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月に吼える | |||
(6)メドーサ | |||
ナコン湖畔にギャガとクロウが辿り付いたのは、星々も密やかに息を詰める深夜だった。 湖は淀んだ瘴気に覆われ、草原から流れ込んで来る小川には腐った木の葉や木の枝がすっかりと溜まっていたし、イジュマル=オラス方向へ清流を導くべく設けられた水門付近にも、腐乱した藻や得体の知れない浮遊物が体積し水(すい)の流れを阻んでいる。 湖に近付くにつれ粘着質の靄が立ち込め、視界も悪くなる一方だった。 「これは酷いわね。よくもここまで放っておいたものだわ、ギルドも」 背の高い、立ち枯れ寸前の樹木を見上げたクロウが、ついにぼやく。何か悪い病気でも付いたのだろうか、椰子に似た細長い幹のあちこち瘤が浮き、中心の洞(うろ)から腐ったガスを吐き出している。 「「メドーサ」の「核」は……」 そこまで呟いて不意に口を閉ざしたギャガが、ふと足を停めた。ここまで一度も緩まなかった歩調が乱れたのに数歩先んじたクロウが不審げな顔で降り返るなり、一瞬で外道を無に帰した不死者の王は、答える変わりに思い切り……くしゃみした。 「……なんなのよ………」 呆れた呟きで片眉を吊り上げたクロウの顔を見つめたまま、ギャガも苦笑を漏らす。しかし、黒手袋の大きな掌で顔の下半分を覆ったまましきりに鼻をぐずつかせているのが余程可笑しかったのか、クロウはついに小さく吹き出してしまった。 「笑うな。こちらはかなり困ってる」 などと本気で抗議するも、その短いセリフを言い終えるまでに二度もくしゃみされては、笑わない方がおかしい。 「まさか瘴気アレルギーでもあるまいし、どうかしたの?」 「……匂い」 隻眼を飾る眉を寄せたギャガはそう言ったが、クロウには何の事なのかさっぱり判らなかった。確かに鼻の奥を突き刺すような悪臭は漂って来るが、腐乱した動く死体、キョウシの大群に囲まれるよりはマシでもある。 「もう一日か二日放っておけば、「核」が分裂するところだったかもな」 ギャガが感じているのは、喉の乾くような、甘だるい、強烈な香り。 「匂い…。って事は」 「熟れて弾ける寸前だ。「核」は若い女。この地に「メドーサ」が潜んでいると知らずに、殺されて棄てられた、というところか」 何度か瞬きを繰り返してから深呼吸したギャガが、溜め息みたいに付け足す。シャッフルと呼ばれる魔族と人間の合いの子には一種の特技があって、魔族の性質を「嗅ぎ分ける」事が出来るのだ。 シャッフルだと言われているがその真相はまったく別物であるクロウに、そういった特技はない。だから彼女には、湖の周囲に蔓延するこの強烈な甘い香りが判らなかった。 ふーん。と興味なさげなクロウの相槌に被って、微かな水音。 瘴気に隠れてひたひたと迫り来る魔族の気配を背中で感じながら、彼女はゆっくりと、陰惨に、濡れた唇に笑みを刻んだ。 「取り巻きは?」 「殲滅」 「「メドーサ」の外殻は?」 「俺の受け持ちだ」 では。 「熟した「核」は、あたしのメインディッシュ?」 「食う前に食われない事だな」 視線を交わし囁き合ってから、ふたりは左右に飛び離れた。 ぬかるんだ地面を踵で蹴り放したクロウの着地点近くに、歪んだ魔法陣が煌く。折り重なるような水音と奇声に視線を向けた彼女が魔法陣の上空に腕を翳すと、脈動する表面からあの白銀の大鎌がずるりと立ち上がり、広げた掌にぴたりと吸い付いた。 風さえ淀んで動くものもない湖面が泡立つなり、薄気味悪い大型の生物が次々と水泡を突き破って飛び出して来る。ぬめった灰褐色の肌には無数の疣(こぶ)が散りばめられ、そのひとつひとつに小さな黒い眼球が蠢いていた。 平坦な顔に引き裂いたような唇のない口。頭部に突き出した眼球はカメレオンのそれと似ており、左右がばらばらに、ぎくしゃくと動いた。 筋肉隆々とした大男の首を蝦蟇蛙(がまがえる)と挿げ替えたらこういう生き物が出来るのではないか、とクロウはうんざり思った。湖畔や河畔、沼などに棲み付くものの中で最も一般的な下位下級魔族なのだからしょっちゅうお目に掛る顔馴染みではあるが、何度見ても不愉快なのに変わりはない。 粘ついた泥を爆散させて汀(みぎわ)へと降り立つ、マーマンの群れ。水かきのある素足を滑らせて小刻みに移動するたび、その足下では不快な水音が囁くように上がった。 その水音を唐突に跳ね返したのは、固い呟き。
