水00:30 [33]


. 遅まきながら阪神監督人事にまつわってR  
 そういえば以前のスタイルだったらかならずふれていたであろう、いくつかの話題に、ふれていないな。
 たとえばの阪神の監督人事――正直なところもう1年、野村克也氏にやってほしかった。今年は去年までの苦労がいくつか実を成らせたことだろうし、オリックスから田口がFA移籍してくる(はずだ)しファイターズの片岡だって一時期はその気になっていたはずだ。(その点、巨人に寝返った清原には落胆した。)
 サッチーのこと? つきあいたいタイプではもちろんないが、あれくらいの脱税をやってる輩は日本中探せばゴマンといるだろう。たしかに悪いが、マスコミの糾弾は、彼女がその罪にたいして負うべき痛み以上のものをすでに与えている。(ここでもケニー野村なる、なぜ野村姓を名乗るのかよくわからないバカ息子のヤリ口のほうが、おぞましい。)
 星野仙一氏? やりたくてやりたくてしょうがないんだろ。だったらすっきりうれしいナ、やりますって、いいなさいよ。現に彼がセカンドベストの選択であることに変わりはないのだから、引き受けたあかつきにはこうした皮肉もいわないつもりだが、他方、迷った末に「名古屋のファンのことを思うと…」なんてクダラナイ理由をつけて辞退でもしたら、その逡巡のおかげで阪神が被ることになる数日間のロスの責任は、ほとんど天誅に値するとすら書いておきたい。(だから「やります」っていってよ早くぅ〜。)
 うん、何なら長嶋茂雄でいくか(笑)? 原辰徳への禅譲のふりをしたって、そのじつナベツネによる解任人事であることは皆、先刻承知しているのだから、このたびのだけでなく2度の解任を恨みもて、縦縞のユニホームの袖に腕を通すのだ。
 ――怖がることはありません。あなたの同胞でありまたライヴァルでもあった王貞治氏だって、いまやけっこうアブナイ企業の筆頭格であるダイエーで指揮官を務めているではありませんか…。
モダニスト 2001/12/11火02:48 [32]


. 卒論R  
 卒論提出締切(12月20日)までちょうど10日間となった。指導もいまがピークであるが、この表現(「山頂peak」)が大げさでないのは、14:30から18:30まで30分ずつ8人続いた面談対象者のうちの3人にたいして、あとは自己責任で推敲を尽くしなさい、と構成・形式面でのOKを出す(指導を終止する)ところまで漕ぎつけたからである。この調子でいけば明後日も数人、同じ宣言を言い渡すことになるだろう。うん、内容の出来不出来はさておき下り坂の見えた時期の点では、今年は昨年よりずっと早い。
 ――と、重苦しい内容であっても削除はなるべくしないでおこうとするなら、このような卑近かつ無内容な記事によってでも、過去ログは画面下のすぐ目に飛び込んでこない部分に。
モダニスト 2001/12/10月18:55 [26]


. 補足R  
 つぎの書き込みがあると現時点で掲出されているものがいったんは削除されることになる左の本編は[005]の、ひいてはこの日記2の直下の[24]への、思いつくままの補足(だがこの右欄はそのようなもののためでもある)を――。
 「市民」に犠牲が出ないに越したことはない、そんなことは当たり前だ。だが、まったくに犠牲が出ない軍事行為は、もはや軍事行為ではあるまい。
 市民に犠牲が出ることが絶対的な悪であるなら、上の自明なる論理を踏まえつつ、その行使はむろん準備すらも認めぬ、決然とした態度が必要であるはずだ。と同時に、わが国の一部左翼がいまだ夢見ているらしいかかる絶対平和主義的な境地が到来せぬことを知る者が、その態度に同意することも、もちろん、ありえはしない(この2つの理念は両立しない;ゆえにやはりイデオロギー的対立が消えることはない)。
 ちなみに、その地で今次発生している犠牲者も含めた、アフガニスタンの市民は、「弱者」にたいして世間が常套的に冠する「何の罪もない」の形容が、そのまま当てはまる人びとでは、ない。女子の教育に代表されるさまざまな権利が奪われた独裁政権は、事の善悪はさておき――つまり女性にたいする抑圧が悪であるとの判断も絶対的にすぎるとしていまは留保するからである――、まさに彼らがそれを生み、保存したのでもあるからである。
 この「責任」のゆえに、彼ら市民が犠牲に甘んじねばならない、などという論理をふりかざすつもりは毛頭、ない。
 だが、絶対的な弱者を措定し、ひいてはその権利を踏みにじる強者=悪者を指弾して事足れりとする、いわば中庸の思想は、そのようなものではない〈悪〉それ自体――自身の内にもあるはずの――のことは、いっこうに思い描きえないのである。
モダニスト 2001/12/10月12:46 [25]


. 結果論によるのではなくR  
 たとえば「ニュースステーション」なんかだと、タリバン政権崩壊のこの期におよんでもなお、眉間にしわを寄せた渡辺真理に「戦況はじっくりと見極めなければなりません」と決まりきったマクラを語らせながら、誤爆等による市民の犠牲を、すなわちアメリカの軍事行動の問題点を、第一に報じようとする。
 けっこうな平和的態度というべきだが、市民の犠牲を生む直接・間接の原因がタリバン側にありうることの、あるいはそういう報道の背後に情報操作がありうることの、有事においては当然すぎる可能性は、すっかり忘却されているかのようだ。
 一方、同じ事態を報じる「産経抄」(『産経新聞』2001年12月8日朝刊)は、「「米英はドロ沼に引きずり込まれるだろう」と冷笑的な予測をしていた「"反米"が好きな多くの評論家やマスコミ」の、それらの「見通しと論評はことごとくはずれた」と、まさに鬼の首をとったかのようである。
 さて、私はかねてよりこの軍事行動への賛成を表明しているが[「9月11日」以降の日記(ひらがな期)を参照]、ここでは逆説的に、産経の態度への違和感を表明せねばならない。つまり私は、テロの首謀者であるビンラディンをかくまった反民主的政権――この咎人は早くから「米英」が名指したとおりであった――の崩壊の結果が招来されようと、されなかろうと、結果論でなく目的論的に、軍事行動を支持するものだ(った)からである。
 その意味で私は、米英がもう少し「ドロ沼に引きずり込まれる」ことを望んですらいたのかもしれない。あるいは、たしかに久米宏をうらやんですらいる。なんとなれば主張とは、現実に目をそむけて語られるときにその論理の論理たるゆえんを明らかにするのだからである。
モダニスト 2001/12/09日20:16 [24]


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