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. ポリーニとブーレーズの競演、速報(どこが?)〈後編〉 モダニスト 01/06月00:31[192]選択


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[直下の2-191から続く]
 と、放送が終わって(否、ポリーニの1998年のリサイタルでベートーベンのピアノ・ソナタ第32番が演奏される映像に切り替わっているのを横目に)、ほとんど話すように書いてきたが(この速度で行けば30分で800字どころか1500字は書けよう)、じつは演奏内容に係る部分については私は、不幸にも先に、『文學界』2003年1月(新年特別)号に掲載された浅田彰の評(「音楽の手帖」)を読んでしまっていたのだった。そしてまた、書きつつ気づいてはいたことだが、認めようが拒もうが勝手に刷り込まれている(今回にかぎらず以前から)彼の聴き方が、どれほどこのたびの私の聴き方に影響しているのか、十分計りかねている。
 とくに新年特別号だからというのでもあるまいが(笑)、浅田はポリーニの名演の数かず(私と同じ京都、距離にして数百メートルのところに住んでいる(!)のに、9回のコンサートのうち4回、足を運んでいる)に接した喜びによって、いつも以上に軽やか、かつ豊か(通常の倍量の30枚程度?)に、批評的言説を振り撒いている。
 だが、機会をあらためて書きたいとも思うが(とっくに800字をオーヴァーしていて、さりとて削るのも面倒なので別途、凝縮して本編に記したい)、それは多分に浮わついてもいる。音楽や映画にかんして素人の私が使うならまだしも、「素晴らしい」や「スリリング」、「圧倒的な出来映え」や「感動を与えられた」、「私は泣いた」など、批評以前の言語が紙幅の何パーセントかを確実に占めている。(それなりの出自を踏まえて「立派」という語を渡辺保[演劇批評]が使うのとはワケがちがうと思う。)
 それにそもそも、「交叉点に立つポリーニ」の表題(本文で敷衍される「かつての若き完全主義者が、円熟した巨匠となることができるのか」)の、平凡。このところの浅田の音楽評は、私は遠慮がちに上に「刷り込まれている」と書いて後続者/読者としての敬意を払ったけれど、逆に、本文や表題を読む前に何をあつかっているかを知ることで、中味の批評の予想がつくようになってきてもいる(内田光子やブレンデルのときはデジャリュdeja-lu[既読]感覚に囚われたサ)。ということはこれは、もはや批評の体をなした批評以外のもの(たとえばどんな客が来ても無難にこなせる占い師の見立てのような)ではないのか。
 このことはしかし、このような速記の場所で論じ切れるものではない(日記本編でも同じだが)。
   *
 音楽ネタがこうして800字オーヴァーの事態となったので、さあ、これから他のネタを探して本編用を書くのか、書かないのか。――
モダニスト 2003/01/06月00:31 [192]



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