一覧 内容 新着順
P   T        ページ 1 2 3 4 5 6 7 8



ビンラディン証拠ビデオの見方[深夜の速記メモ版]R  
 トラボラだかの民家から見つかったという、いわゆるビンラディン証拠ビデオを、当初そういう論調があったようにあのヒゲの人物がほんとうにビンラディンであるのかどうかを疑いながら見るのは、心底馬鹿げている。
 理由は、端的に2つ――。
 (1) こんな確実な物証を待って判断することは、単純左翼思想家には許されても、政治家には許されない。そしてそのような意味のかぎりでの政治的判断のための素材は、じゅうぶんにあった、といわねばならない。
 (2) 軍事行動への反対は本質的に、ビンラディンが犯人であったとしてもなおそれへ反対するというものでなければ、多少ともの意味すらも有さない。軍事行動への賛否に関わるのは、証拠ではなく、論拠である。
 それにしても、なぜこれが民家から見つかったのか、の問いについては、少なくとも管見では未だ誰の口からも聞きえていない、以下の分析が、いちばん妥当であると、私は自負する。
 つまりあれは、わざと民家に残された。
 あのテープでは、たとえば夢にまつわる興味深い会話が聞かれる。また、いくつかの発言内容には、イエスのそれを思わせる、比喩的なウィットすらがある。残されたことで、われわれはそれを見る/聞くことになった。
 そもそものビデオの収録については、日頃からビンラディンの映像を残すスタッフがいるのだろう、という指摘は、いかにもありそうなことである。
 このたび「発見」されたテープは、ビンラディン主犯説を疑い得ないものとするが、それで目が醒めるのは、正確には右でも左でもない思索なき人びとなのであり、つまりいまそのことを隠しても仕方のない局面で彼は、みずからのメッセージを世界にたいして残すこととした。
 思い出してもみたまえ――テロ後、数週間を経たころから、彼の発するメッセージを極力、具体的な映像・音声によっては放送しないように、との要請が各種メディアにたいしてなされていたことを。ところがいまやアメリカ政府がまんまとそのメッセージを伝える、文字どおりのメディア(媒介者)になってしまったのである。彼が主犯であることを示す必要性があるという判断はわかるが、今回の軍事行動の意義をすでにじゅうぶん理解している者にとっては、なんともそのような無防備な資料公開の仕方は避けてほしかったと思う。
[以上は、12月20日(木)の授業「表象批判II」で話したことの一部と重なり、当日記にも記すであろうことを下の[59]でふれている。]
モダニスト 2001/12/23日02:42 [61]


雑記は続くR  
●母子が24日(月・祝――ただしその日までわが立命館は授業期間でぼくも朝から2つ会議がある)まで、富山・魚津の実家に帰省して、いない。年に何日か訪れる、静かな心やすらぐこの夜に、いただきものの"ゆず"を湯船にうかべてじっくりと温まった(すこし疲れがとれた)。湯のなかでぐいっとそいつをしぼったりしたものだから風呂場はむろん、家中に香りがひろがった。おまけに、ひとりだからお湯がもったいない、と洗髪後シャワーを浴びる替わりに湯船のをかぶったら、そのあと何度すすいでも髪から柑橘臭が消えない(部屋についた香りなのかな)。まあ、冬至なんだから良しとしよう。
●「花様年華」(過去の日記[とくにVAIO日記のほう]で何度も言及している)のDVD国内盤を購入。国内盤とわざわざ書くのは香港盤をすでにYahoo!のオークションをつうじて購入していたからだが(過去の日記の11月13日[火]を参照)、その直後にもらした「どうか国内盤DVDは愚劣な吹き替えを含むがゆえのモノラル音声でありますように」という願い(同11月16日[金])に反して、それはステレオどころではない5.1chドルビーサウンドで、おまけに映像は、こちらは予想したとおりとても鮮明で、しかも上映時同様の16:9のビスタサイズだった。たしかに存在した「愚劣な吹き替え」のトラックは見なけりゃいいんだから減点材料にならないとしたら――でもちょっと見てみたい気がする(笑)――、何がわざわざ苦労して香港盤を購入したメリットといえるだろうか!? そうだ、香港盤には国内盤にはない英語の字幕がついているゾ。といったところで、セリフが広東語なんだから英語のリスニングの勉強にもならない。
●――と、これからその映画の世界をもういちど訪れるのかと思いきや、25日の朝が締切の執筆の仕事(正確にはかつて書いたもののリライト;当初の締切はすっかり過ぎている)があって、そうもいかない。今夜のところは上のような比較チェックのみで。
モダニスト 2001/12/22土22:56 [60]


