一覧 内容 新着順
P   T        ページ 1 2 3 4 5 6 7 8


. 再訂正R  
またしても直下の、訂正文中の誤りの訂正。両面2層は、4.7GB×4だから、18.8GBとなる。
モダニスト 2003/01/19日03:28 [196]


. 訂正R  
よく間違うのだが、直下の[2-194]の最後の一文中にみえる「両面2層」は、「両面1層」が正しい。(それにしても両面2層=16.8GBというのも、原理的には可能なのかしらん。)
モダニスト 2003/01/19日03:13 [195]


. 子猫と天使R  
 とっても便利すぎて逆にありがたみがないのかちっとも書き込みが進まないこの2「メモと私情」欄だが、この3月末にBIGLOBEのサーバの都合(丸一日かけて新しいサーバに移行するのだとか)で、もしかしたら今の設定ではCGIが使えなくなるかもしれない。まったく問題ない可能性もあるが、よくわからない。本編への注としてであれ何であれ、利用できるうちにせいぜい利用することにしよう。
 本編[233]に書いたTSUTAYA詣でのためにクルマを停めた上新電機京都1ばん館で、「こねこ」のDVDを見かけた。先日、つい涙してしまったことを[219]で告白したロシア映画だが、ちゃんとソフトが市販されていたのだった。「トールサイズになりました」とパッケージに書かれているから、ずっと以前から。しかも文部科学省と(財)日本動物愛護協会だかの推薦まで受けている。そういう映画を見て、ぼくは涙してしまったわけネ(笑)? 無性に腹立たしくなったから、でもないのだが、それを購入することはしなかった。あるいは、楽しんだが何度も見直す作品ではないと踏んだから、とか、「片面1層」の表記を見てTSUTAYAのレンタル棚に並んだらいずれ(リッピング)と思った、とか、いろんな理由が考えられるのだが(たぶん上記3点が複合して一つの事由をかたちづくっている)。
 それともう1点、悩んだ「シティ・オブ・エンジェル」についても。今日ビデオで借りた「時の翼にのって」は本編でもふれたことのある「ベルリン・天使の詩」の続編としてヴェンダース自身が撮ったものだが、「シティ…」はハリウッド製のリメイク作品。大嫌いなニコラス・ケイジと大好きなメグ・ライアンが出ていて、いずれにしてもどんなふうに愚劣にリメイクされているのか確かめたいところではあるのだが、ところが、1500円の超ディスカウント価格はいいのだけれど両面1層という、途中で一回ディスクを裏返さなければならない形式なので、買うのも、また100円で借りるのも、踏みとどまった。いや、じっさいこうやって両面構造にすることがリッピングする欲望を殺ぐ効果(*)があるのだけれど…。
 * 2面にわたるDVDをどうやってDVD-R2枚に焼くか、といった問題はそもそも片面2層ディスクにおいて発生するもので、だから複数枚のディスクででもオリジナルの画質を保持したいと思う(程度の)貧乏コレクターには歓迎されるだろうが、いまやマニアたちのリッピングの愉しみ(本編[133]を参照)が2面モノをデータ圧縮などしながら1枚のDVD-Rに焼くことに存するのであってみれば(って書くからといってぼくは実践していないヨそんな高度なことは)、両面2層というのは、逆につまらないのである。
モダニスト 2003/01/19日01:58 [194]


. 出来は悪いが…R  
2時間ほど前にアップした本編[229]は、タイトルも中味の構成もイイマイチだが(と書くといつも満足しているように誤解されるのもイヤだが)、とりあえず年明け後の連続アップ記録をもう少し更新したいので、ああいう(この文章の投稿時点ではすぐ左に読まれる)状態で…。
モダニスト 2003/01/15水04:14 [193]


