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バンビーナ狂詩曲 | |||
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カンテラもランプも持たずに、暗い街道を歩く。 ニコルはそれさえ愉しくて仕方がないようだったが、ウイリー青年はしきりにきょろつき、夜行性の鳥が羽ばたくたびにびくつき、今にも引き返したそうな足取りでニコルにくっついて歩いていた。 それを少し後ろから眺める、チェス。 (いつの世も女性は強いわよね、まったく。にしても、悪党を従えて駆け落ちしようとは、とんだお転婆お嬢さまだわ) などと奇妙に微笑ましい感想を抱きつつも、彼女は探るような視線を傍らの相棒に投げ掛けた。 本当に奇妙なのは、シュアラスタ。 バスターズを出る直前、「餞別じゃ、シュアラスタ」と珍しくモルグに名前を呼ばれて苦笑いし、何やら手紙を受け取って、それきり黙り込んでしまったのだ、この男は。 にしても、…モルグがシュアラスタの名前を呼ぶのは、本当に珍しい…。 「……ねぇ」 「んー?」 「…………………」 鳩尾の辺りがむずむずするようなシュアラスタの気配に我慢が出来なくなったのか、言いつつチェスが派手な動作で彼を振り仰ぐ。例えばこの男が何かを知っているのに口を開かないなどというのは日常だったが、今日のはどうも様子がおかしいのだ。が、いささか剣呑な顔つきで相棒を見遣れば、なんとシュアラスタは、この暗がりで紙巻き煙草の火を頼りにモルグに渡された手紙を読んでいるではないか。それには、さすがのチェスも唸ってしまった。 器用過ぎる。というか。 「人間じゃないわ…。いったいどういう目してんのよ、あんた」 「視力には自信ある。顔だけよくてもバスターじゃ食ってけないんでね」 くわえた紙巻きを吐き捨てて踏みにじり、また次の紙巻きを唇に載せる、シュアラスタ。相変わらず完璧なチェーンスモーカーぶりに溜め息も出ない、などと呆れて肩を竦めたチェスに華麗な笑みを向けてから、モルグに渡された手紙をコートのポケットに捻じ込んで、彼は、ベルトのバックルでマッチを擦り「おい、お嬢さん」と、ニコルの背中に声をかけた。 「? なんでしょうか、シュアラスタさま?」 月明かりだけの街道の真ん中で振り返った、明るい栗色のショートボブ。大きくて魅力的な琥珀の瞳と、小作りで幼い印象の顔。それを何かに繋げて納得し、にっと口元を引き上げたシュアラスタが、ふと足を停める。 「どうかなさったのですか?」 それで、ニコルもウイリーも、チェスも足を停めた。 街道、道幅もそれなりで馬車も通る。その真ん中に佇んで腕を組んだシュアラスタを照らすのは、遥か頭上にぽっかり浮かぶ歪で青白い月と、口元に射した朱色。嘘のように端正な顔に陰影を作るそれらを纏わりつかせた色男が、群青色の闇の中で、静かに、ゆっくりと、笑った。 「疲れてないか?」 唐突な質問。ニコルがそれに、小首を傾げる。 「いいえ、それほどでもありませんわ。それに、…家を出た事がお父様に知れたらすぐにまたタリスにーさまが追いかけて来るに決まってますもの、少しでも…」 「だったら、今のうちに休んで置く事を勧めるね、俺は。距離を詰められても向こうが先に疲れてくれて、こっちが無理出来りゃどっかに逃げ込めんでしょ?」 「それがいいよ、ニコル。旅慣れた彼らの言う事は素直に聞くべきだ」 なぜか俄然張り切ってニコルを引き停めようとする、ウイリー青年。どうでもいいと言うほど悪くはないが、どこかしら気の弱そうな地味な顔立ちとおどおどした動作。基本的にそういう男とはウマが合いそうにないチェスは、その小柄な青年を冷ややかに見つめ、小さくふんと溜め息を吐く。 それを、シュアラスタがまた笑う。 「不満そうだな、相棒」 「まぁね。情けない男にはあんたで慣れてるつもりだけど」 「はいはい」 などと気軽に言い合いながら、ニコルとウイリーをその場に置き去りにしたふたりは別々に街道から逸れて、鬱蒼とした林の中に消えてしまった。 