雑記R  
●卒論提出締切日(20日)には今年もやはり、あってほしくなかった小さな悲劇が、あった。こういうセミ・パブリックな場処で書く内容ではないが――おかげで基本的に楽しいもので(あるいは喜劇的ですら)あった他の学生の分について言及することもはばかられるようになる――、責任の一端は指導教員=主査(予定)者にもあると、反省はしなければならない。
●その悲喜劇も少しは関係しているにちがいないのだが、見かけはその締切から少し(あるいはその指導のピークからはだいぶ)遅れて、わが身体にガタがきた。もうほんとうにダルくて、昨日も今日も、日付が変わる時間帯はLDの床のうえで突っ伏して寝入ってしまっているのだった。ま、きょう2限目の「西洋美術史II」で、年内の授業は一応終了したのだけれど。
●ちなみに今日は子の誕生日(5歳の)なのであった。いろいろと書き留めておきたい成長ぶりもあるが、今夜のところは、この子は父親というものは食事のあとすぐ寝てしまうんだな(わが誕生日の日もいささかも変わることなく)と思っているだろうな、という反省のみを――。
●その他、余力があれば本編へのアップも睨みながらこの場処に「速記」しておきたかった(おおげさなようだがその力もいまは尽きている)話題について、さしあたり(つまり今後の継続的考察までは放棄せずに)週刊誌ばりにタイトル[仮]を――「ビンラーディン・ビデオの正しい見方」(20日の「表象批判II」で略述済)、「いま明かされるアガンベン氏の過去」(21日の「西洋美術史II」で略述済)。
●以上、今夜もまた推敲もせずに。
モダニスト 2001/12/22土03:11 [59]


訂正 などR  
●たしかにすでに本編[002]で紹介済みの北村稔の新著は、下の[2−54]に記すごとき『南京の真実』ではなく、『「南京事件」の探求――その実像を求めて』が正しい題であった([002]ではもちろんちゃんと紹介している)。記して訂正します。
●――といった誤りもそれに帰そうとは思わないけれども、明日ついに提出締切を迎える卒業論文は、じっさいの指導のピークはたしかに月曜日にはとっくに過ぎたのだけれど今ごろわが身体と精神に、疲労のほうのピークをもたらして、夕食後はひとときも机に向かうことを許さない(要するに「仮眠」を余儀なくするということだ;あるいは本編の更新を2日連続で果たす元気はないとも)。そして、こんなときにも授業負担は軽減されることはない(明日も2コマ)。試練は続く――と、自己を主人公としたドラマの主題歌としていま、シベリウスが室内に流れている(作曲家が怒るでぇ)。
モダニスト 2001/12/20木01:47 [58]


