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番外編-6- **まで残り、1センチ |
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アスカの居た痕跡など微塵もない室内に、空々しくも重苦しい空気が満ちている。少し前の様子を脳内で再現し終えたハルヴァイトは、床から天井まである大きな窓から射し込む午後の日差しがそろりそろりと傾き始めているのをなんとなく確かめ、それから、傍らで拗ねている恋人に視線を移した。 綺麗な恋人。これは、しかし、狂っている。取り憑かれている。全てを観察し尽そうとするあのダークブルーで、この都市を。 救い難くも我侭で自分勝手で他人の都合などこれっぽっちも構ってくれないこの都市を。
溺れるような、しあわせに。
無理なのに。到底、そんな事は実現不可能なのに。 ミナミが、ハルヴァイトの恋人でなかったら。かもしれないが。 見知らぬ誰かを救いたいとは思わない。正直、知人であっても勝手に不幸にだろうが幸せにだろうがなればいいと、ハルヴァイトは思う。 彼が望むのは、彼のしあわせだけだ。平穏無事でなくてもいい。どうでもいい。ただ、この恋人がしあわせであればいい。 そのためになら、この悪魔は、天使の膝元になんでもかんでも捻じ伏せる。 事が、出来る。 そしてこの悪魔は。 出来るから、やるのだ。 完膚なきまでに。 周囲の都合など、お構いなしで。 最悪。 頬に注がれる温い(…)視線に恐れをなした、訳ではないだろうが、ミナミが不意にハルヴァイトを振り向く。 「…何?」 何か問われた気がして小首を傾げる、ミナミ。 「ヒス・ゴッヘル家とルー・ダイ家の、というか、キャロン嬢とアンの件が、最近また水面下で活発になっているという話は、お聞きですか?」 唐突、且つ、ミナミの屈託の正体を見透かしたようなハルヴァイトの質問に、青年が微か息を飲む。 「…うん、聞いてる…。つか、アンタがそれを知ってたつうのに、結構本気でびっくりした、今」 「電脳班の存在も絡んでますから。というのは建前として、実はさっきドレイクに言われるまで忘れてたんですけどね」 組み替えた足の上に肘を置き直したハルヴァイトが苦笑を漏らし、ミナミはなんとなく安堵の溜め息を吐いた。このひとがそういう煩雑な事をしょっちゅう考えるようになったら世界の終わりだ、とか、ちょっと思う。 「では、一度は婚約関係を解消したがっているという噂まで出たヒス・ゴッヘル家が、アンの衛視昇進に伴い急に態度を変えたのは?」 「それも、ある程度聞いた」 「ヴィータ・イブニングの社外契約記者に、匿名でヒス・ゴッヘル家とルー・ダイ家の婚約関係を漏らしたのが、キャロン嬢付きの執事だったというのも?」 「…え?」 それは本当に意外だったのだろうミナミが、吐息のように漏らすなり身体ごとハルヴァイトに向き直る。 「それは、知らなかった」 「調べたのが、特務室ではなくリインだったからでしょうか、ドレイクが室長にそこまで報告しなかったのは。ですが、実際記事を書いた記者に接触して確認したそうなので、間違いないですよ」 複雑に揺らぐダークブルーに見つめられても、ハルヴァイトは冷たい表情を崩さない。これは、データ。提示された、情報。 「アン昇進で態度を変え、早々に婚約を履行させたいというヒス・ゴッヘル家の思惑は、明らか過ぎて笑えますね。それまで散々、魔導師にすらなれない三流貴族との姻戚関係は迷惑だという態度を取り続けて置きながら、アンが陛下直属の衛視団に招集された途端にやっぱり娘を差し出しますとは、呆れた利己主義だと思いませんか?」 「でも、それと、あのゴシップ紙に密告するのと、どう関係あんだよ」 「とっとと既成事実を発表してしまって、他の、ヒス・ゴッヘル家とルー・ダイ家の婚約関係解消を仕掛けて、代わりに自分の娘をアンの妻に据えようとする女系貴族の動きを封じるためじゃないのかと、ドレイクは言ってましたよ」 言われて、ミナミはなるほどと思った。 今更ながら、さっさと済ませてしまいたい婚約。しかし、ヒス・ゴッヘル家はルー・ダイ家を良く思っていないという「噂」が上流階級間では流れていて、ならば、そんなところは辞めてうちの、諸手を挙げてアンの妻になりたがっている娘に乗り換えてはどうかと食指を蠢かす有象無象…。 「そこで、あれこれ騒ぎが起きる前に市民を巻き込み、祝賀ムードで盛り上がって、ルー・ダイ家に後戻り出来ない状況を作ろうって、そういう手段?」 「正直なところ、ルー・ダイ家がそういうものの扱いに慣れていないというのにも問題があったんでしょうがね。もっと早くに毅然とした態度でヒス・ゴッヘル家を突っ撥ねておければよかったものを、アンの父上なのか次代当主の兄上なのかが、そんな、小さな傷も嫌った皺寄せが、全てアンに来ている」 あの、いつまでも愛らしく健やかな「少年」に。 「じゃぁ、こっち…特務室にヴィータ・イブニングの動向を密告して来たのは、誰なんだよ。