「お前のハートは、どこにある?」
拒否出来ない絶対の質問を振り払って、クロウは大鎌を身体に引き付け地面を蹴った。続々と湖から姿を現すマーマン。水中に引き込まれては分が悪いからか、飛び掛かってくる巨躯を踊るように躱しつつ水際から距離を取る。 絶え間なく動くその足を一瞬だけ停めたのは、靄の向こうで真白い火炎が瞬き、耳を劈(つんざ)く轟音が数体のマーマンを空中に跳ね上げた瞬間だった。 包囲した何かに殺到する灰褐色の輪が、中心から放射状に吹っ飛んで千切れた肉片を撒き散らす。 間隙などないもののように吼える轟音を遠くに聞きながらクロウは、身体に引きつけていた大鎌の刃を返して背後に回すと、踏み込んだ足を軸にその場で華麗に一回転した。 旋回する白銀が迫っていたマーマンたちを纏めて横に薙ぎ払う。研ぎ澄まされた女神の刃は醜い水棲魔族の胴体を真っ二つに切り裂き、濁った血煙越しに大挙して押し寄せようとする次の波と対峙したクロウは、瞬間でまたも刃を正面に返すなり、空中に弧を描いて躍り掛かって来た一体の顎を狙って、銀色に鈍く輝く切っ先を斜め下から頭上まで一気に跳ね上げた。 掬い上がった銀の弦月に追随する、淀んだ紫の体液。砕けた頭蓋骨の残骸と脳漿を巻き込んで天を突くように吹き上げた鮮血を、頭上に逃げた大鎌をすぐさま垂直に叩き下ろして、仁王立ちで痙攣する巨躯と伴にかち割る。 頭から生臭い体液を浴びながらも、クロウは前進した。右手一本で振り下ろした大鎌の柄を引きつけて左手を添え、突進して来ようとする群へと突き入れて、渾身の力で薙ぎ払う。 エナメルのジャケットが閃き真紅と橙が螺旋に踊る度、折り重なるように殺到するマーマンどもは二つに、三つに引き裂かれてばたばたと泥濘に沈んだ。しかし、本体が生命活動を終える間際、身体の表面で蠢いている瘤が弾けて、中から、身体の殆どが眼球と言うおたまじゃくしのような生き物がぬめり出し、柔らかい泥に頭を突っ込んで逃走を図ろうとする。 マーマンの「核」は、泥の中に潜伏し育つ。しかし、この無数の眼球のどれが本物の「核」なのか、どれがダミーなのか、見極めるのは難しかった。 ガギン! と重く篭った銃撃音を感じた瞬間、クロウは這いずる眼球を無視して次の獲物目掛け走った。自身の周囲にも無数のマーマンを置きながらも、クロウのバラした外殻から逃げ去ろうとする「核」を間違いなく見つけ出す事の出来るギャガが、遠距離から「核」を狙っているのだ。 腹が立つけれど、頼りになる男。 白銀の鎌を振り翳す、荒ぶる女神。エナメルのコートが瘴気濃い靄の中を走り来るのを隻眼の片隅で見遣りつつ、ギャガは水際から引いた。 数で押してくるマーマンに手こずっている暇はない。 決断と同時に空いた左手を後頭部に回し、アイパッチを繋いだ金具を指先で弾く。それだけは結束されていないらしく、漆黒の眼帯は少しの苦もなくギャガの頭部から外れた。 毟り取ったアイ・パッチをジャケットの隠しに突っ込んだギャガが、背後を走り抜けようとしたクロウの腕をひっ掴む。 「!」 無理矢理振り返らせられて眉を吊り上げたクロウはそこで、ぎくりと全身を凍らせた。 「紅く光っているのが「核」だ。見えるな?」 一瞬という永遠が、女神を縛る。 それは、紅色(べにいろ)。 蒼い右の眼と対になるのは、瞳孔と虹彩の隔てない、純然たる「紅」。 覗き込まれて見つめ返したギャガの左目。その中心に瞬く漆黒の光に眼底を撃ち抜かれたクロウの足下がもつれ、彼女はギャガの胸元に倒れ込んだ。 身体が震える。恐怖ではない。 これは闇。 これは夜。 これは世界の根底を覆すもの。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 「どれくらい持つの?」 「五分」 突き放すようにしてギャガから離れたクロウは、問い掛けておきながら答えも待たずにまたもマーマンの群れ目掛けて駆け出した。