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6ドラマティカ | |||
(12) | |||
誰かを「好き」になってみたいとミナミは思っていた。 誰かに「好き」になって貰いたいという希望は、いつも叶いそうで叶わないまま、「失望」という本性を現して彼の腕から擦り抜けて行った。 何かを本当に「掴みたい」という望みはいつでも恐怖に押し負け、ハルヴァイト・ガリューというひとを得て、無くす瞬間を知り、恐怖は、臨界の炎に燃え尽きた…。 怖くなかったのは、最初のくちづけ。 しかしもうそのひとの唇に触れる事さえ出来ないほどにミナミ・アイリーは自分を嫌い、淫猥に仕込まれた三年間を晒して、そのひとを手放すはずだった。 ただ彼は、読み違っていただけ。 ハルヴァイト・ガリューというひとの本当の「怖さ」と、ミナミ・アイリーという自分の本当の「気持ち」を。 恐怖はとうに臨界の炎に燃え尽き、最早それは目を逸らせない「欲情」に成り代わっていた事を。
どん、と背中に衝撃を受けて、ハルヴァイトはぎょっとした。 「俺は…アンタに誰も殺して欲しく……ねぇ…」 どこからミナミの声がするのか判らない。確かめようと振り返ろうにも、上手く身体が動かせない。 「…俺…は、どう…しようもなくダメで…、誰にも…触れなく…て……、でも…」 だからハルヴァイトは、本当に呆然と、後ろから回されて制服の胸元にしがみ付いた細い指先を見下ろし、頬に触れた柔らかな髪の感触に、当惑した。 とりあえず、そうする事しか思い浮かばない。何が起こったのか、すぐには頭が働かない。 「アンタにも……」 「ミナミ…」 「でもアンタには…」 「すいません…。質問をいいですか?」 「つうか、なんでこんな時にそんなすっとぼけた事言えるんだよ、アンタは?!」 「重大問題だからです!」 勢い怒鳴り返してしまったハルヴァイトが、思わず自分の口元を手で覆った。 ひとつここで確認しておく。 今日の重大問題は、山積みだったはずだ。とにかく、ありとあらゆる問題があったはずだ。隔壁に不正ハッキングだとか、殺しだとか、爆破だとか、容疑者が電脳魔導師だったり、拘束されたり軟禁されたり王様と機密契約があったり、とにかくどれもこれも最終的に「重大問題」と呼んで差し障りないというか、それを「重大問題」と呼ばずして何を「重大問題」とするのか?! という論議を小一時間戦わせても有り余るほど。 ところが、ハルヴァイトはそれどころでなくなった。 極端な話、自分が無実の殺人犯に仕立て上げられたとしても、どうでもよかった。 問題は…。 「……悪ぃ……、今確認されたらアンタ突き飛ばして逃げるけど、それでもいい?」 重大問題、と言われて、ミナミもようやくそれに気付く。 「それは…ちょっと傷付きますね…」 「じゃぁ、忘れねぇ?」 「ダメです…。眉間に縦皺を寄せてあなたと言い争う気分じゃないですから」 で、ハルヴァイトはいきなり、首だけをくりっと回した。 「というか、無理です」 「…………だろうな…」 力なく答えて、ミナミはハルヴァイトの肩に…額を押し付けた。 それでも身体に回した腕を解かなかったのは、自分が何をしでかしたのか気付いて、耳まで真っ赤になった顔を見られたくなかったからなのだろうか。それとも…。 「どうでしょう? とりあえず、振り返ってキスしていいですか?」 「ダメ。ぜってーイヤ。アンタの顔なんか見たくねぇ。つうかにやにやすんな。黙ってそのままじっとしてろ。俺に触んな。死んでも動くな。って……動くなつってんだろ!」 ミナミは…、反射的に、無意識に、背中からハルヴァイトに抱き着いていたのだ。 「質問を、ミナミ」 「なんだよ!」 殆どケンカ腰で叫び返したミナミの手が、制服の胸元を握り締めている。