続編のためのメモ――でも書く気があんまり起こらないのに本編[009]を消したい一心で闇雲にメモっているだけなのでちっとも読むべき出来に達していないR  
 そう、「死んでナンボ」ということでは、タリバンに一時拘束された日本人ジャーナリストにまつわっても、たしか同様のことを感じたっけ。
 つまり、登山に出かけて遭難する者にたいしていつもそうであるように、このたびもその柳田某にたいする同情の念は、ぼくにはいっさい湧いてこなかった。そうした危険を承知で、彼らはそこに赴くのであろうからであり、またじっさい、ジャーナリスト=非スパイという称号(タイトル)――だがこの場処[002]で以前ふれたように北村稔『南京の真実』が明かした英国人ティンパリーみたいなケースだってあるだろうに――を与えられて自由の身となって彼が帰国を果たしたさいには、雪山から命からがら救出された登山家以上のカッコ悪さを、ぼくはそこに認めざるをえなかったのである。
 ひるがえって、あそこでタリバンがその拘束を解かず、そればかりか「人間の盾」として彼を戦闘地域に随伴させていたならば、と仮想してみること――。そのときは、人質をとられてなおアメリカの軍事行動に賛同・協力するか否かというかたちで、日本政府そして国民の判断がリトマス紙による試験のごとくにして試されたことであろう。
 いずれにしても、命あった登山家が下山した翌日にはその救出のためにかかった費用のゆえに親族から「もうこれからは山には登らせない」と痛罵されているであろうように、ジャーナリストというそもそも実態たしかならぬ称号さえを柳田某から剥奪してやることは、重要な作業であるように思われる。
 いやその意味では、即身成仏を一つの理想とする世界におけるあの尼僧の仕儀もまた、やはり同様の仕置きの対象となるというべきか。
 だが、ジャーナリストをやめたらふつうの人間になればいいだけだが、ふつうの人間であることをやめて仏の道に入った者がそれをやめたら、彼(女)はいったいどこに行けばいいのか。
モダニスト 2001/12/19水15:41 [54]


未明の、ワインによって促されし、メモR  
 「[…]近代国家による単一で分割されていない人々を産み出そうとする企図は、失敗する運命にある」と、その講演原稿の末尾近くで語ったアガンベン氏は、講演後の討議(というには応酬に欠ける消化不良のものだったが)においては「World Civil War」という用語を創出しつつ、この外戦と内戦が分かち難いという以上に混交した状態を生きざるをえない、われわれの「運命」について、言及した。
 さて、この洞察=造語じたいはマクルーハンの、メディア環境が進展すればするほど世界は「村」(global village)化するという有名な予見を「父」としてもつというべきだが、現下の、すなわち「9月11日」以降の状況下において特別な意義を帯びることは、明らかである。
 問題はしかし、ここからである。
 たしかにいまは、まさにアメリカを巻き込んだ世界−内−戦(World Civil War)状態にある――西成彦氏は9月11日以降に内戦が始まったのではなくてその日のあの事件/事故がそもそも内戦そのものであったのだとまで敷衍する――、さしあたりそう表現することは可能であるとして、ならばアメリカをその内戦当事者として非難して、それで済むかの気配は、いったい何なのだ。
 洞察=分析が意義を有するのは、ある矛盾に満ちた事柄の〈可能性〉の議論にレトリカルに関わっているときであり、他方、リアリズムの観点からその矛盾の〈解消〉に向かうとき、議論はふんぷんと倫理の香りを漂わせながら、退嬰化する。
 国内における警察行為と、対外的な軍事行為の、差異が消滅して安全性(security)が、これまでになく幅を利かせる時代と、アガンベン氏は現代/現在を分析する。
 だが、ぼくにいわせれば、いちばん安全な場処にいるのは、内戦をメタ的に見渡す言説である(内戦はいまは避けられない)。ついでながら西氏の情緒的に美しい言説に抗って、9月11日の出来事が、戦争ではなくあくまでもテロであって、ましてや事故ではない、とも。
モダニスト 2001/12/19水03:17 [52]


