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返信対象の記事
久びさの草稿 
●[前注]
授業初日前日なのにヘラヘラと私事をこなしながら日付の境目を越え、次にこの4月から始まる「マネーの虎」というバラエティ番組の深夜予告編を見て何だかムラムラとやる気が出たのでPCに向かったら、本編連載中(笑)の「絵画(論)について」の、いつもだったらそのままアップする程度の字数(750〜800字)に一気に達した。だが[059]が少し前にアップしたばかりで2、3人しかまだ読んでいないという事情(笑)もあるので――しかもそれは明4日いっぱい有効な話題だ――、久びさに草稿のごとくにして、こちらに掲出してみようと思う。
●[本文]
[予060]「[題未定]」
[承前[055]]
 射影の語をもちいて、スクリーン上に結ばれる一個のイメージについて真理を語ることの愚を語りつつ、しかし岡崎は、自身が語ることは100%正しくしかありえないような、一種のトゥルーイズムに陥っている。これが、ルネサンスの専門家でもない私が、その本(『ルネサンス 経験の条件』)をそう深く読み込みもしないで揶揄する、根拠の一つである。
 そう、岡崎の解釈についてわれわれは、当たっていてほしいと願う必要もない。それは当たるほかないからである。16分の1のズレが劇的に解釈を盛り上げる場所では、それが正確を期せばさらに微妙なズレであらざるをえないとしても、正しさを隠蔽する詐術として称揚され、やはり結果的にその正しさを強固にするのであろう。あるいは今後発見されるやもしれぬあらゆる細部も、岡崎によって100パーセント説明されるだろう。その意味ではあの、磯崎の威を借りて語られたスタンダール・シンドロームの語の召喚は、まことに正しい。じっさい、「この発見は震えるほどの驚きをもたらした」と語る直後に、句点を打つよりも早くカッコに入れて、彼はこう告白するのだから。――「(実は自分がいままで制作してきた絵画の方法論と同じだったのだが)」
 したがって、そうした「方法論」で制作してきた岡崎が、言葉のうえで「一枚の絵画の現前」を攻撃することは、勝手という以上に論理的に正しい。
 だがネ、ヨイショしてくれる『批評空間』誌上での座談会で「グリーンバーグをやっつけても仕方がないからアルベルティを」と発言するのを読むにいたっては、私は失笑を禁じえない。なぜといって、グリーンバーグがただの平面を称揚してきたかの議論もさることながら、そこには、一枚の現前でありながら/であるからこそ多様である絵画の本質にかんする重要な観点が欠落しているからである。
[次号で完結(するワケないだろ)]

●[後注]
  文中の引用は、今夜の時点では現物にあたることもせず、ただ記憶に頼っている。本編に再掲出するさいはその正確を期したい。
モダニスト 2002/04/04木02:24 [120]




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