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番外編-6- **まで残り、1センチ

   
         
(15)

  

 黙々と、床に散らかった書籍を拾い上げてリビング造り付けの本棚に戻しながら、執事、アスカ・エノーは、内心の笑いを噛み殺すのに必死だった。

 お茶の支度を運んでくれとハルヴァイトに言われてワゴンに載せたそれをリビングに持ち込んでみれば、いつの間にやらミナミが帰宅している。確かに、本邸のエントランスを使わずとも別邸に出入りする事は可能だったが、ハルヴァイトは別として、ミナミは大抵きちんと本邸に寄ってただいまを使用人たちに言い置き、それからこちらへ移動して来る。そんな律儀な青年がハルヴァイト在宅を確認していたリビングに直行する理由はままあると仮定しても、そのミナミが完璧に拗ねた表情でソファの隅っこに正座し、更には耳まで真っ赤になってハルヴァイトから顔を背けている理由はさっぱり判らなかった。

 しかしそこはそれ、幼少のみぎりからゆくゆく完成した執事になるべく、彼(か)の執事長、リイン・キーツ直々の指導を受けたアスカとしては、余計な詮索も興味も示す訳には行かない。しかし、いついかなる時も執事然と振る舞い主人の私生活を秘匿するのが彼らの責務であり、存在意義なのだと思いはするが、どうもこの複雑怪奇な新しい主人たちは喧嘩していようがじゃれていようが微笑ましい事この上なく、ついつい頬が緩みそうになる。

 と、引き攣りそうな表情を気合と根性だけで抑えつけたうら若い執事の葛藤など知る由もなく、ミナミは大いに拗ねていて、ハルヴァイトは声を殺して笑っていた。

「いや、ですから、言うタイミングを逃しただけですってば」

「だから、知ってたならさっさと言っとけつってんだよ、俺は」

 仲睦まじくもばかばかしく言い合うミナミとハルヴァイトの後ろを忙しく行ったり来たりしていたアスカが全ての本を片付け終え、運んで来たお茶の支度に取り掛かる頃には、拗ねるのに飽きたのか、足を崩してソファに座り直したミナミが、未だ笑い続けるハルヴァイトをあのダークブルーでじろりと睨んでいる。

 ハルヴァイトは、相変わらずソファに座り肘掛に片肘を置いてくつろいでいた。着崩れしたシャツにコットンパンツ、ルームシューズはテーブルの下に放り出されていて、床に置いているのは裸足の爪先。

 そのハルヴァイトと並んで…間に一人分より狭い隙間を死守しているのだが…ソファに座ったミナミはといえば、明るい水色のプルオーバーにこちらも幅の広いコットンパンツという、いかにもリラックスしたルームウエアを纏っている。それから察するに、今日はどちらも外出の予定はないのだろうとアスカは、ふたりの前にそれぞれティーカップを置いてから、小さく一礼した。

「お忙しいところ申し訳ございませんが、お二方」

「忙しくねぇって…」

 ミナミ、執事にも突っ込む。

「本日の夕食は、どのようになさいますか?」

 しかし、アスカ、慣れているのかなんなのか、きっちり仕事はこなす。

 それでミナミは溜め息混じりに唸り、ハルヴァイトがまた吹き出した。

「ドレイクは今日屋敷に戻ります?」

 む。と口を閉ざしてそっぽを向いたミナミの代わりに、仕方がないので? ハルヴァイトがテーブルに置かれたカップを手に取りながら、笑顔でアスカに問う。

「はい。先ほど、夕刻までにはお戻りになると、キーツ執事長宛の連絡がありました」

「では、今日は母屋にお邪魔しましょうか。それまでにミナミの機嫌が戻らなかったら、ふたりして謝るハメになりますけどね」

「つうか、アンタひとりで俺の相手すんのが面倒くせーだけじゃねぇのか?」

「まぁ、それもありますけど」

「…ハルヴァイト様、お言葉には十分ご注意なされますよう、差し出がましいとは存知ますが、一言アスカが申し上げます」

「わたし?」

「てか、ミラキ卿にも責任あんだから、後でちょっと文句言ってやる」

 あのお節介な大主人が…現在のアスカの主人はハルヴァイトとミナミであって、ドレイクは更にその上に居るのだ…今度は何をしでかしたのかと思いつつも青年が、食事の時間になったら呼びに来ると二人に告げて部屋を辞す。両開きのドアに消えようとする亜麻色が深く一礼し、ぴたりとそれが閉じて、ミナミはもう一度だけ溜め息を吐いた。

