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    6ドラマティカ    
       
(13)

  

 天蓋の向こうで皓々と輝く月の姿は、その家のどの場所からも見る事は叶わない。

 こんな気分の夜、全てを溶かそうとする強酸性の銀光を浴びてこの身が跡形もなく消え去ってしまったら、どんなにいいだろうかと思う。

 なのに、月は姿を見せてくれない。

 だから、彼は今日も部屋の中央に立ち尽くし、落胆の溜め息を吐き出す。

 臨界にじわじわと浸食されて行く。逸れた常軌を冷静に受け止めて、しかし、「逸れた」と判らない。判っていない。判っている。でも、どうしようとも思わない。

 最初から、自分など「ない」ままでよかった。敬われる地位も、畏怖される力も、何もいらなかった。

 今は? 今も。今では違う。

 それが唯一彼の求めたひとを護り通せるなら、何にでも耐えられる。

 罪も罰も。

 贖罪はない。

 呵責の意味を知らない。

 どこか、壊れている…。

「………わたしの正気と狂気は、いつでも紙一重だ」

 背中の方から伸ばされて来た鋼色の腕に視線を据えて、彼…ハルヴァイトは疲れ切った声で呟いた。

 腕は、まるで彼を抱き締めるかのように、関節を軋ませてハルヴァイトの身体の正面で交差する。人と言うにはバランスが悪過ぎる程長い前腕の先には、細長い掌と指、凶器のごとく煌めく長い爪…。

 それは、悪魔。骸骨の腕。血も肉もそれを覆う外殻も持たない、剥き出しの骨格。

 どこから生え出ているのか、しかし、ハルヴァイトの周囲にあの特徴的な電脳陣は見当たらない。ただ背後の空間が陽炎のように歪み、垂直に立ち上がった波紋から腕だけが突き出しているのだ。

 こんな事は、有り得ない。電脳魔導師という常識外れな常識にあっても、これは、許されない。

 ではなぜ、ディアボロの腕はハルヴァイトを慈しむように抱き締めているのか?

 慈しむように…。蠢く指先をハルヴァイトの肩に絡ませ、鉛色の瞳から注がれる視線に戸惑って怯えたようにいっとき離れるが、またおどおどと蠢いて、その肩を抱き締める。

 ハルヴァイトは、声も立てずにそれを笑っていた。

 ずっとずっと前から、笑い続けている。

 始めて自分の中にある「悪魔」を見た時から、彼は…笑っていたはずだ。

 そして、いつまでも笑い続ける。

「……滑稽過ぎる、何もかも。わたしも、何も知らない狂った都市の連中も、臨界を「異次元」だと信じる魔導師も」

 だから愛すべきは、それらに冒されていない恋人。文字列でない、恋人。

「………………ミナミ…」

 囁いて、ハルヴァイトは全ての真相を覆い隠すように瞼を閉じた。

2002/08/04(2003/01/08) goro

          

   
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