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. マリアの満足――リハビリにかえて モダニスト 11/13水06:54[169]選択


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. マリアの満足――リハビリにかえてR  
 ある部活の顧問を今年度から務めているのですが、その部員たちがフリーペーパーを発行する(第1号は次の週末の学園祭で)というので、エッセイの寄稿を求められていました。そもそも顧問を引き受けるところからあまり気乗りがしなかったのですが、日記のリハビリも兼ねて、さきほど急ぎ一文を草しました。「マリアの満足」と仮題を付していますが(校了までに本文も若干手直しされるでしょう)、内容としては本編[161]と[163]の合体版となっています。真にリハビリとするためにも、ここに掲出しておきたいと思います。
 ――[以下、本文]
 二度と戻らない中学生のころ、映画監督になりたかった。ワールドカップ会場にもなった長居スタジアムの近所に住んでいたので、阪和線で天王寺ステーション・シネマ(今もあるのかな?)に足繁く通った。DVDソフトが安くなったので映画は借りるより買うことが多くなった昨今だが、ショップでつい手にとる作品のパッケージに1974年前後の製作年が記されていることが多い。おそらく「原体験」が影を落としている。
 その天王寺の、わがシネマ・パラダイスで最初に観たのかどうかは定かではないが、「サウンド・オブ・ミュージック」のDVDを先日購入し、久びさに観た。そう、前半(途中にIntermissionが入る)は日曜日に家族そろって、後半はひとり深夜に。後半の冒頭、マリア(J・アンドリュース)がトラップ家の家庭教師職を投げ出して修道院に舞い戻ってきたとき、彼女が修道宣言をする(もう俗世に戻らない)と主張しているのに職場へ、彼女が/を愛するトラップ大佐の元へ、つれなく追い返す院長のセリフや歌詞に、単純に元気づけられた。終盤、音楽祭の最後に大佐が歌い、家族が助け、そして会場の聴衆たちが思わず合唱する「エーデルワイス」の調べに、涙がハラハラと流れそうになった。齢のせいかもしれない。家族で観る前にひとり、この後半部を予習(復習?)しておいてよかった。
 ところで前半/後半といえば、私はいちど観た映画の前半はくり返して観るくせに後半の、文章の起承転結でいえば「転」以降はそこで再生をストップすることが、往々にしてある。悲劇的な結末にたいする、私の弱さに起因するといいたいところだが(「アマデウス」なども前半との対比でじつに辛い)、じつはハッピーエンドの場合も大差なく、つまりは映画の面白さは「転」以前に存すると考えているかのようなのだ。否、正確を期せば、「起」=冒頭はどんな題材や演出でも面白くあるほかないとすれば「承」の、比較的ダラダラとした時間が好きだ、といい換えるべきかもしれない。
 そんなわけで、先日その後半を15年ぶりに観た「ベルリン・天使の詩」もまた、ロードショー公開初日にフラフラと入った日比谷シネシャンテでハッピーエンドに安堵してから、テレビや市販ソフトによって前半だけは何度も見ている1本なのだった。否、この映画こそは、B・ガンツ扮する一人の天使が自身の退屈な職能を放棄することを決心するまでの「承」の部分が、まさしく退屈でありながら充実もしていて、それに較べれば、死すべき人間となってサーカス娘と結ばれる、文字どおりの「結」の部分は久びさに観ると、これまでマイ・ベスト3に入っていたこの作品の順位を若干下げるに足るものと思われた。
 というより、やはり鑑賞者の問題なのである。それを自覚しているからけっしてシネ・フィルを名乗らないことにしている(名乗るとすればシ・ネクロフィルだ)。映画という名の修道院にいちど入ろうとしたにもかかわらず院長によってそこから追い出されるマリアのような存在で満足なのである。
モダニスト 2002/11/13水06:54 [169]



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