 ルニがおかしな事を言い出したのだとミナミがハルヴァイトに言ったのは、結局、胸にわだかまった不快感を吐き出してすっきりしたかったからだろうと思う。無責任にも、かもしれないが。

 始めはなんだか要領を得ない例え話を幾つか並べ、そのうちに、意を決してハルヴァイトの胸元に伏せていた顔を上げ、「あのさ」とようやく重い口を開いたミナミに、恋人は、ふと微笑んで無情にも言い放つ。

「ルニ様が何かしでかしたそうで」

「何かつうか、そんな大した事じゃねぇのかもしんねぇけどさ。って、なんでアンタがそれを知ってんだよ、あり得ねぇ! じゃなくてミラキ卿か!」

 ミナミ、思わず普通に話を続けようとして、突如キレた。

 というか。

「まさかアンタ…」

 青褪めた?

「? ああ、あなたがなんと答えたのかも、ドレイクに聞きましたけど?」

 ハルヴァイトの方は、成層圏を突破するほどご機嫌だったが…。

 ほとんど逃げ去るような勢いで恋人から離れたミナミは怒気満点…これは非常に珍しい現象だろう…で、着替えると言い捨て暫く姿を見せず、ルニの暴挙に対する話題は空中分解か? とハルヴァイトは思った。

 ミナミがリビングに戻るまでの時間、ハルヴァイトは考えた。正直、対象が誰であれ他人の初恋だとかなんだとかに、全く興味はない。付け足すならば、自分の事など覚えていないし。概ね、そんなものさえ文字列時代か、なかったか…。と、思わず失笑も漏れる。

 では、さて。自分の事は卒なく、更には返答をハルヴァイトが聞いたというだけで逃げたくらいなのだから、相当本気で答えたのだろうミナミは、何を言わんとしているのか。まさか、ハルヴァイトにルニと同じ質問をしたいのか? 

 多分、ミナミ自身の問題でもなければ、自分への質問でもないだろうとハルヴァイトは想像する。

 必要なデータを幾つか思い浮かべて、ドレイクの少々弱った笑いという、あってもなくてもいいようなそれを追加し、答えは。

「…アン、でしょうね」

 携帯端末の小さなモニターの中で苦笑するドレイクの曇天が一度だけ本気で曇ったのは、自分とアリスがそれぞれ大昔の懐かしい話を白状し合い室内の唖然を招いたと言った時ではなく、「アンがよ…」と小声で付け足した後だった。

「例の話」が随分具体化しているようだというのは、ハルヴァイトの耳にも入っている。確か、初めてそんな話題に触れたのはハルヴァイトたちが揃って衛視に昇格し、栄えある初回の謹慎を食らって、すぐ後だったか。全く意図しない方向から伝えられた「その話」。いつかどこかで必ず出るだろうそれにハルヴァイトは驚きもしなかったし、丁度、色々と「忙しく考え事」をしていたものだから、適当にあしらったような気がする。

 ただし、聞こえて来た方向に少々問題があって、結局、室長にまで問い合わせ情報そのものを抑えるハメになった、と、後にドレイクが言っていた。

 今思えば、それもまたどこかアンの与り知らない場所で、勝手に回っていたのかもしれないが。事実関係を確かめよとクラバインに指示されて少年に話を聞いた…そのくらいは、上官としてやらなければなかったので…ハルヴァイトに、アンは少し困ったような顔でこう答えたはずだ。

          

 当然お名前は存じてますけど、お会いした事はありません…。先方が解消の申し入れをする準備に入っているらしいって、そういう噂を随分前から聞いてたんで、兄がヒス・ゴッヘル家のご都合を考慮してもう断ったものと思ってました。

        

 キャロン・ヒス・ゴッヘル。

 どんな容姿でどんなお方なのか、ハルヴァイトは全く知らない。ただ、スーシェの父でありデリラの義父である当代ゴッヘル卿の妹君が立ち上げた新興女系貴族の長女で、アンより五つか六つ年嵩だったはずだ。