一時的にあの「眼」の力を受けたからなのか、累々と蠢くマーマンの全身、そのどこかに、小さく紅い点がぼんやりと見える。 高位最上級魔族は、ひと睨みで御魂を破壊するという。そしてあの男の中に在る異形の怪物は、間違いなく、そういう種類のものだった。 人の鋳型に押し込まれても尚あの紅色の瞳が炯々と輝くように、ゴルゴン・ギャガという男の本質に巣食う怪物は、いっときも彼を解放してはくれない。 だから彼は、自らを恐れている。 ギャガの「眼」を借りてマーマンの「核」を見極めたクロウは、折り重なるように迫り来る水棲魔族の群れへと低い体勢で踏み込み、粘ついて足を取ろうとする泥を蹴散らしつつ、大鎌を斜め下から上空へ掬い上げるように降り抜いた。その尖った切っ先がマーマンの長い舌を真っ二つに斬り上げ、勢い、潰れた頭部をもかち割る。 白銀の刃に纏わりついた青紫の体液が、飛沫となって暗い星空へ散った。 「来(こ)よ、我の声に導かれ我の意思に従うものども。 天恵の豪雨に晒され滅び行く不浄の御魂に、憐憫の詠歌を捧げよ」 右手一本で保持した大鎌が夜空を突き上げるなり、煌く刃を中心に純白の燐光が渦を巻く。その照り返しを受けて一際豪華に輝いた極彩色の美女は、金色に底光りする琥珀の瞳で無数のマーマンどもを睥睨した。 「食い潰せ、天子の御魂」 密やかに囁いて、女神の紅い唇が弦月を描く。
ああああああああああいいいいいいいああああゆゆゆゆゆあああああややややややおおおおおおん。
大鎌から放射状に発せられた燐光が詠う。振り下ろし、薙ぎ払い、掬い上げ、また振り抜いて、弓形の白銀が淀んだ空気を切り裂き、瞬く残光で虚空に奇怪な文様を描く度、分離した燐光が詠いながら四方八方へと飛び散って急上昇、刹那で、密度の高い水滴のように、まさに輝きの豪雨のごとく、ぬめった体表に小さな光を点すマーマンどもへと降り注いだ。 垂直に突き刺さる、光の雨。 ああゆあやよあいあおん。あはははははは。 無邪気に残酷に笑う雨がマーマンの皮膚を突き破って瘤に食い込んでは、淡く紅色に淀んだ「核」に取り付いて、また詠う。
いやゆえあいやおうあい。あ。うん。
パン。 微かな破裂音を伴って消える、実体のない水滴。その消滅に巻き込まれたマーマンの「核」も、また爆裂して消えた。 分離再生の機能を持つ「核」が消えると、末代、つまり系譜のお終いになった水棲魔族たちは狂ったように咆哮しながら、水かきのある手に草刈り鎌よりも鋭利な爪を光らせてクロウに襲いかかって来た。異形の魔族たちでさえ「死」が目前に迫れば恐ろしいのか、見開いた双眸はどす黒く血走り、ひび割れのような口からは透明な泡を吹いている。 怒涛のように迫る半狂乱のマーマン。直視しただけで常軌の吹っ飛びそうなその光景にも、クロウは眉ひとつ動かさなかった。冷然と微笑んで燐光を纏う大鎌を背に構え、重心を低く保ったまま終焉間近な魔族の群れを見据える。 びしゃん! と叩き付ける音を頼りにすり足で一歩踏み込みながら、刃を下にして背に隠していた大鎌を水平に戻し前へ。肩を中心に思い切りよく振り抜いた銀光は迫るマーマンの胴体を真横に斬り払いつつクロウの身体を半周し、し終えるのと同時に手首で返した切っ先が、倒れ伏した魔族を踏み越えて飛びかかって来た新たな魔族の野太い喉を刺し貫いた。 腐臭を放つ体液が中空を舐め、クロウが大きく一歩以上飛び退く。着地した踵に力を込めて片膝を地面に、すぐ攻撃に転じようと前傾した、瞬間、振るい落とされてきりもみしながら地面に激突したマーマンの骸が泥と伴に爆裂し、彼女の視界を奪った。 咄嗟に腕を翳して眼を護ったクロウの動きが鈍る。 それもまた瞬間、吹き上がった泥の幕を突き破り、マーマンより上級の、小型だが知能が高く機敏なシーマンが手に棍棒のようなものを握って飛び出して来た。 咄嗟に後方へ転がりながら切っ先を薙ぎ払うが、シーマンはそれを滞空してやり過ごした。全身のバネが異様に発達したシーマンは、脚力の微調整で滞空時間を変えてくる厄介な魔族なのだ。 予想より一拍遅れて着地した水音に、知らず舌打ちが漏れる。多少顔が人間らしくなっているが基本的にはマーマンと同じ構造のシーマンも、既に「核」は食い潰されているよだった。 