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バンビーナ狂詩曲 | |||
3) | |||
「というか、平和ぼけなんじゃないの? この街」 夜半近く。 今日は夜中に仕事をするつもりのなかったチェスとシュアラスタが部屋に戻って、少し過ぎた頃、シュアラスタを探して来た依頼人というのが現れたとまたも階下に呼び戻されたチェスは、その依頼人(らしい…)の話が一通り終わると呆れたような溜め息を吐き、シュアラスタは最初から最後までずっとそっぽを向いたまま肩を震わせて笑っていた。 「つまり、何だってのよ」 「はい、チェスねーさま」 「…勝手にねーさま呼ばわりすんじゃないわ…」 背中がむず痒い…。 「護衛をお願いしたいのです」 「駆け落ちの?」 薄汚れたテーブルに片肘を衝いて盛大な溜め息と一緒にそう漏らしたチェスに、依頼人…ニコルとだけ名乗った少女…というには少々大人びた娘が、満面の笑みで頷き返した。 「はいっ!」 「降りた!」 バン! と、それまで頬に置いていた手をテーブルに叩きつけたチェスが、椅子を蹴倒しそうな勢いで立ち上がる。 「ばかじゃないの? ウチの相棒も入れて、あんたたち全員!」 肩をそびやかして顎を上げ、きょとんとするニコルと、そのニコルに寄り添ったいかにも気の弱そうな青年、それから、まだげたげた笑っているシュアラスタを順繰りにグランブルーの瞳で睨んでから、豪華なピンクゴールドの髪を派手に掻き揚げたチェスがさも呆れたように言い放つ。 「そういうばかみたいな話は家庭調停局ででもしろってのよ、まったく。ここは親子関係の不和を解消してやる所でもなけりゃ、お嬢さんのおままごとに付き合う保育所でもないわよ」 「夜中に叩き起こされて不機嫌でも、ウチの相棒は美人だろ? ま、多少よりかなり口は悪いがな」 お怒りのチェスを無視して、シュアラスタがなんとも暢気な事を言う。チェスにしてみればそれはいつもの事だったから、彼女は、続く相棒の「暴挙」をここでは黙って見逃そうと思った。 暴挙。傍から見たら、違うのかもしれないが。 「俺もニコル嬢ちゃんもそっちの恋人とやらもばかなのは素直に認める。だったら少しは安心か? チェス」 言いながらシュアラスタは、自分の傍らに突っ立ているチェスの無造作に下ろされた腕、その指先にそっと指を絡めて、彼女を引き寄せた。 「自分のばかは百も承知だ、相棒。何も判ってなくてお前を巻き込もうってんなら文句のひとつも受け付けるが、俺は多分、お前が思ってるよりいろんな事を…知ってるぞ」 されるままに身を屈めたチェスの長い髪が、シュアラスタの肩を掠める。解いた指先を名残惜しそうに放す彼の手は骨ばってごつごつして見えたが、それでも十分キレイだった。 男だと思うなら、十二分に。誰だったかがいつか、紙巻きを摘んだシュアラスタの手を見て言ったはずだ。 あんな鉄の塊ぶっ放すとは思えない、色っぽい手だ。と。 その手が、ゆっくりと伸びる。指の背で、チェスの頬に触れる。親指の腹が、抵抗するように引き結ばれたラズベリーの唇を、舐める。 「平和ぼけついでだ、こんなあほらしい仕事もありだろ?」 シュアラスタは灰色がかった緑の瞳だけを回して、唖然とするニコルと恋人の青年から視線をチェスに移し、甘く小さく、囁いた。 「なぁ? チェス」 それは。 面白がっている顔だ。とチェスは思った。