. ポリーニとブーレーズの競演、速報(どこが?)〈後編〉R  
[直下の2-191から続く]
 と、放送が終わって(否、ポリーニの1998年のリサイタルでベートーベンのピアノ・ソナタ第32番が演奏される映像に切り替わっているのを横目に)、ほとんど話すように書いてきたが(この速度で行けば30分で800字どころか1500字は書けよう)、じつは演奏内容に係る部分については私は、不幸にも先に、『文學界』2003年1月(新年特別)号に掲載された浅田彰の評(「音楽の手帖」)を読んでしまっていたのだった。そしてまた、書きつつ気づいてはいたことだが、認めようが拒もうが勝手に刷り込まれている(今回にかぎらず以前から)彼の聴き方が、どれほどこのたびの私の聴き方に影響しているのか、十分計りかねている。
 とくに新年特別号だからというのでもあるまいが(笑)、浅田はポリーニの名演の数かず(私と同じ京都、距離にして数百メートルのところに住んでいる(!)のに、9回のコンサートのうち4回、足を運んでいる)に接した喜びによって、いつも以上に軽やか、かつ豊か(通常の倍量の30枚程度?)に、批評的言説を振り撒いている。
 だが、機会をあらためて書きたいとも思うが(とっくに800字をオーヴァーしていて、さりとて削るのも面倒なので別途、凝縮して本編に記したい)、それは多分に浮わついてもいる。音楽や映画にかんして素人の私が使うならまだしも、「素晴らしい」や「スリリング」、「圧倒的な出来映え」や「感動を与えられた」、「私は泣いた」など、批評以前の言語が紙幅の何パーセントかを確実に占めている。(それなりの出自を踏まえて「立派」という語を渡辺保[演劇批評]が使うのとはワケがちがうと思う。)
 それにそもそも、「交叉点に立つポリーニ」の表題(本文で敷衍される「かつての若き完全主義者が、円熟した巨匠となることができるのか」)の、平凡。このところの浅田の音楽評は、私は遠慮がちに上に「刷り込まれている」と書いて後続者/読者としての敬意を払ったけれど、逆に、本文や表題を読む前に何をあつかっているかを知ることで、中味の批評の予想がつくようになってきてもいる(内田光子やブレンデルのときはデジャリュdeja-lu[既読]感覚に囚われたサ)。ということはこれは、もはや批評の体をなした批評以外のもの(たとえばどんな客が来ても無難にこなせる占い師の見立てのような)ではないのか。
 このことはしかし、このような速記の場所で論じ切れるものではない(日記本編でも同じだが)。
   *
 音楽ネタがこうして800字オーヴァーの事態となったので、さあ、これから他のネタを探して本編用を書くのか、書かないのか。――
モダニスト 2003/01/06月00:31 [192]


. ポリーニとブーレーズの競演、速報(どこが?)〈前編〉R  
 昨秋、東京で1ヶ月、9度にわたって開かれた「ポリーニ・プロジェクト 2002」のコンサートに、一地方に住まう私は一度も足を運べなかった。一連のコンサートのうち、11月22日のショパン&ドビュッシー・プログラムはすでにNHK教育で放送されている('02/12/01)。もちろんテープは回したが、録画されたものはえてして一度も再生されないままライブラリィに埋もれてしまう。じっさい私は上記を再生しないうちに年を越し、そればかりか年末の大掃除の最中、テープの行方を見失っていた。
 そんななか、同じチャンネルで今夜(22:00〜23:35)、同じプロジェクトの別プログラム(プロジェクトの冒頭を飾る10月21日のブーレーズ/ロンドン響との競演)の放送があるのを知るにおよんで、私は、せめて放送にリアルタイムにつきあって見/聴き、それを速報することとした。(何がエライのだ? どこが速報なのだ?)
 ソリストの登場に先んじて演奏されたブーレーズ自作の《弦楽のための本》――NHKは番組表では《弦楽合奏のための書》と表記しているがマラルメを踏まえているのだから「本」と訳すべきだろう/当日のプログラムはどうなっていたのだろう?――は、演奏家に極度の緊張を強いる作品とこれまでは見えたが(VPOのザルツブルク祭の演奏風景がDVDで見られる)、さすがロンドン響、颯爽と弾き、すでにこれが古典の部類に属している(作曲家の死後も他の指揮者で演奏されるかどうか怪しいが[笑])ことを、私に実感させた。
 ついで、ストラヴィンスキー《火の鳥》より先に置かれているとはいえこの日のメインというべき、バルトークのP協第1番。これまで実演風景(録画映像も含めて)に接したことのない、CDでのみ聴いてきた(めったに聴かないヨ[笑])作品だが、ピアニストにとってはもちろん指揮者そして伴奏オケにとっても異様に難しい曲であることが音で、映像で看取できた(どんな場面でもけっして乱れないブーレーズ)。そして単純にいって、何と美しい曲であることか(とくに第1楽章)! このバルトークを、そしてシェーンベルクとヴェーベルンを、ヒンデミットやコダーイを、それらを有した20世紀は、もうそれだけで18世紀に、音楽的に肩を並べる。(J・ケージさん、さようなら。)
 ピアニストが舞台から降り、客席に座って聴く、ストラヴィンスキー。ブーレーズの端正な指揮ぶりはここでも同様だが、私にはロンドン響の上手さが印象的に映った。音楽評にかんしてかなり信頼をおいている許光俊氏などでも、ロンドンのオケをウィーンやベルリンのそれより一段低いところにおいているが(じっさい彼は凡庸を覚悟で地域差を語っている)、作品の即物的な理解(それが可能であるならば)には、BPOはさておきVPOの美しい(だけに聴こえることがある)演奏はかえってマイナス、ロンドンっ子(ばかりとは思えないが)のシャキシャキした演奏のほうがふさわしいのではないか。
 ――と、ポリーニでもブーレーズでもない「彼(女)ら」のことを思い、そして書くとき、私は、わがシュタルケル(チェロ)が1960年代にマーキュリー・レーベルに残した協奏曲の名演・名盤のいくつかが同じオケを伴奏に得ていた事実を、きっと踏まえ、その子どもたちに敬意を表している。
   *
[一度投稿したが字数オーヴァーで拒否されたので、ここで前後編を分ける。]
モダニスト 2003/01/06月00:30 [191]