それを微笑んで見下ろし、静かに、そっと両手を肩まで上げたハルヴァイトが、囁くように問いかけた。 「手に…触ってもいいですか?」 「……逃げ……たら…、傷付くんだろ…」 「だから、どうぞ、逃げないでください」 答えの代わりにまた肩にこつんと額を置かれ、ハルヴァイトはゆっくり腕を下ろして、自分にしがみ付いたままのミナミの手を、両手でそっと包んだ。 胸に掻き抱くように…。 「…折れてしまいそうで、少し不安です」 笑いを含んだ声。 「アンタ…今日手袋してねぇのな…」 「幸運にも、ね」 ハルヴァイトに寄りかかったまま顔を上げたミナミが、ぼんやりとリビングの入り口に目を向ける。 右手に階段、左手にリビングの入り口と、キッチン。少し進んだ突き当たりにはバスルーム…。それらを繋ぐ真っ直ぐな廊下の真ん中で、ミナミはハルヴァイトを抱き締めたまま、短く、安堵の溜め息を吐いた。 笑いが込み上げてくるほど、なんでもない。 「…色んな事あり過ぎて、もう訳判んねぇよ」 ミナミが呟くと、ハルヴァイトの首筋に吐息が掛かった。それが余りにも近すぎて戸惑う。夢かもしれない。だからハルヴァイトは、もしこれが夢なら覚めてしまわないうちに捕まえておこと思った。 「イヤならイヤって言ってくださいね…」 「嫌。」 「…それは早過ぎ」 笑いながらミナミの手を取り握り締めたまま、身体から引き剥がす。何をするつもりなのか、と訝しそうに小首を傾げるミナミの片手を絶対に離さないまま器用にも彼に向き直ったハルヴァイトが、自分の空いた手に視線を落とした。 握り合っているのは、ハルヴァイトの左手、ミナミの右手。 鉛色の瞳が見つめる指の長い大きな手に、ミナミも引き寄せられるように視線を向ける。 「どうして平気なんですか? って訊いても、判りませんよね?」 「……どうだろ…。判る気はするけど…」 「じゃぁ、どうしてです?」 「…………………」 答えに戸惑ったミナミが、長い睫を伏せて俯こうとした。キスを交わすのとは違う間合いで見つめるその面差しはどこか中性的で、ハルヴァイトは、やっぱり恋をする…。 「ミナミ?」 引き寄せられて寄り添い、耳元で低い声が囁く。それで感じたハルヴァイトの体温はミナミと同じに思えて、だから…恐くなかった。 見開いたダークブルーの瞳。それが捉えたのはハルヴァイトの制服と、ゆっくり持ち上がる右手。 「……あいつが…死んだから…。そう聴いたから」 震える唇が胡乱に呟き終えるのと同時に、ハルヴァイトの掌がミナミの頬に、触れた。 「だからあいつは今まで生きてて、あいつが生きてたって事は、他の…五十七人もどっかで生きてて…、それは…………」 だから、とミナミは言うべきだったかもしれない。 細くて長い指。少し、見た目よりも骨張ってごつごつしている。微かに掌が汗ばんでいるのは、ハルヴァイトがとんでもなく緊張しているからなのだろうか。 ミナミは一度言葉を切って息を吸い、ゆっくり吐きながら…自分の頬に当てられたハルヴァイトの手に、空いている手を重ねた。 ミナミの、華奢だが小さくはない手。男なのだから、柔らかくもない。ただそれはさらさらしていて、少しひんやりしていた。 「誰でもなくて、あいつらは俺の記憶の中だけに居るんじゃなくて、本当に生きてて、アンタじゃ…ない」 だから、恐くない。 目の前に居てミナミを抱き締め、頬に触れ、手を握り…。 頬に添えられたハルヴァイトの手に促されて、ミナミはそっと顎を上げた。 「…全部現実だった。だからアンタも………ここに居る…だろ?」 囁いて、ミナミが長い睫を閉じる。いっときそれを見つめ、それから微笑んだままの唇でいつもより温度の高いくちづけを落とす、ハルヴァイト。 殺された男、ヘイルハム・ロッソーの遺した物、幾つも。数多の不安。数多の秘密。数多の現実。