階下でニコルと青年、ウイリーを待たせて荷物を取りに戻る。 「で? 実はなんの冗談?」 「? あ、仕事ね。本気で冗談だよ、今の所はな」 「はぁ?」 また訳の判らない事を言い出す。と溜め息さえ出ないチェスの背中に失笑を吐き付け、シュアラスタは新しい紙巻きを唇に載せた。 「荷物はこのまま置いてけ。どうせ朝までには戻って来られる」 「? 駆け落ちの善男善女に破局でも来るっての?」 「すぐに捕まるよ」 ドアに肩で凭れかかってにやにやするシュアラスタに顔を向け、チェスはさも訝しそうに首を傾げて見せた。 「どこのかは知らないが、ありゃちょっとやそっとのお嬢さんじゃねぇよ。 さっきあの娘も言ってたろ? 昼間統治庁舎の展望室から飛び降り未遂騒ぎ起こしたって。その時、あの娘を追い掛けて来たのは十人近い保安官だった」 「保安官? しかも十人も? じゃぁ、そいつらの所属する詰め所はすっからかんね」 「そう。詰め所を空けても追い掛け回すようなお嬢さんだぞ? となりゃ、姿が見えなきゃすぐに保安官なりなんなりが探し始めんだろ?」 「…で? なんでそれだけ判ってるのに、契約なんかした訳?」 「勢いですかね」 ふざけて言いながらさりげなく視線を逃がそうとするシュアラスタの正面に立って顎を上げたチェスが、口の端を引き上げる。 「まさか、街道で夜盗に襲われたりしたら寝覚めが悪い?」 「そうそう」 「いっぺんでも首突っ込んだ騒ぎをほったらかすのは俺の主義に合わない?」 「それもある」 ドアに寄りかかって腕を組んだシュアラスタの、噛んだ紙巻き煙草。その後ろに微か見え隠れする苦笑いを知っていて、チェスはわざとのように華やかな笑顔を見せ、紙巻きをひったくった。 「正直に白状したらキスしてあげるわよ? ボウヤ」 「先払いで頼む」 言って、シュアラスタが身を屈める。 睫の先が、鼻先が、唇が触れ合いそうな距離。しかしチェスはじっとグランブルーの瞳を見開いてシュアラスタを見つめていたし、シュアラスタも、そのチェスから目を逸らそうとしなかった。 だからこれは、くちづけにはなり得ない…。いつもと、同じに。 「世の中そう素敵な事ばかりじゃねぇよ。特に、ひとの気持ちなんてのは、自分にも判らない時がある。まぁ、それを知って世の中ハスに構えようがなんだろうが俺にゃ関係ないんだが…」 ふと揺れる。灰色がかった緑の、瞳。 「拗ねても生きてくれてりゃいいんだけどさ。って…話」 飛び降り騒ぎを起こしたのだそうだ。未遂だったし、本気かどうかも判らないが。 「…相変わらず変な男。悪人どもを吊るすのには何も感じてないくせに、どうしてこう…」 「生きたいヤツほど早く死んで行く。死にたいヤツほどいつまでたっても死に切れない。…ああいう、夢食って素直に真っ直ぐ育ったお嬢さんほど、夢に裏切られるモンだしな」 チェスの呆れた囁きを押さえ付けるように、シュアラスタは失笑交じりに呟いた。 思い出したのは、達観した美しく儚い笑みを浮かべて血の海に沈む…物言わぬ女の顔。それで、なのかなんなのか、シュアラスタは無意識に両腕を広げ、寄り添うのではなく並んで毅然と立つチェスの痩せた身体を抱き締めて晒した首筋に額を押し付け、自分を、笑った。 笑う。昔話。もう、繰り返せない。 だからチェスはいつものように彼に身を預けただけで、いつのものように、素っ気無く言い放った。 「まったく。情けない男だわ、あんた」 言い放つ。静かに、微笑んだまま…。
