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ヤラセについて――本編のためのメモ 
 イランの映画監督キアロスタミが撮るのは、もっぱらヤラセ映画である。
 ――と書くとネガティヴな印象を与えかねまいが、眼前に展開するいかにもドキュメンタリィ風の時空間のなかに確信犯的にしのびこまされた綻びの数かずは、ありていにいえば(つまりそのようなものを無反省に信じる者も数少なかろうからだ)ドキュメンタリィとフィクションのあいだの二分法を、きわめて効果的に無効化するだろう(もちろんわざと自己撞着的な表現を選んでいる)。
 その意図された綻びは、たとえば19XX年に製作された「クローズアップ」のような作品のなかでは、詐欺を働いた男が罪を犯すきっかけとなるバス車中を再現する――これだけでじゅうぶん反ドキュメンタリィ的である――だけならまだしも、騙された女までもがその再現シーンで自己自身を演じ始めるようなかたちで、われわれを襲うことになるだろう。作品もすでになかばに達した局面でのこうした演出が、そこまでのドキュメンタリィ的性格を一気に退落させるばかりか(「じゃあ、あの2人が被告席と傍聴席にともにある迫真の裁判場面は何なのだ?」と)、彼が監督する作品すべての信憑性(ドキュメンタリィとしての)にたいする疑いをも引き起こさずにはおかない(「子どもたちに宿題を忘れた言い訳を語らせる感動的な「ホームワーク」だってヤラセではないのか?」)。
 だが、われわれ観客はすぐさま、そうした疑念が彼の作品ではなく〈映画〉にたいするそれであるに気づかずにはおれない。[つづく]
モダニスト 2002/01/12土20:41 [84]




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