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    月に吼える    
       
(10)無軌道の彗星

            

 飛来する円盤の表面で福音が瞬いたと感じるなり、ギャガは咄嗟にクロウを突き飛ばしていた。立ち枯れた樹木の根元まで弾かれたクロウは背中から脆い幹に激突し、息を詰まらせその場に座り込む。

 しかし彼女は、呼吸の回復を待つ暇もなく上空から叩き付けて来た激光に炙られ、一拍遅れて到達した衝撃に突き倒されて、跳ね上がった泥を全身に浴びながらその場にぐしゃりと倒れた。

 何があったのか。

 ではない。

 乱れた息が整うのも待たず、ちかちかと眼前で明滅する光を無理矢理振り払って跳ね起きたクロウが見たものは、予想通りの惨状と、予想外の…惨劇だったのか。

 湖畔の泥に穿たれた大穴。深く抉られた地面に流れ込む、濁った水。それは間違いなくギャガの居た場所であり、ギャガは、全身から焦げ付いた白煙を上げて、大穴から数メートル離れた場所に倒れている。

 咄嗟に言葉が出ない。何があったのか、クロウには判っている。

 大穴と倒れたギャガの間には、あの拘束服の残骸とすっかり歪んで形状の変わってしまった銀金具と、それだけ冗談のように艶々したリベットが散乱していた。

「いいいいいいいいいいいいいあああああああああああああああああああうううううううううううううううあああああああああはははっははははっははははははははっ!」

 意味不明の奇声に愕然と目を向けた、クロウ。あの円盤に込められた福音が発動し、下された神の鉄槌。その直撃を受けたギャガの手から「逃れた」「メドーサ」が、手近な場所で震えていたシルリィに取り憑いたのだ。

 苛立たしいほど最悪の展開。

 ぶくっ、ぶくっ。っと自身の太腿よりも太くなって脈動する青年の喉を通って「メドーサ」の「核」が体内へ潜っていくのを見送りながら、クロウはよろよろと立ち上がった。

 天を突くように伸ばされたシルリィの両腕が、何かを掴み取るようにもがく。目尻から流れ落ちる涙と涎を顎から滴らせ、突き出すように胸を逸らした青年のぎょろついた両眼が、ぐりん、と一回転してから、引き寄せた大鎌を構えるクロウを見据えた。

            

 ぎょくんっ。

           

「あ、は、は、は、は、は! うひひひひひひひっ」

 ついに「核」を嚥下したシルリィが、膨れ上がった胸板を握り拳でがつがつ叩きながら愉快そうに笑い出す。叩かれた胸板の膨らみは腹部に下がり、そのうち全身がぐねぐねと蠢き始めた。

「みみみみみみみみろよおおおおおおおおくうううううろおおおおおおおおおおおおおおお。あ、あ、あ、あああああああんなおとこおおおおおおおおおおおおおお、よわちいいいいいいいいいいいいいいじゃあああああああねぇかあああああああああああははははは」

 急激に「メドーサ」が成長している。通常ならば死体に取り憑くはずのものが生きている人間に取り憑いてしまったのだ、最早何が起こるのか、「メドーサ」にも判らないだろう。

「おおおおおおおおおれさまあああああああはああああああああああつよおおおおおおおい。うふふふふふ。つよいいいいいいいいんだあああああああよおおおおおおおお」

「…そうね、シルリィ…。でも、お別れだわ、今度こそ本当に」

「なんでだぁっ!」

 大鎌の首を右手で身体の後に引き、泥に塗れた唇で婉然と微笑んだクロウに、青年…最早「メドーサ」…は眦を吊り上げてにじり寄ろうとした。

「なぜですって? ほら、御覧なさいよ、自分の姿を…」

 笑みの消えないクロウの琥珀が、金色の光を帯びる。

「そんな不恰好なあなたは、好きになれそうもないわ」

 瞬間、シルリィだったものの腹部が爆ぜ割れた。

 吹き出す鮮血と無数の腕、足、舌、…。ねばついた白濁の体液に塗れたそれらが一気に噴出、ぐねぐねと蠢きながら青年の痩せた身体を内側からひっくり返して絡み合い、幾重にも幾重にも巻き付いて、グロテスクな肉球を作り上げようとする。