チェスとシュアラスタが、ニコル、ウイリーの両名に従われて(従えて、かもしれないが)街壁外のバスターズを出たのと同じ頃、街壁内のとある屋敷に、ひとりの青年が到着した。 青年は余程慌てて家を出て来たのか、アイロンの利いた白いシャツにネクタイを引っ掛け、腕に濃茶色のジャケットを抱えて足早にその屋敷………の通用門をくぐると、一直線に厨房脇の裏口を目指し、中に入った。その、微妙に人目を憚っているような、しかし、それまで引き連れていた二人ばかりの使用人(?)を屋敷の外に置き去りにするという、そこはかとなく配慮に欠けているような奇妙な行動を見咎める者がいなかったのは、深夜という時間のせいだったのか。 どちらにしても、なんにしても、精悍な顔立ちに微かな焦りに似た表情を浮かべた青年は、厨房で待ち構えていたこの屋敷の執事に案内されて、南側応接間へと通された。 天井も高く、広い室内。豪華ではないか立派な調度品。毛足の長い絨毯は北部の特産で、確か、なんとかいう領主がこの屋敷の主人に贈って来たもののはずだ。 この屋敷の主人、フロウ・アキューズに。 「フロウ叔父さん! 一体何が…」 「ああ……、タリス。こんな夜中に呼び出して、済まなかった…」 フロウ・アキューズは、まるで小さな老人のように背中を丸めてソファに座り込んでいた。まだ四十代に入ったばかり。しかも、今日の昼間にはいつものように生気溢れる若々しい領主然としていたはずが、この数時間で彼に何があったのか、と言葉を失ったタリス青年に、アキューズ領主区領主が力ない笑みを向ける。 「エンローネ叔母さまも…」 フロウ・アキューズの妻、エンローネ・アキューズはブルネットの巻き毛に栗色の瞳の、上品で美しい女性だった。顎も額も広くそのくせ峰の高い鷲鼻で、色の濃い琥珀色の双眸に確固たる信念といい意味での「野望」をぎらつかせたフロウに並ぶと、夫の刺々しい雰囲気も吹っ飛んでしまうような、穏やかな顔立ちの妻。しかし今そのエンローネもまた、憔悴し切っていっぺんに歳を取り、気配さえ希薄になってしまっている。 (……………………) タリス青年は無言でふたりに歩みより、寄り添ったフロウとエンローネの肩に手を置き床に膝を突いた。乱れた着衣を直す事もせず、余計な質問も…本当は訊きたい事が山ほどあるだろうに…せず、疲れ切った叔父と叔母を気遣う青年の姿に、ついぞエンローネが泣き崩れる。 緊張した顔つきで、しかしすすり泣くエンローネとフロウに精一杯穏やかな笑顔を見せる、青年。スラックスの膝が汚れるのも皺になるのも厭わず床に膝を付いて見上げて来るタリスの深い緑色の瞳に無言で頷き掛け、フロウは、妻の肩をそっと抱き寄せてから重々しく口を開いた。 「ニコルが…家を出て行ってしまった…」 その。 唐突とも言える告白に、タリスがゆっくりと目を見張る。 「…そんな! あのニコルが?!」 あの、ニコル、が。 タリスは心の中で「あのニコル」を思い浮かべ、わざとらしいくらい大袈裟な仕草で額に手を当て弾けるように立ち上がった。 「どうして? なぜです、フロウ叔父さん! アキューズ領主のひとり娘に産まれた事を誇りに、叔父さんの背中を見て、いつか自分も立派な領主になるのだと学問にも真剣に取り組み、領主区内のあらゆる事にも興味を持って、そう! 叔父さんに続いてこの街を…領主区全てを健やかで豊かな場所にするのだと言っていたニコルが、なぜ!」 …こんなもんでいいか。と……。 忙しなく短い金髪を掻き回しながら、ソファの前を行ったり来たりするタリス。その顔は苦悩と焦燥に歪み、ほどほどの男前を「人生最大の問題に直面した悩める男前」くらいに昇格させている。 …ま、こんなとこか? とか…。 「…昼の騒ぎを……。事が大きくなるまえに抑えてくれたのは、君だったね、タリス」 途切れがちな弱々しいフロウの声。それでタリスは急に方向転換すると滑り込むようにしてまた床に膝を突き、落胆の領主にすがる。 「抑えたなんてそんな言い方はよしてください、フロウ叔父さん! 僕は、かわいいニコルに万一の事があっては困ると、必死に追いかけただけです!」 (余計な邪魔が入ったけれどね) 眉間に刻まれた深い皺が、タリスの悲痛さを物語る? 「ニコルはとてもいい娘に育ったじゃありませんか…。