. やっぱりボランティアはやめようね――[217]への補遺R  
字数の関係とはいえ、昨夜書いた[217]における池田ボランティア否定論の紹介はいかにも言葉不足である。ちょっと生真面目に過ぎる気もするが、以下に、「たとえば」で始めて具体的な例が語られる2箇所を引用し、補遺としておきたい。
●「たとえば、空地の草刈りを町内会のボランティアでやったとしよう。町内美化と犯罪予防のためには草刈りは善かもしれない。しかし二酸化炭素を少しでも吸着させるためには、草刈りはしないほうがよいかもしれない。あるいは、草刈りを行って商売している人もいるかもしれない。ボランティアで草を刈るのはこの人たちの商売の邪魔をして生活を脅かすことになろう。一般的にボランティアでやる行動が、人のいやがる行動であるならば、この行為は賃仕事になるに違いない。ということは、すべてとはいわないまでも、一部のボランティアは他人の商売の邪魔をしていることは間違いない。雇用の確保という観点からは、ボランティアはむしろ、やらない方がいいのである。/そこまで考えれば、ボランティアとは、本来は金を支払うべき仕事をただでさせるための(特に、行政が税金を使ってやるべき仕事を人々にただでさせるための)、巧妙なコントロール装置なのであろう」(p. 64)。
●「たとえば、ボランティアで老人ホームに、劇や楽器演奏をやりに行く人たちがいる。中には楽しみにしている老人もいるかもしれないが、イヤイヤ駆り出されている老人もいるに違いない。それでも義理で拍手のひとつもせねばなるまい。無理矢理ヘタな劇を見させられ、更にはヘタな演奏まで聞かされて、今日は疲れたなあ、もうカンベンしてほしい、とほとほとイヤになっている老人たち。一方で、みなさん、喜んで頂いて嬉しいデース、来年また来マース、と有頂天になってはしゃいでいるボランティアたち。これじゃ、どっちがボランティアかわからねえ。[…]ボランティアで老人ホームを慰問している人たちは、どこかのホールを借りて有料で演奏会をして義理以外で入場してくれる人がいるかどうか、一度考えてみたらいいと思う。ほとんどお客さんが来ないようであれば、今度老人ホームに行く時は、ただではなくて老人たちにお金を払って見て頂くようにしましょうね」(pp. 67-68)。
モダニスト 2003/01/03金17:44 [189]