ミナミはそれでハルヴァイトを諦め、しかし、ハルヴァイトは「終わり」を覚悟して何かの崩れたミナミを、手に入れた…のだろうか。 記録としての記憶が三次元に展開されて、ミナミは知る。 あれは現実。だから、他の不特定多数に怯える必要はない。なぜなら、記憶の中の五十七人は、間違いなく…存在している。 唇を触れ合わせた瞬間、ミナミが重ねていたハルヴァイトの手をぎゅっと握り締めた。 求めては行けないと思う。所詮自分は、最初からあの部屋に押し込まれるために生まれたのだと、ミナミは知ってしまったのだから。 なのに、気持ちと身体が離れている。 ……。離れているのは、気持ちと気持ち、かもしれない…。 ミナミの頬に置いている手はそのままに、握り合った手を引き寄せたハルヴァイトが、ミナミの手を自分の背中に置く。それがおどおどと長上着を掴み、握り締めたのを認めてから、十ヶ月近く一緒に暮らして始めて、ハルヴァイトは恋人の華奢な身体を抱き締め柔らかい金色の髪に頬を寄せて、長く深い安堵の溜め息を吐いた。 「生まれて始めて、何か…とんでもない贅沢をしてる気分です」 「大袈裟…だろ、それ…」 囁くミナミの声が、笑っている。肩に向けた視界に割り込む鋼色の髪を見つめたまま、「誰にも触れられないはずの」青年はゆっくり密やかに、ふわりと微笑んだ。 「大袈裟なんかじゃありませんよ。こうしてあなたを抱き締める日をただの一度も希望しなかった、なんて見え透いた嘘は言いませんけど、あなたが傷付きわたしの側から居なくなってしまう事を思えば、許されたくちづけだけでこの先一生を過ごすのさえ苦痛ではなかった」 「………そんなのは…」 嘘。無理。勘違い…。そう言ってやろうとして、ミナミがハルヴァイトの身体を引き剥がすように背中を引っ張ると、彼は何の抵抗もせず、ミナミから離れた。 重ねた、頬に触れたままの掌。お互いの身体に回した、腕。 掠めるようなくちづけを交わす時よりも遠くて、なのに、触れ合っているという事実。 「そんなものは、わたしの思い込み。守れない約束。疑うしかない、口先だけの? あなたがそう言うならばわたしがどんなに自分を信じてもそれは「嘘」にしかならず、あなたがそれを信じるならば、わたしが自分を疑ってもそれを一生守り通す事が出来る」 溜め息のように呟くハルヴァイトが、正体の知れない鉛色の瞳でミナミを見つめる。 「……アンタ…」 ハルヴァイトがそっと身を屈め、囁いたミナミの唇に、微か、触れるだけの…キス。 「だからあなたがわたしを一生捕まえておけばいい。…本当に、わたしに誰も…殺させたくないのなら」 「選択権はいつでも俺にあるってのかよ…。…アンタ、俺を脅迫するつもりか」 問われて、ハルヴァイトは薄く笑った。 「そうです、ミナミ。わたしは卑怯で臆病な男ですから……。あなた…以前自分で言いましたよね?」 笑う鉛色の瞳を見つめ返し、ミナミは無表情に背筋を凍らせる。 「…………あなたがちゃんとしていないと、わたしの方が…ダメなんです」 この恋人は、名前だけの「恋人」だとミナミが未だどこかで自分を疑っている恋人は、これからミナミのしようとしている全てをもう知っているのではないか、という不安。 観察されているのは、ミナミ。見透かされているのは、ミナミ。試されているのは、ミナミ。 …………………誰にも触れられなかったのは…ハルヴァイト…。 「ダメなんですよ…本当に。日に日にそれは、酷くなって行く…」 無意識にハルヴァイトの背中に縋ったミナミを恐る恐る抱き締めたそのひとの腕が震えている理由から、ミナミは目を…逸らした。
なぜなら、ミナミ・アイリーという名を持って「創られた」青年は……。
全ての根元にある「意味」を葬り去ってしまわなければならないと、今も強固に思っているのだから。
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