ただ少し、あの、…アカデミーの学生にのめり込んでしまっただけで…。でもきっと、ちゃんと話し合えば…」 「わたしもそう思った。しかし、ニコルは…!」 まるでコントみたいな勢いで両眼から滝のような涙を落としたフロウが、ずっと前から握り締めていた便箋らしい紙片をタリスに押し付ける。胸に突き付けられたそれを無言で受け取り、皺を伸ばして顔の前に広げ、数秒、タリスは絶望的な顔つきで天井を仰ぎ、紙片をさっきよりも皺くちゃにして握り締め、ついでに胸に抱えて「ああ! どうしてなんだ!」と…クサい三文芝居よりは木戸銭の価値がありそうな芝居がかったアクションで苦悩の悲鳴を吐き出した。 走り書き、というにはあまりにもきちんと支度された風に、万年筆で書き付けられた一文。
探さないでください。ウイリーと幸せになります。ニコル。
タリスは、唖然とした。 ……駆け落ちする娘の書き置きとして、ばからしいほど完璧なまでの常套句。 俯いて全身を震わせてから青年は、ますます悲痛に泣き続けるエンローネと、そのエンローネを支えて滂沱の涙を拭いもしないフロウをいかにも痛ましそうな顔つきでうっそりと見つめ、ゆっくり、書き付けをくしゃくしゃのまま懐に捻じ込んだ。 「……大丈夫ですよ、フロウ叔父さん…。ニコルは僕が…、必ず連れ戻します!」 で。 これまたコントみたいな早変わりで両眼に力強い光を湛え、ぐっと握り拳を固めどこか遠くを睨みつける。 決まった。完璧。 「いいですか、フロウ叔父さん! 叔父さんには明日、大切な議会があるでしょう? 今は…辛いかもしれませんが、全てを僕に任せて休んでください。大丈夫! ニコルは明日の朝までにちゃんと家に戻します。嘘ではありません! 叔父さん、叔母さま! 僕の目を見てください!」 果たして脳内麻薬でも分泌されてしまったのか、タリスは脱力するようなクサイセリフをクソ真面目に言って退け、娘の駆け落ちで気落ちした叔父夫婦の肩をふたり分いっぺんに力強く抱きかかえた。 「ニコルももちろん大切です。それは、僕にも痛いほど判っています…。しかし叔父さん、ここだけはフロウ領主の秘書として言わせて頂きます。明日の議会で「医術アカデミー」新設の議案を通す事も、叔父さんにとっては大切な事なんです!」 静かだが揺るぎ無い意思を持って言われ、フロウがぎくりと背筋を凍らせる。 「わたしは…」 「そうですよ、叔父さん。あなたはニコルの父親であり、あの子の尊敬した…素晴らしい領主でもあったはずです」 急成長を遂げ、今では西部最大の学術都市とまで言われているアキューズ領主区アイル・ノア。それをたった十年足らずで成し遂げたのは、この領主、フロウ・アキューズの貪欲とも言える…………鉄壁の理想主義にあった。 全ての者に学問を。 全ての者にチャンスを。 全ての者にささやかな幸せを。 過分な高望みはしない。 しかし、望む事を諦めなければ、それは必ず出来る。 ……熱苦しい…。 だがフロウ・アキューズには、なぜかその「理想を理想で終わらせない」何かが備わっていた。最初に語るのは、まるで夢物語。笑われても、蔑まれても、彼は諦めない。そしてこの熱苦しい理想にいつの間にやら巻き込まれ、この街は理想を掴み取り大きく発展した。 そして明日から、また新しい発展を遂げるのだ。 十年後、アイル・ノアは必ず「大陸一の医術都市になる」と、フロウは言う。 「タリス…」 弱々しい声で青年の名を呼び、しかし、フロウの瞳は底光りしている。これはいつか見た「希望」だ、と十五歳で中等院を卒業してからすぐ貧しい家を出て遠縁のアキューズ家に下働きとして入り、今や領主の秘書にまでなった青年は、ダメ押しみたいに力いっぱい頷いて見せた。 