. 余った時間にR  
前日ボツにしたもののリサイクルによって本編[211]が短時間でなったので、余った時間に2つほど雑記を(速記状態なので悪文容赦)。――
●授業(大学院ゼミ)でRPG(Roll Playing Game)に興じた。ぼくは浅学にして知らなかったのだが、テレビゲーム誕生以前にすでにその前史はあり、否、テレビゲーム誕生後もそれは繁栄の一時期を築き、今でもテーブル・ゲーム(TRPGと呼ぶらしい)として固定ファンを有している。と説く、それを一個の文学形式として論じようとする果敢な大学院生のエッセイ(学期末にわがサイトの一隅に掲出するだろう)に触発されて、今日は他の受講者とともに、ある古典的なゲーム(名前は忘れた)に参加したのだが、はじめはキャラクターシートなるものの意味もよくつかめず、機会機会に次の行為の選択を問われてもトンチンカンな答えばかりを返すことになった。マスター(その大学院生が務めた)以外の3人は皆、初心者だったので、通常は1時間ほどで済むゲームをまったく宙ぶらりんで中断せざるをえなかった。そのあと、マスターだけが読むシナリオブックなども見せてもらって、ようやくゲームの全貌がつかめた。面倒だが奥は深く、RPGといえばテレビゲームと世間が思い込んでいるときになおTRPGにハマり続ける者がいる理由の一端が理解された。
●この日記(本編[210])を読んだり、あるいは仕事上のメールのやりとりによってであったりと、いろんなかたちでわが大学の労働条件を知った同業者諸氏から、「27日(金)まで授業があるんですか!?」と、驚きの声が寄せられている。命に別状のない病気で入院しているときに、たくさんの見舞いを受けるようで、なにやら妙に嬉しかったりする。ギリギリまで働くのも悪くない、と思ったりもしてしまう。マゾっぽい、だろうか。
モダニスト 2002/12/25水20:51 [188]


. ボツ草稿R  
 買ったり、借りたり、悩んだ末に棚に戻したりと、先の土日にわが手が触れた映画ソフトは少なくないが、多忙をきわめたここ数週間にテレビで放送されたのにチェックできなかった作品数に較べれば、微々たるものといわねばならない。そう、テープを回したのは先日BS2で深夜に放送された、ナチ前夜にレニ・リーフェンシュタール主演で撮られた異様な山岳映画数本(関連した研究に携わる学生がいる)だけだったのだが、あるいはもっと長期的にみて私の収集癖(話題作は録っておきたい/借りるより買いたい/借りるとしてもコピーを手元におきたい)によってそこそこの本数がストックされていたところで、たとえばWOWOWで流すとしたら何日もつというのか。あるいは問いは、以下のように反転もする――そうして言い募ったわがライブラリの貧しさだが、そこにあるソフトの何割がじっさいに私によって(再)再生されるというのか、と。
 ベンヤミンの複製芸術論は、成長をとげつつあった映画というメディアを問題の核心に据えてはいたが、いまだ民生レベルでの録再技術を考慮に入れようもない時代の産物なので、今日的な意味は限定されざるをえない。飛躍的に増大する映像的記憶にたいして、人間の視覚が行使しうる能力の問題を、DVD(「その時点においてもっとも流通している録再規格」というほどの意でもちいている)の美学/倫理学や、弥増すガイドブックの効用も含めて、広く深くなす考察は、存在するのか。――
 などといったことをいちいち考えながらではないが、何本かのソフトを再生したので、今夜はそのうちの一本を紹介したい。
 …と、ここまで本編[211]としてアップすべく書いてはみたが、そもそも800字内の配分を誤っているうえに、毎年恒例の「明石家サンタ」(フジ・関西系)が始まったため気がとられて30分を超過してしまった。というわけで、今宵はこちらのメモ欄で…。
モダニスト 2002/12/25水01:51 [187]


. イヴの意味R  
 先日某紙に「なぜクリスマス・イヴなのか」の平易な説明が載っていたので紹介しておく(本編[210]への補遺として)。イエスの時代のユダヤ社会では、日が暮れると日付は翌日に変わったのだという。その伝でいくと、現在の感覚でいう24日の夜にイエスが生まれたとすると戸籍(があったのであれば/あっただろう)の上では25日が誕生日と記される。というわけで、これまでにもいろいろな説明は読んだが、これがいちばん単純で納得しやすいかと。
 聖夜というくらいだから、われわれは24日にその誕生を祝すべきであろう。否、祝いたくなくてもケーキはその夜、食すべきであろう。
モダニスト 2002/12/23月23:52 [186]