あの匿名通信がなかったら、とっくにアンくんとキャロン嬢の婚約は勝手に発表されて、計画は成功してただろ」 そう、あのスクープを直前で食い止められたのは決して幸運ではなく、第三者の通報があったからなのだ。 「通信が大路脇の公衆通信機からだったので相手は特定出来ていませんが、ドレイクは、もしかしたらそれも…ヒス・ゴッヘル家の関係者ではないかと言っています」 相反する、ふたつの思惑。 「わたしは、それが本人でも驚きませんが」 「…本人て…」 背凭れにしがみ付いたミナミの真剣な表情に暗い笑みを見せ、ハルヴァイトは頷いた。 「ヒス・ゴッヘル家とルー・ダイ家の都合は、しかし、キャロン嬢とアンの都合ではないですから」 前例は幾らでもあるでしょう? と言い足した恋人を、青年は睨むように見つめる。 歓迎するひと、しないひと…。 「ところで、さ。なんで今その話なんだよ」 最低限、ミナミはこの、両家の都合を歓迎していない。 「ドレイクが、だからアンはルニ様の質問に答えなかったのではないかと、わたしに言ったからですよ」 だから? ミナミに据えていた視線を正面に戻したハルヴァイトが、ちょっと面倒そうに息を吐く。そろそろリミットか? しかし、ここで「もう面倒だからどうでもいいじゃないですか」などと言われたら、非常に気持ち悪い。 これは、なんとしても最後まで話して貰わなければならない! と、ミナミは心底思った。 「っていうか、俺って結構苦労性かもしんねぇ、とかマジで思う…」 思わず眉間に皺を寄せて唸ったミナミを、恋人は笑う。 「では、楽な方に逃げるというのは?」 「例えば?」 ミナミ嘆息の理由に思い当たりがあり過ぎるくらいあるのだろうハルヴァイトがからかうように言って小首を傾げ、ミナミも、問いながら華やかな金髪に陽光を散らして、首を捻る。 「キスしていいですか?」 「それでアンタのやる気が戻んならいいけど、でなかったらダメ」 即答だった。 ハルヴァイト、思わず唸る。 「…戻します」 「つうか、そっちを即答しろよ」 俺でなく。と、言いつつもミナミは俯き、わざわざ向き直ってくれてご丁寧に片方の膝を座面に上げ身体に引き寄せたハルヴァイトに近付いて、その薄笑みの唇にふわりと触れた。 恋と、くちづけ。 ミナミはひとつ、ルニに嘘を吐いた。 それは同じでありたいのではなく、同じであって、これから先他にはないだろうと、ミナミは思う。 他には、必要ないだろう。 「…初恋もくちづけも、アンにとってはもう「自由にならないもの」なんですよ。家族がアンをどう思っているのか知りませんが、アンは、「家族」をないがしろに出来るような、…わたしのようなね、不真面目な人間ではないでしょう? だから彼は、キャロン嬢と面会し、正式に婚約を取り決めて履行するのと同時にルー・ダイ家の次代当主として指名すると言って来た兄上に、ひとつも抵抗しなかったんです」 耳元で囁くようなハルヴァイトの声に、ミナミは愕然とした。 「……い…つ?」 「わたしたちがここへ越して来るのと同じ頃です」 からからに干上がった声をようやく絞り出したミナミとは対照的に、ハルヴァイトはやはり酷く落ち着いている。 この、悪魔、は。 「いくら屋敷に来るように言っても顔を出さないアンに痺れを切らして、兄上がメリル事務官を通じて伝言を」 「嘘…だろ…」 間近で覗き込んだ鉛色は冷たく、暗く、ミナミを…突き放す。 「本当ですよ。なんでしたら、どうぞ訊いてみてください。 その時そこには、わたしと、ドレイクと、班長がいましたから」 まるで何も、知らないかのように。 呆然と、愕然と、まるで気が抜けてしまったかのようにハルヴァイトを見つめるダークブルー。 「だから、アンはルニ様に答えなかった。初恋も、くちづけも、アンにとっては、もう、切り捨てて無かった事にするしかないんですから」 そうか、とミナミはハルヴァイトに視線を据えたままぼんやりと考えた。 あの銀色は、全て知っていた。 きっと、全部「判って」いた。 けしかけるミナミに嘘と言い逃れを繰り返し、判られていると勘付いていたくせに、どんなに言い募っても宥めすかしても咎めたててみても、絶対に首を縦に振らなかった、ヒュー・スレイサーこそ。 この世で最も、あの少年を愛しんでいる。 「…俺、は…、間違って…た?」 「いいえ」 「でも、俺は…」 酷くゆっくり吐き出された悔恨の台詞を否定したハルヴァイトが、両腕を広げる。どうしろとも言わず、どうしたいのかとも問わず、しかしミナミは促されて、許された時のように、固く組み合わせた両手を胸の前に掻き抱き、とん、と恋人の胸へ倒れ込んだ。 逃げ込んだ。 「ミナミ。後悔したのなら、では、「知っている」あなたは、もう、何もしてはいけません。これはアンの決めた事です。判りますよね? 「知っている」からこそ、あなたは、 絶対に、何も、してはいけない」 毛先の跳ね上がった金髪から覗く耳元でハルヴァイトは、まるで呪詛のように囁き、怯えて震える青年のか弱い背中を、しっかりと抱き締めた。
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