「それも、ニコルの望みだったのでしょう! 叔父さん!」 握り締めたハンカチーフでしきりに涙を拭っていたエンローネが、また小さな嗚咽を漏らしてフロウの胸にすがる。 「タリス…ニコルを…………頼む…」 搾り出すような声。それは、自ら今すぐにでもニコルを探しに行きたい父親、しかし、明日の議会で医術アカデミー新設のために議員を説得し増税までも快諾させようとする領主、という相反するふたつがぶつかり合って立てる軋みみたいだった。 フロウ・アキューズというのは、鉄壁の理想主義者。その理想を現実にするためには手段を選ばない、冷徹。人望も厚いが、それだけ、敵も多い…。 「ニコルを頼む、タリス。わたしは父親として、領主として、なんとしても明日の議会で満場の拍手を貰わなければならない!」 エンローネの華奢な肩を抱き締めて宣言したフロウに、タリスは不敵な笑顔で頷き返した。
それからほんの数分後、屋敷の外で待たせていた使用人(?)を伴ったタリスは、足早に街壁へ向かっていた。 時刻は深夜。街灯に飾られた大通りにさえ歩く人影はなく、動くのは、家無しの野良犬、微風にそよめく木立の葉、路地の向こうを水平に移動して行く仄かな明かりはおおかた夜回りの自警団が翳すカンテラで、それから、なぜか灯りも持たないタリス一行。 「ニコルお嬢さんは?」 背後に顔も向けずタリスが問い、答えは短く「予定通り」とだけ。それに十分満足したのか、大股で大通りの隅を歩いていた青年が、頭上の月を振り仰いでにっと口元を歪める。 「全て予定通り…ね。惜しむらくは、昼のあの騒ぎでもうちょっとニコルに「好かれて」おければよかった事くらいか」 その口元から、甘だるく色の薄い紫煙が一筋、空中に螺旋を描く。 細葉巻。シャレ者ならばまぁ妥当な選択だろうが、この「シガリロ・アトラント」という銘の細葉巻、とある男には評判の悪い品のひとつだった。
「細葉巻だっつってんのになんで銘にまで「シガリロ」なんて入れてんだよ、あほじゃねぇのか? 製造元は。で、そんな見え透いたスタイルに騙されてだ、いかにも高級そうな気障ったらしい箱をだ、スーツの懐から恥ずかし気もなく取り出せるヤツもあほの代表格だろ」
……。大陸に四種類しかない紙巻き煙草を一日に何箱も消費するくせに、随分大きく出たものだ。しかもその男の紙巻きは、四種類の中でも桁違いの最高級品である。 ただし、紙巻き自体が珍しいので、誰もそれが「高級だ」とさえ気付かないのだが…。 昼間「すれ違った」だけの男にそう見られている(…)などと知らないタリスは、手の中で弄んでいた黒地に金文字の箱をいかにもな手つきでスーツの懐に突っ込んだ。 (こう、あまり上品になり過ぎないようにしないと、嫌味だからな) などとタリスは…最近吸い始めた煙草にばかり気を取られていた。 ニコルの事など、忘れ。 いや、そんなものは全て予定通りだったから、気を払うまでもなかったのか。 だから青年は気付いていなかった。 彼に影のごとく付き従ったふたりの使用人(?)がそっと暗い瞳で目配せしあい、密やかに、にっと笑みを零した事に…。 満月に近い歪な月だけが、全てを見ていた。
応接室の大窓の前に、フロウ・アキューズは妻の肩を抱いて佇んでいた。 大きくなった街。望み通りに。これからも発展する街。望み通りに。突き進む街。…そのためには、非道にもならなければならない。 「あなた…」 不安げなエンローネの呟きに、フロウは硬いが確固たる信念を湛えた笑みで答えた。 「大丈夫だよ…エンル。………彼らを、信じよう…」 今はそれしか、出来ないのだから…。
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