少々の落胆R  
 本編において一部敷衍することがあるやもしれぬが、きょうの「一件」にかんするこの欄での書き込みとしては、最後のものとしよう(だってクダラナイことを書きすぎたもの)。
 議論はまだ続いているが、やはりしょせんはシンポジウム(しかも通訳をはさんだ)なのであった。つまり、ほんとうの「議論」にまでたどり着かない。しかも日本人3人のコメントのあとにとっととそこに入るチャンスがあったのに、午前中の講演にたいする会場からの質問を、ごたいそうに一人当たり3問(×2人)も紹介して、それへの回答に多くの時間をとってしまっている。(「朝まで生テレビ」でも進行をじゃまするのは会場からの質問でしょ?)
 このあと、たとえば話す自身をイメージ化することに長けた西成彦氏あたりがピエロを買って出てわざと問題提起的な発言をして場を盛り上げることもありえるが(じっさいそうだとしたら舞台上でいまじれったくしているだろうな)、しかし時間的にみて(つまり言葉の応酬としての「議論」にならないうちに残り時間は30分ほどになってしまっている)、それも遅きに失したという感は否めない。
 いずれにしても、そういう盛り上がりがこれからあろうとなかろうと、きょうは17:30には会場を出て保育所に迎えに行く。以上、誤字脱字誤文法はあらかじめ深謝(今夜もいそがしいのでコレにかんする訂正記事は出さない)。
モダニスト 2001/12/18火17:02 [50]


追加訂正[45にかんする]R  
[誤;第2段落第1文]「その理由の一つとして、[…]にたいする姿勢にある(ただしお二方とも英米圏以外の生まれである)とでも書けばそれは」>>>[正]「その理由の一つとして、[…]にたいする姿勢(ただしお二方とも英米圏以外の生まれである)をあげるとすればそれは」。――でも、午後の部のやはり会場内からアップするほどのことかい? ――いやぁ、でも気になったら直さずにはいられないのです(しかもいったん[47]としてアップしたものの再訂正なのであって…)。
モダニスト 2001/12/18火15:06 [48]


注記と訂正R  
●授業があって午前中は講演を聴けなかったという学生(しかも昼休みに図書館で下[45]を読んだらしい)から今し方、内容もさることながら投稿自体に偽装(あとから時間を偽ってアップする)があるのでは?/そうでなければかなり周りに迷惑なのでは?、と感想(イヤミ)をいわれた。だが、内容はほんとうに「さることながら」、アップはたしかにリアルタイム/会場内なのではある。というのもCGIの設定で投稿時刻が自動に表示されるのであり、また、わが隣席には同僚(何度も書いたことがあるが大学と保育所の両方における)である「ひもだY」さんがいて横目で執筆&アップを目撃されているはずだからである(その意味で「迷惑」のほうは否定できない)。
●ついでながら、いま読みかえすと1ヶ所、文章が乱れている。[誤]「もとより充実した内容の批判的紹介するものでないことは」>>>[正]「もとより充実した内容の批判的紹介を試みるものでないことは」。でも、文法的には直ったが長ったらしい悪文にはちがいないな。削除して再アップしたいところだが、[45]の時刻表示を残すためにそのままで。
モダニスト 2001/12/18火13:48 [46]


速報R  
 ヌスバウムとアガンベンの両氏を招いた講演会[44]は「いま」、この種のものとしては異例なほど興味深く聞かれ「つつある」。
 その理由の一つとして、異なる言語を話す人びとにたいして明晰に語ろうとする、お二人の英語の発話にたいする姿勢にある(ただしお二方とも英米圏以外の生まれである)とでも書けばそれは、これが内容以前の、あまりに初歩的な報告――いかに「速」報であるとしても――であることをただちに予感させるだろうが、会場のなかで書かれアップされる不謹慎きわまるこの書き込みが、もとより充実した内容の批判的紹介するものでないことは、最初から吐露しておいていい。
 それにしても、いまここでぼくがこの不謹慎な速報性をもって――つまりこの場所にいるいかなる聴衆とも意見を交換する以前に――書かねばならないのは、ともに興味深いなかでも2番手の、アガンベン氏の「内戦と民主主義」のほうがなお面白いということなのである。
 たとえば、「[…]スターシス[内戦]が同化を生じさせ、兄弟と外敵、オイコスとポリス、内部と外部とを区別不可能にする[…]。スターシスにおいてはもっとも近しい者の殺害はもっとも遠い者の殺害と等価のものとなる」(ほんの2分ほど前に通り過ぎた講演原稿の日本語訳より)といった、スリリングな論理の構築的進行は、もちろんこのように不謹慎にもキィを叩く者に十分に理解されているわけではないが、直観的な共感を瞬間瞬間に与え、また講演後に原稿を味読することで得られる喜びをすでにして予感させる。
 重要であるとともに至極当然であること(女性の権利)を語る女性・ヌスバウム氏(女性)のそれよりも、男性・アガンベン氏の内戦にかんする議論のほうが、少なくとも「いま」興味深く聞かれていることが、私が男であることの、これじたいジェンダー的な問題に由来するのではないことを、祈る。
 あっ、いまアガンベン氏の講演が終わりました。
モダニスト 2001/12/18火12:02 [45]