. [208]「死を忘れるなかれ」への補遺R  
 さっき喫茶店で[208]をアップしたときは、意図して書かなかった、というよりも実はその瞬間はすっかり忘れていたのだが、きょうはわが子の6歳の誕生日なのであった。とすれば、本編に記した、保育所で「大きな古時計」を歌うメメント・モリの「意義」が、私には二重性を帯びて感じられたのは、当然である。
 その歌によってか違う事由によってか、死すべき運命について早くも直観する子がないとは限らない。じっさい何度も授業などでは告白したことがあるのだが、幼稚園か小学1年生のときに(と明言しうるのはその幼少期を過ごした福島県の小さな社宅での出来事である記憶が鮮明だからだ)さる昼メロで、石で棺桶のフタを打ちつけるその傍らで幼児が泣く光景を見て〈死〉の観念を体得し、打ち震え、不眠に苦しんだのは、ほかならぬ私自身だったからだ。
 「古時計」と「老人」のアナロジーはそのまま、それを歌う「私」そしてわが「子」にまで波及する。私が私自身の死を恐れるのは約35年前といささかも変わりないが、ふつうにいけば私が死んで数十年後には子も死に、それ以前に彼もまた死の恐怖を意識し始めるであろう、そのこと――否、そう考えるばかりかこうして書いてしまっていることが、たしかに自身でも異様に感じられる、夜なのである。
モダニスト 2002/12/21土17:45 [185]


. 訂正[第2版]R  
下の[2-182]の注1に、「150歳になったら」というバカげた仮定がでてくる。否、キィタッチのミスなの。「50歳になったら」が正しい。
モダニスト 2002/12/20金12:36 [184]


. 〈補遺〉1時間前まで飲んでいた酔っ払いがなぜ[207]を書いたかR  
 本来ならコレ(いまからココに書く数十字)の文章もふくめて800字に収めるつもりだったのだけれど、どうもそれは無理そうなのでココで告白するのだが、今宵[207]の文章をアップするのは、何か書きたいというよりも、泥酔に近い状態のなかであっても30分ででどれほど冷静に文章が書けるか、の無益な賭けのためなのであることを、告白しておきたい。じっさい、作文は楽しい〔注1&2〕。
 ※注1: 150歳になったら、本を読んで、そして本を書いて、それで、誰にも教壇でエラそうに振舞うこともせず余生を生きる、老人になりたい。
 ※注2: 作文(ecriture)とは何か。一個の生命をもった個体から、生物学では説明のつかない思索がひねり出され、ただ単に思索されるだけでなく明記される、そうした営為だ。否、そんな単純なわけはない。相当酔っている。これにて〈補遺〉はおしまい。
モダニスト 2002/12/19木23:13 [182]


. フォーマリストの卒論指導[予告?]R  
 昨夜、本編[204]をアップした25:00過ぎから見るつもりだったアンゲロプロスの「永遠と一日」は、主役のB・ガンツの顔が映った瞬間に、これから続く映画の時間のことが重荷に思われて、早々に再生を停止した。つぎの面談時までには見ておくからと約束していた、それを主題に卒論を書く学生A君(映画部部長も務めた)にはゴメンなと謝りながら、そのわりにはエラそうな指導をおこなった。
 だが誤解を恐れずに書けば、卒論指導は中味を読んではいけない。中味を読まない段階でも目次構成だけで何ごとかを語る能力、きちんと文献表をつくる能力、フォントの大小や行間を美麗に整える能力、…こうした諸力にさらに本文と注を腑分けする能力が加われば、それらによったカタチ(形式)がある程度は中味(内容)を練り上げるのである(もちろん毎年このレベルを超える学生も数人はいるが)。
 さすれば、コレすなわちフォーマリストの卒論指導――と、上と同量ほども続けて敷衍すれば今夜の本編分に達するのだが、かかえる授業(明日はWEB配信実験用のビデオ収録がある)やら他の雑務のことで頭がいっぱいなので、今夜はただ予告として…。
モダニスト 2002/12/17火00:54 [181]


. 首が…R  
…回らないとは、このことである。卒論提出締切を10日後にひかえて、スタートが異様に遅かった今年度の4回生もようやく焦り、うろたえ、慌てふためいている。通常の公務にこの混乱が加わり(さらにいつもながらの学内業者的仕事が追い打ちをかける)、ぼくは今日一日、10分と続けて休息できなかった(夕食の最中にもメール着信のメッセージが鳴り続けた)。というわけで、日記本編を書く30分など捻出しようがない。明日もたぶん同じだろうが、そういえば昔、まだ掲示板「第2室」を管理していたころも、この12月だけはそっくり休業状態にしたっけ。
モダニスト 2002/12/10火03:28 [180]


