さっき喫茶店で[208]をアップしたときは、意図して書かなかった、というよりも実はその瞬間はすっかり忘れていたのだが、きょうはわが子の6歳の誕生日なのであった。とすれば、本編に記した、保育所で「大きな古時計」を歌うメメント・モリの「意義」が、私には二重性を帯びて感じられたのは、当然である。 その歌によってか違う事由によってか、死すべき運命について早くも直観する子がないとは限らない。じっさい何度も授業などでは告白したことがあるのだが、幼稚園か小学1年生のときに(と明言しうるのはその幼少期を過ごした福島県の小さな社宅での出来事である記憶が鮮明だからだ)さる昼メロで、石で棺桶のフタを打ちつけるその傍らで幼児が泣く光景を見て〈死〉の観念を体得し、打ち震え、不眠に苦しんだのは、ほかならぬ私自身だったからだ。 「古時計」と「老人」のアナロジーはそのまま、それを歌う「私」そしてわが「子」にまで波及する。私が私自身の死を恐れるのは約35年前といささかも変わりないが、ふつうにいけば私が死んで数十年後には子も死に、それ以前に彼もまた死の恐怖を意識し始めるであろう、そのこと――否、そう考えるばかりかこうして書いてしまっていることが、たしかに自身でも異様に感じられる、夜なのである。 |
モダニスト
2002/12/21土17:45 [185] |