それで、取り残されたニコルとウイリーが目を白黒させる。 「…あの、ニコル?」 「おふたりとも、どうなさったのかしら? わたくしちょっと…」 縋るように握られた手を振り解いて、ニコルがシュアラスタを追いかけようとする。しかし、ここにひとり取り残されるのがイヤだったのか、ウイリーは彼女の手を強く握り締め、ニコルに「ねぇ」と声をかけた。 「…やっぱり、家に戻った方がよくないかい? その…お父様も…心配してるだろうから…」 「ウイリーは、あたくしと離れ離れになってもいいと言うの?!」 などと言い争う潜めた声は聞えなかったが、肩を寄せて小さくなったウイリー青年と、逆に肩を怒らせて青年を振り向いたニコルの勢いに、思わず、木立の陰でその様子を窺っていたシュアラスタが失笑を漏らす。 「覗きが趣味だったなんて知らなかった」 「事の推移を見守ってるんだがな、俺は」 「へぇ」 とかなんとか殆ど真面目に聞いていないようなチェスのどうでもいい相槌に、シュアラスタがわざと拗ねた顔を向ける。灰色がかった緑の瞳に真横から睨まれて、でも、薄暗がりでも大陸一の美女の視線は、街道の隅で何やら言い合う若いカップルから離れない。 「揉めてんだけど? あのふたり」 「? いいんじゃないか? 人生にゃ山も谷も付きモンだろ」 「ま、本気で駆け落ちに手ぇ貸すつもりなんかないんでしょうからね」 「ないない」 で、視線も合わせず喉の奥で笑い合う。 「引き取りが追いつくまで見張るつもり?」 「いや」 太い木の幹に寄りかかって腕を組み、ゆっくりと俯くシュアラスタ。意味不明の短い答えに今度こそ不思議そうな顔を向けたチェスを目玉だけで見遣り、彼はいかにも悪党然としたにやにや笑いを返した。 シュアラスタは背丈が一八八センチもある。いかにチェスが一七〇センチを超えた、女性としてはかなりの長身だとしても、寄り添って、見つめ合って、その上でお似合いのカップルではないか? 理想的な、美男美女。 「当たらなくていい予想ばかり当たる世間様にし返しすんだよ」 「? どういう事?」 「死に損ないのじじいが面白い餞別をくれたのさ」 意味ありげな薄笑みを唇に載せたシュアラスタがそう言って、さっきコートのポケットに突っ込んだばかりの紙片を取り出しチェスに差し出す。 それを受け取ったチェスは、木立の間に射しこむ月明かりの下まで移動し、さっとその表面に視線を走らせた。 「………ふーん。そうなの」 「あ、関心ないねぇ、案外」 「だって。…何も起こらなかったらどうすんのよ。無駄足以外の何モンでもないじゃない」 「起こるよ」 確信的な返答に、チェスが手紙に落としていた視線を相棒に向ける。 「自信ありそうね」 「ああ。そこに書かれてんだろ? 医術アカデミー設立のための重要な会議ってのが、どうやら明日、…もう今日か…、らしいからな」 「だから?」 だから。 「だから、黒幕は今日中に動く。でないと、親方が張り切ってくれない」 「でも、その黒幕の目的が定かじゃないわ」 紙片をシュアラスタに投げ返してチェスが言えば、シュアラスタはそれを笑顔で受け取り言い返す。 「俺なら、片方消して真相を闇に葬り、大袈裟にお嬢さんを助けて見せる」 「どうして両方消さないの?」 暗闇の中、あのグランブルーにマリンスノーが降りる。 「アイル・ノアが美味しいのは、今すぐじゃなくお嬢さんの代になった頃だろうからさ。そして、本物の黒幕が動くのはその時になってからだ」 言ってシュアラスタは炯々と底光りするチェスの瞳を見つめ返し、その真白い頬に掌を当てた。 「将来投資ってヤツ、お前もちょっとは覚えとけよ」 囁く、甘いハイバリトン。しかしシュアラスタの顔付きは、間違いなく悪党のそれだった。 「気の長い話ね。残念だけど、明日をも知れない悪党のあたしには、無縁だわ」