. 役立たずの注釈(本編[197]への)R  
 「当夜」のうちに書いておきたいこと(本編[198])を25:00ころにアップしてしまって1時間以上も経ってから、そうして一時消えることになった前夜分のテキスト(同[197])の注釈を書いても仕方ないところはあるが、24時間のうちにそれを読んでくださった方には無意味ではあるまい。――
 「映像のネクロフィリア」と題された講演で私が話したかったのは、直前に本編[192]、[195]、[196]に記したDVD絡みの問題では、ない。それは2章構成の本論部分の前半「DVDの倫理学」と結論部分でそれなりに面白おかしくとりあげたが、本論後半「映像の殺戮」(タイトルは不気味だ)でむしろメインに論じたのは、やはりこの日記の[163]で論じた、いわば「〈承〉の美学」(笑)のことであった。そこでとりあげた「アマデウス」と「ベルリン・天使の詩」の2本から、片やこれから悲劇に向かう、片やこれからハッピーエンドに向かう、それぞれの〈転〉に先立つ、いかにもといいたい〈承〉の部分を各5分ほどを「上映」して、淀川長治気分で講釈などを垂れた。そう、そうやって5分ほどを切ってもってくること自体がすでにじゅうぶんネクロフィリアなのだ。
 結論近くで、最近ひそかにハマっているゴダール遊びというのを披露した。パワーポイント文書のアニメーション機能をつかったもので、たしかWEBでもスライドショーは可能なはずだから研究して、こんど公開しよう。
モダニスト 2002/12/08日02:28 [179]


. また新作――リチャード・シュスターマン講演会告知R  
1週間ぶりに新作PDFをアップします(→こちら)。直前に迫った自分の仕事のことはさておいて、他人の講演(この当日は文学部卒業論文提出の締切だから聴講もむずかしいナ)の告知を最近は毎週のようにこなしているのですが、まあ、こんなことも年内いっぱいです。この雑用から解放されたら、つぎは保育所関係のビラなんかを掲出してPDFギャラリーを正式に立ち上げたいと思いますが(オイちゃんとした仕事をするんとちがうん?)、いずれにしても、以前[2-172]で書いた注意事項をくりかえし記しますと、「PDFに変換すると、網点のようなパターンはモニタ上では任意の/類似した濃度のパターンに置き換えられ、あるいはモワレのような状態を示すようです。忠実な再現を求めるかた――そんなひとがあればの話ですが――には、高精度のレーザ・プリンタなどによる出力をお薦め」する次第です。では。
モダニスト 2002/12/03火22:12 [178]


. つのぶえR  
たったいま本編[191]をアップしたのですが、字数が足りなくてかけなかったことを補足するなら、同曲第4楽章ほかの下敷きとなるマーラー自身の歌曲《子どもの不思議な角笛》の角笛を「かどぶえ」と読む恥ずべきミスを犯し、授業終了後に学生の一人(「第2室」の常連であるくずさん)から小声で「アレ、「つのぶえ」ですよ」と誤りの指摘を受けたのは、ほかならぬ私自身なのでした。来週の授業冒頭で顔を赤らめつつ訂正しますが、その前にこの場所を借りて謝意(恥を表したいと思います。
モダニスト 2002/11/29金01:45 [177]


. [2-174]および[同175]への補遺あるいは不信R  
わからないことだらけなので調べものをしていたらまた朝を迎えそうな気配である(授業は2時限目でそのあとも延々と夕刻まで公務が続くのに)。が、[2-174]に引用したクロプシュトックのものとされる詩の、まだ前半に位置する「信じなさい わが心よ/お前が 何も失っていないことを」の句を含めてそれ以降がそっくりマーラーの創作であると指摘する文献に出会った。管見では他にそうした主張に出会うことのできない、この指摘が事実であれば、18世紀の詩人クロプシュトックによる部分は何ら分裂症的でなく、ただひとりマーラーがぶっ飛んでいるということになる。そうなれば本編[190]はあの緒方貞子事件(笑;[021]を参照)以来の大失態ということになって、それなりの自己批判が必要となるが…、それにしても、こんな重大なことをなぜほとんどのマーラー論(プロのも異様に充実したHPをつくるアマチュアのも含めて)は触れない? ますます私にはわからないのである。
モダニスト 2002/11/28木04:51 [176]