雑記R  
●夕刻。年1回のワクチン接種のためにセリとニゴを「ブライト動物病院」(嵐電竜安寺道駅南スグ)へ。ついでに体重を計るとそれぞれ3.7kgと4.7s。「弟」(もちろん血のつながりはないが)のほうがいつの間にか1sも重くなってしまったのだが、それはいいとして、もともとそこに問題(畸形)があるセリ[「過去の日記」の2000年夏分にはそのことがたくさん記されているはずだ]だけでなくニゴも腎臓の機能がイマイチらしい(体温が比較的低い)と診断されて、すこしショックを受けた。8歳7ヶ月で逝ったタマといい、わが家のネコはどうやらそういう子たちばかり(マリはそうした診断を受けたことがないが)のようだ。
●そのまえの、昼の時間帯。卒論の指導は、きょうの7名で、こんどこそほんとうにピークを越えた(4名にGOサイン=あとは時間の許す範囲で推敲を重ねて勝手に提出するようにとの指示を出した)。残りの、きょうまだその指示を出せなかった者をふくめた数名については、(明日は終日つぶれるので)明後日に最終チェック。まだ面談にも訪れない若干名については――いくら何でも、もう責任はとれない。
●「終日つぶれる」明日。学内で国際シンポジウム(とってもデザインがダサいのだけれどWEB上の案内は→こちら)。講師はマーサ・ヌスバウム(シカゴ大学)とジョルジョ・アガンベン(ヴェローナ大学)という、近年の思想界のスターお二方と、国内から気鋭のコメンテーター3名(西谷修、田崎英明、西成彦)+司会(岡野八代)。じつは今回のもいちおう裏方的な立場にあるが、9月の別のシンポでじゅうぶん疲弊したので[笑;ただしこれについては訳あって「過去の日記」でも書きたいことをじゅうぶんに書いていない]丸一日、聴衆としてのんびり「拘束」されることに。ちなみに夕刻のレセプション・パーティーは、細君が実習指導で遅くなるのでお迎え+子守りの責務が発生してキャンセル。ま、そういう機会が苦手な人間としてはそのほうがじつはおおいに望ましい。
モダニスト 2001/12/18火02:43 [44]