では、今までどこに隠れていたのか。燐光に取り付かれて「核」を失っても尚反撃の機会を窺っていたとしたら、呆れた一本気ではないか。 クロウに迫るシーマンが、奇声を発しながら棍棒を振り上げる。泥に塗れて重さの増したエナメルのコートで地面に筋を描きつつ転がり距離を取ったつもりが、クロウはいつの間にか、極力避けていたはずの水際へと追い詰められていた。 愕然とする暇もなく、棍棒を掲げたシーマンと鋭い爪を繰り出すマーマンを躱し、大鎌を振るいながら濁った水を蹴立てて汀を移動する。これだけ浅ければまさか水棲生物も潜んでいないだろう、という彼女の予測は、追い縋りそうなシーマンの頭部を振り向きざまに斬り飛ばし、右から左に流れた刃を停めた瞬間に瓦解した。 「!!」 ずるっ! と足首まで湖水に浸かった左足が滑り、クロウはそこで無様にも、ばしゃんと飛沫を跳ね上げて尻餅を突いてしまったのだ。 思わず左右に視線を馳せる。迫るマーマンの群れ。腰まで水に没して渋面を作り、盛大な溜め息と伴に地面に突き立てた大鎌を支えに立ち上がろうとした、刹那、彼女は全身を硬直させ悲鳴を飲み込んだ。 何かが……太腿をぬらりと撫で過ぎた不快感。 慌てて水から逃れようとする足首に今度こそ細長い「何か」が巻き付き、クロウはぬかるみに突き立てていた大鎌を引き抜いて、泥を掬うように湖底を攫った。 判りたくないけれど、判る。肌が泡立つ。考えたくない。見たくもない。 ぶちぶちとイヤな音と感触が大鎌の柄を介し掌に伝わると、クロウは思わず身震いしてその場から逃げ出そうとした。 が、立ちはだかる、マーマンの群れ。包囲は狭まっている。 湖を背にして大鎌を構え、クロウはぎゅっと唇を噛んだ。 じゅぶじゅぶと水泡の弾ける音がした。それから、流れ落ちた泥水が水面を叩く音も。そこまではいい。例えばマーマンやシーマンが陸へ上がろうとする時にも、きっと同じ音がするはずだ。 しかし、それに続く、生理的嫌悪感を逆撫でする水音に、クロウは細い眉を寄せて奥歯を噛み締め、絶対に降り返るまいと心に誓った。 じゅるるじゅるるるるじゅるじゅるじゅるるるるるるる。 にちゃ。にちゃ。にちゃ。にちゃ。にちゃ。 んふふふふふ。んふ。んふふふふ。んふふ。んふ。 ざーあざーあざーあざーあざーあざーあざーあ。 湖面を波立たせながら水を漕いで、それ、が少しずつ背後ににじり寄ってくる。 振り返っては行けない。振り返りたくない。しかし、正体が判らないから掻き立てられる不安を振り払うためには、振り返らなければならない。 凍り付いた葛藤の時間…実際は一秒か二秒…を経て、周囲で狂ったように雄叫びを上げたマーマンの包囲がじわりと更に狭まったのに、クロウは、背後からの重圧に押し潰されそうな自分を叱咤し白銀の大鎌を構えるべく、ぴくりと指先を動かした。 瞬間。 眼前に迫る濃密な靄の向こうで真白い炎が瞬き、半呼吸遅れて追随した号砲が淀んだ空気を激震させる。何か。鋼で造り上げた獣が咆哮したような錯覚にクロウが全身を硬直させた時には、飛来した弾丸がマーマンどもの歓喜を螺旋に引き裂き、着弾衝撃がぬめった身体の半分以上を吹き飛ばしていた。 クロウは、抗う事をやめた。 動く事さえ諦めた。 再装填の間隙さえも意識させない銃撃が、逃げ惑う術(すべ)知らぬ魔族を情け容赦なく血煙と肉塊に変えるのを、ただ見ていた。 見ては行けない。見たくない。しかし、正体が判らないから掻き立てられる不安を振り払うためには、見据えなければならない。 目を逸らしては、ならない。 鋼の咆哮が止み、雄叫びが収束してないものになり、ささやかな水音だけが残った湖畔を乾いた一迅の風が非常にも撫で過ぎると、何かに怯え逃げ去るように辺りの瘴気がさぁっと晴れた。 そして。 だから。 クロウは見た。 堆(うずたか)く積み上がった灰褐色の肉の塊を従え、その隙間から漏れ出した体液でどす黒い紫に変色した泥濘に累々と折り重なって散乱する灰褐色…つまり元マーマンであったモノ…の骸を踏みつけにして佇む、不死者の王を。
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