「ぶぶぶぶかっこおだってぇ? ひでぇええええよおおおおおくううろおおおおおおお。ほおおおらみろおおおおおおお。ううううううううううれしいいいいいいいいだあああああああろおおおおおおおおお? おおおおまえをおおおおおおおおだあああああきいしめるうううううううううでえええええはひゃああああっぽおおおおおおん」

 機嫌よく歌う「メドーサ」の真ん丸い全身から、無数の腕が飛び出す。

「ああああしいいいいいいいもおおおおおおおひゃああああっぽおおおおおおん」

 ぞろりと姿を現した足も、無数。

「そ、そ、そ、それからあああああああ、あはははははあはは」

 それから。

「おおおおおおおおおおまああええええええええええええをおおおおおおおよろこばああああああああせえええええええるううううううううモノもおおおおおおおおおおおおおおはあああああせええええんぼおおおおおおおおおんんんんんっ」

 びゅるっ、とイヤな水音を立てて触手のように伸びた陰茎らしいものを目にして、クロウはさもイヤそうに眉根を寄せた。

「冗談やめてよ。そんなもの貰ったら、壊れちゃうわっ!」

 吐き棄てて咄嗟にその場から飛び離れる、クロウ。数本の足を泥に突き立てて身体を浮かせた「メドーサ」から伸びた腕が彼女を捕えようとするが、跳ねるように、踊るように空中を移動するクロウは、泳ぐその手を大鎌で薙ぎ払って逃げ続けた。

「にいいいいいげえええええるううううなよおおおおおおお」

 何か愉快な遊びでもしているかのような、「メドーサ」の笑いを含んだ声。しかしクロウの方はといえば、その手に捕まれば何をされるのか判ったものではなかったし、白煙を上げて倒れたままのギャガも気に掛かるしで、楽しい気分とは程遠い。

 ギャガは、動かない。当たり前だ。「神の鉄槌」の直撃を受けた魔族は、その場で消滅してもおかしくない。しかもシルリィが手にしていたあの福音を施された円盤…呪文文様…の出所は、どう考えても…。

           

 そう。オレだ。

         

 走るクロウの左右を「メドーサ」の腕が追い抜き、急旋回して彼女の足を停めようと締まる。咄嗟に身を低くしてその捕縛から辛くも滑り抜けたクロウは、立ち上がり様片手で大鎌を振り上げ、空を切った二本の腕を斬り飛ばした。

 鮮血が女神の背中を濡らす。これは生きている人間。しかし、既に魔族になろうとしている。だからこれはヴァルハラに在ってはならないもので、迷ってはいけない。

 振り上げた刃の反動で地面を転がったクロウが、体勢を立て直し再度走り出そうとする。しかし、その一瞬の停滞を見逃さなかった「メドーサ」は、泥に突き立てていた足で地面を蹴り付け、彼女の目前に着地した。

 濁った水と泥が爆裂したかのように跳ね上がり、大地が震える。眼を庇って顔の前に腕を翳したクロウは小さく舌打ちすると、殆ど倒れるようにして無理矢理進行方向を修正し、無数の手足をばたつかせて暴れる「メドーサ」から離れようとした。

「これえええええええなああああああああああああああんだああああああああああああ」

 が、しかし、そのクロウの動きを停めたのは、最早人間の原型を留めない肉球の中央に鎮座した細長い顔の吐き出す不吉な声と、高々持ち上げられた…黒い塊だった。

「……………や…」

 今まさに走り出そうか、という体勢のままその場に踏み止まったクロウが、蒼くなって悲鳴を上げそうになり、気合でそれを押し留める。「メドーサ」を調子付かせてはいけないと思うが、その手に握られた「もの」が振り回されるたびばらばらと落ちる銀色の小粒な光を目にしては、冷静ではいられなかった。

 肉球が、無数の腕で上空に掲げている黒い塊。蒼白になって動きを停めたクロウに見せ付けるよう、「メドーサ」はぴくりとも動かないそれを空中に放り投げ、落ちて来たところを受け止め、また放り投げては狂ったように笑った。