「待って! ウイリー…。一体、どうしたというの?」 「戻るんだよ…」 「どこへ!」 「…家はイヤなんだろう? だから…別の場所」 シュアラスタとチェスが消えてからどれくらい経ったのか、それまでは不毛とも言える堂々巡りの帰る帰らないを繰り返していた若いふたりだったが、ついにニコルを宥めすかすのをやめたウイリーが急に彼女の腕を取って、元来た街道を引き返し始めたではないか。 ウイリーを、まさかこうも強引な手に出るような青年だとは思っていなかったニコルは大いに戸惑い、殆ど引きずられるようにしてアイル・ノアへ連れ戻されようとしている。最初はそれに愛だの恋だのと騒いで抗っていたニコルが大人しくなったのは、歪な月の胡乱に浮かぶ群青色の空を背にした街がやけに静かに、やけに冷たく、やけに暗く、まるで見知らぬ他人を迎えるような顔で自分たちを見下ろしている、と感じたからなのだろうか。 大股で突き進むウイリーの後ろを、小走りで着いて行くニコル。大きな琥珀色の瞳で青白い月光を吸い込み、不安そうな、というよりも、落胆したような表情で、振り返ってもくれない愛しい人を見上げる。 やっぱりそうなのだ、という落胆。 結局そうなのだ、という落胆。 つまり…そうなのだ、という諦め…。 そこで。 すすり泣いたり自分を悲観したりすると、なかなかかわいらしい恋に憧れたお嬢さんで済んだのかもしれないが、残念ながら彼女は、あの皮肉屋でおしゃべりで狭量が売りのシュアラスタを半刻も付き合わせ、おまけに「面白い」とまで言わせたのだ。そう易々と家に帰ってくれる訳がない。 それで。 いきなりニコルはウイリーの手をひっぱたいて振り切り、彼と間合いを取った。 「…………」 「判りましたわ、ウイリー。悲しい事ですけれど、あなたが本当の事を仰ってくだされば、大人しく家に戻ります」 数メートル離れ、群青色の闇に塗り潰されたウイリーの顔がよく見えない事を、ニコルは少し有り難いと思った。 「本当の事?」 なんの話? とでもいいたげな、わざとの疑問を含んだ声。それにニコルは失望し、落胆し、諦めて、きゅっと桜色の唇を噛む。 所詮だとかそういう単語で済ませたくない気持ち。でも、所詮…。 「あなたがわたくしに近付いたのは、わたくしが…」 「フロウ・アキューズのひとり娘だからだよ、ニコルが」 ニコルの質問を遮ったのは、なんとも冷たい男の声。 向かい合うニコルとウイリー。その横合い、暗闇の集合にしか見えない林の中から掛けられた声にふたりは驚き、はっとそちらに顔を向けた。 「…タリスにーさま……」 「怪我はないかい? ニコル」 心配そうな、という勢いではなく、ありきたりの朝の挨拶をすれ違いざまになんとなく口に上らせた、といったニュアンスの強い平坦な問いかけ。ニコルから見て左の木立からばらばらとまろび出して来た数人の男たちと、それを従えたタリスの落ち着き払った様子に、なぜか少女は無意識に半歩後退っていた。 ニコルとは逆に、ウイリーがタリスに半歩近付く。群青色した濃い闇のせいで青年が浮かべた安堵の表情はニコルに見えず、これまた逆に、ニコルの緊張した顔に微か走った疑念の表情も、誰にも見えない。 伝わらない。 目の前に居る愛しい(?)人にも、幼い頃には遊び相手になってくれた従兄弟にも、ニコルの「本当の気持ち」は、届かない。 これこそが、孤独か? 大勢の人に囲まれて幸せに見えても。 家を騒がせて飛び出し、すぐにそれを追い掛けてくれるひとがいても。 それは…。 「君には悪いと思ったけれどね、その、ウイリー・ハンスの事を少し調べさせて貰ったんだよ。君は、ねぇニコル? ひとりの少女で、これから女性になって、幸せに結婚して子供を儲けて…。平凡なそれを望んでいるのかもしれないけれど、結局」 (所詮ですわ) 落胆する。 「フロウ・アキューズの娘であり、次の領主推薦と決定の鍵を握る重要人物なんだから」 濃い青色の闇。街道に落ちる、木立の影。その影から分離した男たちが瞬く間にウイリーを両脇から抱えるようにして捕らえ、タリス・ロウという男が、愕然とウイリーを見つめるニコルの視界に割って入った。 「……………」 やけに紅く眩しい、葉巻の先端を燃やす炎。 やけに冷たく見える、月光に照らされた仄白い顔。 