. 下の[2-174]への付記R  
外国文学の邦訳なのに訳者表記を欠いていました。否、というか、わからないのです。訳者が判明するいくつかの版(主としてCDのライナーの)はバラツキが多くて、しかもぼくはドイツ語原文に照らして判断する術をもたない。なので、《復活》がNHKで放送されるときの字幕をもちいたのです。小澤/SKO、インバル/フランクフルト放響の、2つの映像を比較しましたがまったく同じなので、NHKはこの訳で一貫させているのだろうことがわかります。で、NHKはさすがに視聴者からの突っ込みに耐えるために訳語選択とかには慎重なので、いちばん安全だろう(良し悪しはさておき)と踏んだ次第です。公共性に鑑みてのことか、訳者の個人名が出ない――ま、聖書の訳みたいですね。
モダニスト 2002/11/28木01:04 [175]


. 本編[190]のための参考資料=クロプシュトックの宗教詩「復活」R  
 復活するだろう/ちりのように はかないものよ!
 短い憩いの後に/不滅の生命を/お前に与えてくださる/お前を呼ぶ主が
 再び花開くために/お前は 種としてまかれた
 収穫の主が来て/穀物の束である われらが死者を/集めて行かれる
 信じなさい わが心よ/お前が 何も失っていないことを
 すべて お前のものだ/お前があこがれ そして愛し/得ようとしたものは!
 信じなさい お前は/いたずらに この世に生まれ/理由もなく 苦しんだのではないことを!
 生まれ出たものは/滅びなくてはならない/そして 滅びたものは/復活するのだ
 震えおののくことはない/生きる覚悟をするのだ!
 苦しみよ 死よ/私は お前から逃れる/今や お前は 征服されたのだ
 私は勝ちえた翼を広げて/燃える愛の力で 舞い上がろう/はるかな光のもとへ!
 勝ちえた翼を広げて!/私は舞い上がろう
 復活するために/私は 死ぬのだ
 復活するだろう!/わが心よ 一瞬のうちに!
 お前がうち破ったものが/神様のところへ/お前を連れて行く!
モダニスト 2002/11/28木00:57 [174]


. 新作PDFR  
先日のに続き、新作をアップしておきます(→こちら)。裏方として関わっている連続講演会のビラで、4回あるうちの初回分はすでに終わっていますが、きょう裏面(P. 2)ができたので。ちなみに、教員がこんなことをするの?、と訝る正常な頭脳の持ち主の皆さんのために注記しておきますと、毎回業者に発注していると予算が足りないので、自前で済まそうと、学校側はじつにセコいことを考えているというわけです。ま、電波芸者ならぬ学内業者といったところです。
モダニスト 2002/11/25月21:54 [173]


. ドゥルシラ・コーネル講演会告知――PDFギャラリー試験運用を兼ねてR  
昨夜の本編[186]で予告したPDFギャラリーの試験運用の意味合いを込めて、現時点でまだ有効なビラを掲出しておきます(→こちら)。来週開催される、ジェンダー論に新しい地平を拓く(らしい)ドゥルシラ・コーネルという女性研究者の講演会(というよりも本来はコメンテータとして記される竹村和子氏や司会・松原洋子氏も対等の立場で登壇するシンポジウムとして企画された)を告知するもので、「電波芸者」ならぬ「学内業者」状態のぼくは、ビラの文字情報に一定の責任は負うものの中味の面白さまで保証するものではありませんが、ま、ひやかしにビラだけでもごらんくださいまし。(PDFに変換すると、網点のようなパターンはモニタ上では任意の/類似した濃度のパターンに置き換えられ、あるいはモワレのような状態を示すようです。忠実な再現を求めるかた――そんなひとがあればの話ですが――には、高精度のレーザ・プリンタなどによる出力をお薦めします。)
モダニスト 2002/11/21木20:52 [172]