 その度、小さな銀光がパタパタと水面を叩く。辛うじて生き残っていたリベットが黒い塊…ギャガ…の身体から振るい落とされているのだ。

 拘束服は殆ど焼け落ちている。銀金具も溶けて変形し、幾つも残っていない。その上あのリベットが解放されてしまったら……。

 クロウは咄嗟に悲鳴を上げていた。

「やめて!」

「んぽいっ」

 にやぁ、と笑った「メドーサ」が、無造作にギャガを湖面に叩き込んだ。

 放物線を描いて水飛沫を上げ、刹那で消える、黒。立ち上がった水柱と歪な波紋を追いかけて幾つもの小さな環が湖にぽつぽつと浮かび、クロウは咄嗟に地面を蹴って濁った水に飛び込もうとした。

「だああああああああめえええええええええええええええええええ。つっかまっえたあああああああああああああっ」

 捕えられるかもしれないなどという思考さえ働かなかったのか、クロウは泥に着地した「メドーサ」の傍らを走り抜けようとした。しかし「メドーサ」は彼女を見逃さず、無数の腕を伸ばして足首を掴んで掬うなり、逆さまに吊り上げて乱暴に振り回し、最後には水面に叩き付ける。

 衝撃が酸素を肺から押し出し、すぐ引き上げられて、クロウは激しく咳き込んだ。何度か…まるで泥つきの芋か何かを洗うように…濁った水に沈められ、引き上げられ、最後の最後まで握り締めていた大鎌を払い除けられる頃には意識が朦朧としたが、それでも彼女は歯を食いしばって、吹き飛びそうな意識を繋ぎ止めよう必死だった。

 自分の身に何が起ころうとも、………。

「ふんふんふんふんふんふんふんふん」

「メドーサ」が殊更機嫌よく鼻歌を歌いながら、複雑に絡み合った自分の腕を更に複雑に交差させて、クロウの腕を捻り上げる。在らぬ方向に捻じ曲げられた肩と肘がぎしぎし悲鳴を上げ、腕の骨がへし折れそうに撓んだ。

「あああああいいいいいいいいしいいいいいいいいてええええるうううううよおおおおおおおおおおお? はああああにいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」

 うひゃひゃひゃひゃひゃ。

 気に触る哄笑を夜空に放ったシルリィの顔が、ぐるん! と百八十度回転しながら肉に押されてせり出してくる。めきめきと腱を引っ張って皮膚を引っ張って伸びた首には青白い血管が浮き上がっていたが、その内部はまるで無秩序にあちこちで蠢いていた。

 腕が。無数の手が。クロウの全身に絡み付き、撫で回す。髪を梳くもの、頬に触れるもの、エナメルのコートを引き千切り、晒した胸元を這い下りようとするもの。その掌から滲み出す粘ついた体液を全身に塗りつけられるたび表皮がちりちりと燃えるように痛み、彼女は眉を寄せて唇を噛み切ってしまうほど噛んだまま、自由の利かない腕を動かそうともがき、迫るシルリィの顔から顔を背けた。

 暑い。

 痛い。

 苦しい。

 何をしているのか。

 時間がないのに。

「メドーサ」の相手どころではないのに。

 早く…。

「にいいいいげええるうなよおおおおおおお」

 間延びしたようなからかいの声が、不意にくぐもる。どこまで伸びるのか、クロウの頬に息がかかるほど伸びたシルリィの首は更に伸び、三日月型に引き上げられた口からは、紫色に変色した長い舌が…。

 そこで彼女は、はっとした。

 今度こそ本当に耐え切れず、悲鳴を上げそうになる。

「あっいしってるっよっ、はぁにぃっ?」

 崩れた青年の笑顔。ぶつぶつと表面に疣を浮かせてどろついた涎に塗れる、ピンク色の舌。無理な姿勢に固定されて空中に浮かぶ彼女の全身を撫で回し、舐め回すのは、無数の腕と、身体を構成する長い舌。

 長い舌。ピンク色の。薄気味悪く嫌悪感を掻き立てる、生き物のような舌。

 しかし、なぜか彼女の唇に迫ろうとする、ひび割れのような口から生えた「もうひとつ」の舌は、毒々しい紫色をしていた。

「メドーサ」が分裂しようとしているのか。それとも、シルリィを棄ててクロウに乗り換えようとしているのか。どちらにしても、「メドーサ」の「核」は間違いなくクロウの体内に入り込もうとしている。