雑記あるいは、日記らしくあるためにR  
●このあいだ授業(「表象批判II」)でふれたドリカムの《決戦は金曜日》(どんな授業だ[笑])に、「わたしらしくあるために〜」という歌詞がみえる。今夜の標題はそれを流用したのだが、「日記らしさ」が何であるかが、あらかじめわかっているわけではない。あるいは、じつはこの不明の申告さえが、日記だったらとっくのむかしに書いているであろういくつかのことをこのところ書いていないことの、言い訳となっているのではないかと、すでにして自分が疑わしい。いずれにしても、そうした厄介なことは棚上げにして/あるいは逆にその棚をとり壊すためにこそ(?)、無防備なメモを――。
●15日(土)の午前は保育所の生活発表会。「生活」の何を「発表」するんだ、と最初の年は訝ったものだが、小学校なら学芸会と呼ぶ種類の発表会で、就学/学芸以前なのだから生活なのだ、といってしまえば理解できないではない命名だ。で、その意味ではじゅうぶんに学芸がかっている年長の子たち(ウチのもそれにふくまれる)よりもその「生」そのものをむきだしにした0歳児からせいぜい2歳時あたりまでの子たちの、「芸」以前の「芸」が、やはり感動的だ。そうして、こういうのをみて「もうひとり!」と誤った夢を抱いてしまう親が多いのだろう、と(じっさい、保育所に通う年長の子はウチみたいな「一人っ子」はすごく少ない)。
●きょう(16日[日])は奈良に帰省。一時期ずいぶん弱々しかった母がだいぶ持ち直し、逆に丈夫であらねばならない/あってほしい父がいくつかの部位で不調をきたしている。同居? それにもまたいくつかのハードルがあるが、そう遠い未来の話であるはずもない。
●こうした私事に(あるいは他の些事に)土日を費やしたこともあって、明日までの公務が溜まったままである。だが、なぜ土日に持ち帰る授業関係以外の公務が、教員に課せられるのか。ついでながら明日もまた卒論指導の面談が7名210分が確定している。誤解がないように書いておけば、しんどくてもこちらの仕事は、まあ楽しい。問題はこういうのではない公務のほうだ。
●さて、本編の更新は? 下[42]の「続編のためのメモ」を元に改訂してこの土日のうちに、と思っていたのだが、どうやって改訂するか、浮かばない。せめて、それだけ初発のメモの完成度が高いのだ、とでも自惚れて、今夜は気持ちを仕事へと切り替えるか…。
モダニスト 2001/12/16日23:32 [43]


続編のためのメモR  
 わが国の考古学界を震撼させた例の旧石器捏造は、行為としては万死に値しようし、そうであればこそ法は無力であるほかないこと、だから誰かが彼に天誅を下すほかないことを、先に述べた[下の本編の007]。
 だけれども同時に、それがその「学問」(ディシプリン)の体質に由来するものでもあることを、われわれは知っている。
 だってあなたは、お人よしにも「藤村新一」がひとりしかいないと思っているのか? そうでないというのなら、それはどのように証明されうるのだ?
 ザックからとりだした事物を古い地層に埋め、それをみずから(あるいは指示した者の手で)掘り当てるだけのシンプルきわまる行為が、日本中の42箇所で反復された。重大なのはこの発覚が、「現場写真」とその後の「自白」にもとづいている点であり、つまり学問の自己批評的展開のゆえなのではない点に、存する。
 ちなみに、在野にあった藤村が、たんなる功名心だけでなく「学問」(アカデミズム)への悪意をも抱く者であっのならば、「残り」の41箇所の自白以前に自死を決行して考古学にいま以上の混迷をもたらし、あるいは遺跡の地元住民にいたずらに希望をもたせ続けたことだろう。
 いや、逆説的な表現としてではなく、そうする「べき」だったのだ。彼自身ひとりのマニアであったがゆえの、最高の天誅として。
モダニスト 2001/12/15土14:12 [42]


そんな元気はない、と下[39]に書いておきながらR  
このあいだの「メモ」[36]を発展させて本編側にアップした[007]。
 いや、眠くて目の回りが落ちくぼんでいて、キィの打ちまちがいもヒドい。読み直す元気も、ほんとうに、ない(でもこれを書いてるんだな)。朝になって冷静になって読んだら削除したくなるかもしれないが、そのためにはまた次のをアップしなければならない(この書き込みにもその意味合いが多少はある)。それがルールだ。
 ルールが書くことを強いる。そして書くとまたそのルールに言及する。俗な表現だが、それこそウロボロス状態である。
モダニスト 2001/12/15土00:28 [40]