 ハルヴァイトはゆっくりとそこまで考えて、ソファの背凭れに後頭部を預け、高い天井を見上げた。

 それもまた、先手を打たれたという事か。当初、電脳魔導師隊に所属してはいるものの魔導師として認められていなかったアンを、約束でルー・ダイ家に娘を嫁がせなければならなかったヒス・ゴッヘル家は、いつまで経っても少年が昇格しないのを理由に切り捨てようとした。まずはやんわりと、婚約の破棄を申し入れたがっている、というような空気をあちこちで振り撒き、お話は大体お耳に入っているものと思いますが、とか何とか言って、全てアンの無階級が原因でもあるかのように、つまりは、キャロン・ヒス・ゴッヘルには何の落ち度もないという「無傷」の状態で、約束を反故にしようとしたのだろう。

 しかしここで、いきなりのイレギュラー。

 事もあろうに、アンが魔導師になり、同時に衛視に召し上げられるという、ルー・ダイ家にしてみればまさに晴天の霹靂たる大逆転劇が起こる。

「…大逆転ね。わたしに言わせれば、少しも驚くような事態ではなかったんですが…」

 ふ、と浅く口の端を歪め、ハルヴァイトは笑う。

 アンがハルヴァイトを指名しようと決意した、瞬間、数多の未来を掴み取れる「可能性」の中に、それ、も含まれた。だから、どうしてもと懇願されたら少しくらいは驚いてやってもいいが、そうでないなら、アンが衛視になったのは奇跡でもなんでもないのだ、驚くどころか、当然だくらい言ってやりたい。

 あの少年は、最初から自分の手で何かを掴もうと決めて行動し、望む以上のものを掴んだ。それだけだ。

「何でも与えられるのを待ち続けるだけの停滞した人間たちには、それがいかなるエネルギーなのか、判らないんでしょうが」

 例えば、勇気を振り絞って、という言葉がある。それを「振り絞る」には、決意、決心が伴い、当然、個々に発揮する量の違いもあるだろう。

「わたしは、わたしの「勇気」…まぁ、便宜上そう呼ぶだけだが、それを普段五割しか行使せず、しかし「その時」、十割酷使しようとする。それも確かに「振り絞る」に値するだろう」

 ただし、とハルヴァイトは、不透明な鉛色の瞳で天井を見つめ、思った。

 魔導師という階級さえ冠していない訓練校の生徒が面談を求めていると聞いて、それは随分奇特だと答え、ついでに、好きにすればいいとも言った。暫くして今は懐かしい第七小隊の執務室にやって来たのは、色の薄い、線の細い、本当にただの子供だった。

 ダイ系貴族第八位ルー・ダイ家の三男で、ぎりぎり、下位の魔導機が扱えるかどうか、という臨界占有率しか確保出来ていない少年は。

 そう告げた。無理だと言い切った。

 そうですか。と、あの少年は、落胆するでもなくきっぱり答え、その次に…。

         

 ファイランで一番強くなれないなら、一番強い魔導師に「必要」だと言わせるようになりたい。

          

「…興味、ね。そうかもしれないな」

 アンはあの時、ない勇気まで「振り絞った」のだ。本当に、血肉を捧げて屍を曝す覚悟だったのではないだろうか。

 無理だという「悪魔」に、それでも「強くなりたい」と言った、あの無謀さは。

 多分、「他人」に対してそういうものを抱いたのは、あれが始めてだったかもしれないと、ハルヴァイトは今頃になって思った。

 仰け反るようにしてソファの背凭れに預けていた頭を水平に戻し、腕を組む。思い出? はこの際どうでもいいだろう。過去は過去。それは現在に繋がる必要不可欠要素だが、今になって書き換える術はない。では、何を強引に「書き換えるか」。

 違うな、とハルヴァイトは薄笑みを零し、一旦思考を停止した。

 うな垂れて、ばさりと額に落ちかかって来た鋼色の髪を掻き回し、わざと面倒そうに溜め息を吐いて腕を解く。アスカに紅茶を頼もうか、それともコーヒーを淹れようか少し迷うふりをしているうちに奥へ続くドアが開き、憮然とした無表情のミナミが現れて、これはとりあえず恋人の機嫌を取るべきかと、その時は、本気で思った。

  

   
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