 それだけは、いや。それはだめ。俄かに掻き立てられた嫌悪感と恐怖で滅茶苦茶に乱れた思考に突き動かされて、クロウは肩の骨が外れるほど暴れた。

 そんな、こんなものに「堕とされる」なら、死んだほうがマシ。しかし、手足を拘束され中空に持ち上げられた状態では、いくらもがいても暴れても、ここから逃げ出す事は出来ない。

「ちゅう☆」

 激しく首を横に振るクロウの唇を、紫色の舌が、舐めた。

          

 急に全ての感覚が消失する。何も無い、上も下もない暗黒にぽつりと放り出され、不安定に漂う。

 時間をやるから後悔しろとでもいうのかしら? とクロウは、目前の暗黒をぼんやりと見つめて失笑した。

 ああ、そうか。と思う。

 どうせなら「メドーサ」でも受け入れて、何もなかった事にして、時置かず目覚めるだろうあの「魔物」に食われてしまえばいいのかしら。と。

 その方が、今よりずっと幸せのように思えた。

 そうすれば、「女神」である必要も無く、御方をこれ以上憎む事もなく、あの夜…不死者の王…を求める自分を無視しなくてもいいのだから。

 楽になれるだろうな。とクロウは儚く微笑んで、溜め息を吐いた。

 見つめる暗闇に一条の紅色を目にするまでは、本当に、そう思った。

       

 絶望的な暗闇の淵に沈みそうな意識が急激に覚醒したのは、固く結んだ唇に擦り付けられた唾液が顎を伝って喉元を舐めた冷たさと、胡乱な視野の端に微か紅色の光が見えたからだった。

 相変わらずいやらしく蠢く紫色の舌はしつこくクロウの唇を割ろうと這い回っていたし、興奮したように奇声を発する「メドーサ」の無数の手は彼女の腕をぎりぎりと締め上げ、無理矢理足を開かせ、エナメルのコートをわざと大きな音を立てて引き裂き、剥ぎ取り、べたべたの手でくまなくあちこちを撫で回している。

 訳が判らないままならまだよかったが、全身を這う不快な指の動きを意識してしまうと、すぐに気が狂いそうになる。それでもクロウは爪の先ほどの勝機があるのならば見逃すまいと虚空を見据え、高笑いする「メドーサ」の背後で静かに泡立ち始めた湖面を窺った。

「いひ」

 つるりっ、と太腿の内側を撫でた指先。傾げるように捻ったシルリィの顔がだらしなく緩み、のたうつ二枚の舌がふるふると震える。

「むっきむっきむきむきいいいいいいいいいいい」

 この上なく楽しそうに調子っぱずれな歌を口ずさみながら、「メドーサ」がクロウのビスチェに指先をかけた。さすがにそれを剥ぎ取られたらと思うと背筋がぞっとするが、クロウは…。

 そこまで我慢できると思わない。ときっぱり断言した。

 誰が? 何が? 何を? どう?

 貞操の危機に晒されているというのになんだが、そこで彼女は思わず吹き出しそうになってしまった。仕掛けておいて最後の最後まで静観出来ないだろう堪え性のなさをアテにしている自分が、妙に可笑しい。

 暗闇に、紅色。

 泡立つ湖面にも、紅色。

 自惚れてもいいのなら。とクロウは、夜空から舞い降りようとする淡い紅色を見つめ、そこだけゆっくりと静かに、短い溜め息を吐いた。

           

 刹那早く、あの夜が我が元へましますように。

          

「きいいいいいいいみいいいいいいはあああああああきれいいいいいいいいいだああああ!」

クロウのふくよかな双丘を鷲掴みにした「メドーサ」が狂ったように哄笑し、その白い肌を隠す真紅のビスチェを引き裂こうとした刹那、天と地から同時に何かが現れ、白と黒と紅色が、中空に捕えられた「女神」と「女神」を捕えた肉球の周囲で暴風のように荒れ狂った。

                

   
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