やけにそこだけリアルな、弧を描いた、唇。 「ウイリー・ハンスは、領主の娘に言い寄っただけなんだよ、ニコル」 ニコル。という、少女にでは、なく。 失望し、落胆し、諦めて…、少女は。 「やはり…そうなんですのね」 俯いて小さく呟いた。 「お父様が急にウイリーとの交際を咎めて来たのも、それを知ったからなんですのね? タリスにーさま」 男は、答えない。 「どんなに理由を尋ねても答えてくださらなかったのは、そのせいなんですのね?」 男は、答えない。 「タリスにーさま!」 男は、固く握り締めた両手を震わせて睨むように見上げて来た少女の、怒りでも悲しみでもない深い孤独に満ちた琥珀の瞳をじっと見つめ返し、答える代わりに、ゆっくりと両腕を広げた。 「なんとか言ってくださいまし!」 「おいで、ニコル。僕が傍に居てあげよう。 僕が、君を泣かせてあげるよ……」 決まった。って? 「…どうなのよ、これって…」 「ダメだな、全然。タリスにーさまはちっとも判ってねぇ」 「どんな具合に?」 「というか…、ホントに女じゃねぇな、お前も。この、なんつうか安っぽいラブシーン見て、なーんにもおかしいと思わないのか?」 「あら、ラブシーンだったの? これ。あたしはてっきりコントかと思ってたわ」 「ま、オチがつまらないからコントなのかもな」 月光に晒されて両腕を広げたままのタリスも、もしかしたら泣きそうな顔でそのタリスを睨んでいたニコルも、やけに大人しく黒服の一団に囲まれたまま暢気に周囲を見回していたウイリーも、その、なんとも緊張感なくおまけに毒舌な会話に、ぎくりと全身を強張らせた。 その声は、ニコルのやや右後方から上がったのだ。左右を木立に囲まれた場所ではあるが、先のタリスとは違って、声の主達は別に姿を隠していた訳ではない。 ただ、木立の幹に背中を預けて腕を組んでいるだけ。シュアラスタは。 ただ、木立に並んで突っ立っているだけ。チェスは。 なのに誰も、そこにふたりが居たと気付いていなかっただけ。 呆気に取られるその他大勢を他所に、シュアラスタは薄い唇に紙巻きを載せて、マッチで火を点した。ボッ、と一瞬暗闇で燃え上がった炎はやけに朱く、しかし…しかし……。 「あ、判った。煙草ね」 それを見て、チェスがぱちんと指を鳴らす。 「女口説くのにくわえ煙草はないでしょ?」 「さすがのあんたでも、煙草消すものね…」 「上手いこと行ってキスしてくれるって時だけは邪魔だろ? こんなモン」 確かに、普段ふざけてじゃれついて来る時分には煙草吸ってるわね…。とチェスは、思わず喉の奥で唸った。 「待って…。じゃぁ、煙草吸ってない時はどうなのよ…」 「? マジおねだりって事で」 ね? などと華やかな笑みをチェスに向け、それから未だに唖然としているニコルに視線だけを移したシュアラスタが、ふと、口元の笑みを作り直す。 群青色の闇にも紛れない、明らかな笑み。 冷たくもなく、だからといって親しみ易くもないが、それは紛れもない、微笑み。 笑う。 「来い、ニコル。俺達とお前の契約はまだ有効だ」 契約。 ニコルとウイリーがどこかへ落ち着くまで護衛する…仕事。 「…それ…は、どういう意味ですの?」 タリスに「おいで」と優しく言われた時には一歩も動かなかったニコルが、シュアラスタにぶっきらぼうに命令された途端、タリスから逃げるようにじりじり後退し始めた。 「別に、ニコルとウイリーが「一緒に幸せになる」って依頼を受け取った訳じゃねぇって…そういう意味さ」 例えば、少女と青年が離れ離れになっても。 今落ち着くべき場所に落ち着くのなら。 そこまでが、悪党の受け取った仕事。 「それに、ゴールはタリスにーさまの傍でもねぇ、って意味だしな」 「え?」 シュアラスタに紙巻き煙草を挟んだままの人差し指を突き付けられて、惚けたニコルの目の前で間抜けにも両腕を広げたままだったタリスが、あの細葉巻を載せた口元を歪め、盛大に…舌打ちした。
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