. 本編[185]への注記R  
本編[185]がアップされたのは、そこに記された日(20021118)から翌日へと日付が変わって5時間半も経ってからですが、夕食後の異様に長い仮眠のあと、「翌日」の授業の準備や雑務を済ませてこれからもういちど寝るまえの、あくまでも「当日」分として書いたつもりなので、そのままの日付表記とします。(> それを書き始めた28:55の時点ではカウンタは前夜までの14772だったのに、アップ直後に1増えていたので、そのとっても早起きな1読者への注記として。)
モダニスト 2002/11/19火05:43 [170]


. マリアの満足――リハビリにかえてR  
 ある部活の顧問を今年度から務めているのですが、その部員たちがフリーペーパーを発行する(第1号は次の週末の学園祭で)というので、エッセイの寄稿を求められていました。そもそも顧問を引き受けるところからあまり気乗りがしなかったのですが、日記のリハビリも兼ねて、さきほど急ぎ一文を草しました。「マリアの満足」と仮題を付していますが(校了までに本文も若干手直しされるでしょう)、内容としては本編[161]と[163]の合体版となっています。真にリハビリとするためにも、ここに掲出しておきたいと思います。
 ――[以下、本文]
 二度と戻らない中学生のころ、映画監督になりたかった。ワールドカップ会場にもなった長居スタジアムの近所に住んでいたので、阪和線で天王寺ステーション・シネマ(今もあるのかな?)に足繁く通った。DVDソフトが安くなったので映画は借りるより買うことが多くなった昨今だが、ショップでつい手にとる作品のパッケージに1974年前後の製作年が記されていることが多い。おそらく「原体験」が影を落としている。
 その天王寺の、わがシネマ・パラダイスで最初に観たのかどうかは定かではないが、「サウンド・オブ・ミュージック」のDVDを先日購入し、久びさに観た。そう、前半(途中にIntermissionが入る)は日曜日に家族そろって、後半はひとり深夜に。後半の冒頭、マリア(J・アンドリュース)がトラップ家の家庭教師職を投げ出して修道院に舞い戻ってきたとき、彼女が修道宣言をする(もう俗世に戻らない)と主張しているのに職場へ、彼女が/を愛するトラップ大佐の元へ、つれなく追い返す院長のセリフや歌詞に、単純に元気づけられた。終盤、音楽祭の最後に大佐が歌い、家族が助け、そして会場の聴衆たちが思わず合唱する「エーデルワイス」の調べに、涙がハラハラと流れそうになった。齢のせいかもしれない。家族で観る前にひとり、この後半部を予習(復習?)しておいてよかった。
 ところで前半/後半といえば、私はいちど観た映画の前半はくり返して観るくせに後半の、文章の起承転結でいえば「転」以降はそこで再生をストップすることが、往々にしてある。悲劇的な結末にたいする、私の弱さに起因するといいたいところだが(「アマデウス」なども前半との対比でじつに辛い)、じつはハッピーエンドの場合も大差なく、つまりは映画の面白さは「転」以前に存すると考えているかのようなのだ。否、正確を期せば、「起」=冒頭はどんな題材や演出でも面白くあるほかないとすれば「承」の、比較的ダラダラとした時間が好きだ、といい換えるべきかもしれない。
 そんなわけで、先日その後半を15年ぶりに観た「ベルリン・天使の詩」もまた、ロードショー公開初日にフラフラと入った日比谷シネシャンテでハッピーエンドに安堵してから、テレビや市販ソフトによって前半だけは何度も見ている1本なのだった。否、この映画こそは、B・ガンツ扮する一人の天使が自身の退屈な職能を放棄することを決心するまでの「承」の部分が、まさしく退屈でありながら充実もしていて、それに較べれば、死すべき人間となってサーカス娘と結ばれる、文字どおりの「結」の部分は久びさに観ると、これまでマイ・ベスト3に入っていたこの作品の順位を若干下げるに足るものと思われた。
 というより、やはり鑑賞者の問題なのである。それを自覚しているからけっしてシネ・フィルを名乗らないことにしている(名乗るとすればシ・ネクロフィルだ)。映画という名の修道院にいちど入ろうとしたにもかかわらず院長によってそこから追い出されるマリアのような存在で満足なのである。
モダニスト 2002/11/13水06:54 [169]


上へ    次ページへ ->






RAIBB2.18 - wakatiai.com
Notregisted
2024/05/04土05:27