数日サボった本編を更新せねばと思いつつその元気もでない夜には、こんなつぶやきもいいだろうR  
 1週間の終わり――。卒論の指導とか会議とかで疲れが飽和状態になって廊下をのたりのたりと歩いていたら、姜尚中氏(東京大学)を講師に招いた講演会(まさに今日その時間帯に学内で開かれている)のポスターが貼ってあるのに、気づいた。とたんに何やら疲れが増した。
 氏は、じつは先月もある対談に招かれて来校していた。だいぶ前になるが(去年だっけ?)、別のシンポジウムのパネラーにも名を連ねていた。主催者(招聘団体)がその都度ちがうから別にいいのだけど(今回のどこかの学部の自治会だったはずだ)、総じてウチの学校(いわゆる学校法人格のことではないがやはりある種の「人格」的なニュアンスを込めていっている)が、ああいうタイプの論客が好きなのであるらしいことは、疑いえない。
 さて、同じように一つの大学のさまざまな団体に呼ばれでもしたら「このひとたちには企画力があるんかいな?」と思ってしまうであろう、そんな悪意に満ち満ちたぼくが「ああいうタイプ」と反りがあいそうにないことは、ここを多少とも継続的に読んでくれているひとには、明らかだろう。
 だが、それに加えて、もう一点告白してしまえば、顔つきがきらいなのだ。何というか、心から笑うことをせず(もちろん私的な場所ではどんなであるか知らないさ)、つねに被告席を見つめる原告のそれのような目をしている、そのようにぼくには見える。同時多発テロ以降の米英の軍事行動やわが国の協調路線へのコメントを主催者から当然のごとくに求められて、彼もまたいつものあの目、あの口調で、批判の言葉を発したのだろう。
 ――だからどうだというのだ!? いや、どうということもないさ。つぶやきにすぎない。ぼくの近しい同僚のなかにもいる、彼を招聘したひとたちの心証を害することはありこそすれ、何らのプラスももたらさない、しかし命をつなぐための呼気に紛れて発せられる、つぶやきだ。
モダニスト 2001/12/14金22:33 [39]


悪いクセ(こんやの雑記)R  
●また悪いクセが出たといわねばならない。田代まさし(つい先日、早稲田の学園祭によばれてしゃべっている映像はおもしろかったな)のことではない。「日記らしからぬ公式意見表明の場所」[本編の006]としたからといって日記にはちがいない場所で、またしても日記なるものについてクダクダと書いたのである。しかもそれは「その1」と銘打たれ、「[続く]」とさえ注記されたのだが、いまやそれが未完のまま断ち切られねばならないことは明白である。
●――といったって、つぎのテキストをアップしないことには、それは消せはしない。でも、じっくり書いてる時間なんかないよぉ。あるいは、下[36]の「万死に値する」は、ちょっと暖めてから本編に出すべきだったかしらん、と。
●ついでに阪神にからめても「悪いクセ」のお題で。せっかく星野氏が「昔から阪神のファンで、それは選手になってからも、監督をやってるときもそうだった」なんて言ってくれてるのに、そのひとの、田淵幸一氏を打撃コーチに迎えたいとの条件提示にたいして、久万オーナーは「ひとつイヤな思い出があって」と、阪神のお家芸といってもいい内紛の過去を、しかも満場の記者・テレビカメラたちの前で、語ってしまったのである(しかもその思い出とは田淵氏が「巨人にたった1勝して狂喜していた」という他愛のない場面のことなのである[表面上は])。大嫌いな筑紫哲也(笑)もいっていたが、やはりこの球団はフロントに問題アリとしなければならない。
●あす。2つの授業。そのうち午前の「表象批判II」では、またしても同時多発テロがらみである映画の一部を上映しよう――と最初は思っていたのだが、じつは、先週授業中に紹介したある学生のミニレポート[授業中にたまに20分ほどかけて書かせる]に関連して、その学生本人から、教員(つまりぼく)の出題や紹介の仕方、そして解釈にかかる反論があって――悪いクセが出てすこし面白おかしく紹介したかな――、それをうけて2日前から少しメールをやりとりしたので、その軌跡を紹介しようかと、気が変わりつつある。卒論の提出締切を直前に控えたこの時節、授業は簡単にやりすごしたいというのが本音だが、必要にして、また有益なプロセスだろうと思われるからである。
モダニスト 2001/12/13木00:55 [37]


上へ






RAIBB2.18 - wakatiai.com
Notregisted
2024/05/09木00:48