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落花の壺 | |||
其の二 其の者有りて、何者を乞う(1) | |||
日中の強い陽射しを遮るように下げられた簾の奥、風通しの良い座敷に座り膝に猫を抱いたその人は、柔らかな薄茶の長い髪をさらさらと微かに揺らめかせながら、静かな昼下がり、古ぼけた一冊の書を片手に騒ぐ葉音を遠く耳にし行く刻を過ごしていた。 辻占売り、蜥蜴野散歩道。その、男とも女ともつかない冴えた面には、色の薄い、優しげであり時に冷たくもある切れ長の双眸、長い睫。ほんのりと色づいた唇、夏を過ぎて初秋に差し掛かった今も尚、驚くような白い肌。やや広い聡明そうな額に流れた髪も薄鼠色の紗の着物も、それを纏った全身さえも儚げで朧げな、希薄な姿。 二十歳をとうに過ぎ、三十路に手が届こうかという歳の頃なのだろうが、浮世離れした雰囲気とうっすら揺れる瞳の奥からは、それを窺い知る由もない。 足袋を履かずに崩した爪先を不意に、温度の低い一陣の風が撫で過ぎる。 散歩は、ゆったりした仕草で顔を上げ、簾の向こうに視線を向けた。 その膝元でまどろんでいた日本猫が、散歩の動きに合わせて大きく伸びをし、ふにゃぁと気の抜けた欠伸をひとつ。 『なんだ、暫く見ないと思ったら、こんな昼間に珍しい』 手足を投げ出して散歩の膝に頭を乗せていた、少々大きめで全体に明るい紅茶色の印象を持つ猫、こたろが、うざったそうに吐き捨てる。身丈ほどある長い尾で青畳を数回叩き、ふと、牙の覗く口元に意地悪な、笑み。 面妖な、笑う猫。 「最近お忙しそうで何よりとは思っていましたが、こんな時間に訪れるとは、何か火急の用でも…」 ついと微笑んだ散歩が言い終えるより先に、ざらりと簾を揺らして踏み込んできた黒い影。言わずと知れた、鷹司半兵衛その人である。 「いらっしゃいませ」 笑む散歩をサングラスの下からじっと見つめ、半兵衛は無言で……いきなりこたろの首根っこを引っ掴んでひょいっと持ち上げた。 「にゃぁぁぁ!!! にゃーにゃーにゃーっ!!!」 『離せぇ! エロ半兵衛―! 暴力はんたぁいっ!』 顔の高さまで差し上げられたこたろは絶叫しながら闇雲に四肢をばたつかせ、必死になってその手から逃れようとする。がしかし、いかんせん体格の(というより、基本的な種族の、というべきか?)違いから、半兵衛が怯む様子は全くない。 思わずきょとんとその半兵衛を見上げていた散歩が、あのー、と間のぬけた声を出す。 「こたろは別に…」 「邪魔だ、猫。俺は散歩に大事な用があって来たんだ、おまえちょっとあっちいってろ」 『うるせー! もうちょっとおいらを可愛がったりしようとか思わないのかぁ! 動物虐待もはんたぁい!』 「喚くな、化け猫!」 「半兵衛」 完全に噛み合わない会話を繰り広げつつ、半兵衛は暴れるこたろをぶら下げたまま簾を上げて縁側に引き返し、またもいきなり、その大猫を振りかぶった。 「にゃぁーーーーーーっ!」 「二時間帰ってくんな」 半泣きで頭を抱えたこたろを、力任せに真正面の竹薮目掛けて放り投げ、着地も確認せずに簾を下ろして室内に引き返す。 呆然と半兵衛の凶行を見届けてしまった散歩が、急にきゅっと形いい眉を寄せた。 サングラスの向こうを、咎めるように睨み付ける。 「やり過ぎですよ、半兵衛」 「…後で美味いモンでもたらふく食わせてやるよ。悪いが今は、余計なことをしてる余裕がない」 その疲れた呟きに、散歩が別の意味でまた眉を寄せた。 「…………ひときり?」 問い掛けに、サングラスを外しながら半兵衛が応える。 「いや、まだ俺だ」 固い笑みを口元にだけ載せたその瞳の中で、あの真紅の光が明滅するように回る。深淵の黒と、真紅と……すべてを熔かす、紅蓮の緋色。 煉獄の飢餓。 半兵衛は一度肩で大きく嘆息すると、崩れ落ちるようにその場に膝を付き、両腕を広げて散歩に抱き着いた。 「わっ!」 急の事にそのまま畳に押し倒された散歩が、額に手を当て呆れたように息を吐く。 「脅かさないでください」 「悪い。俺も驚いた」 首筋に押し付けられた額に冷や汗が浮んでいる。半兵衛自身は相当参っているのに気付いていなかったらしいが、合わせた身体から伝わってくる鼓動が目茶苦茶に乱れている。 「立ってるのも辛い」 だからって、と抗議しかけた散歩が、口をつぐむ。 足りない自分。暴走しようとする凶悪な本性を、なんの取り柄もない弱い表層で押えようと必死。優勢に立つ為に必要な「理性」は、どこかに置き去られたまま。 散歩はゆっくりと額から手を外し、それを半兵衛の背中に置いた。 訊ねたいことは幾つもあった。しかし、少しの間このまましておこうと質問を諦める。見上げた天井の格子と、胸元で繰り返される溜め息を数えて、あやすように背中を叩く。 喧騒の静寂。 半兵衛の乱れた鼓動が、この部屋を外界から切り離す。 「……おまえの狐に、使いを頼みに来た」 性急に問うつもりなどない散歩に、半兵衛が独り言のような口調で言う。 「山手の屋敷に運び込まれた、「落花の壷」という名の「有り物」。その出自を知りたい」 幾分落着いて来たのか、相変わらず顔を上げる事はしなかったが、半兵衛は、伸ばした手で背中に回された散歩の腕を掴み、そっと青畳に押し付けた。 「逃がしたんですか?」 「居座られたんだ。……絶対に叩き出して、喰ってやる」 忌々しげに言い放ち、そこでようやく半兵衛は顔を上げた。 「と、俺が言ってる」 影を潜めつつある紅蓮にほっと安堵の息を吐き、からかうような半兵衛の視線を躱しながら、散歩がわざとのように肩を竦める。 「……ハラ減ったな」 困った微笑みに一瞬気を取られていた半兵衛が、不意にぽつりと呟いた。押えていなければ消えてしまいそうなその人を、どうすれば失くさずに済むのか計り兼ねた呟き。 喰ってしまいたいのは、誰? 残った散歩の片手を畳に貼り付けた半兵衛が、視線を逸らさずに上体を軽く起こして、やんわりと両手首に体重を載せる。それに何を感じたのか散歩は、微笑むのをやめ底のない漆黒の瞳で彼を見据えた。 深すぎる黒。それは、見通せない永劫に向けられた、限りなく澄んだ透明。 交わすはずの言葉を放棄。何も伝えないまま、何も問わないまま、何も応えないまま、それを紡ぐべき役目を取り上げられた唇に……。 あと数センチ。半兵衛は、触れるのを躊躇った。 見上げる瞳に弱い真紅の光しか残っていないのを認め、散歩は静かに瞼を閉じた。 「やめた」 散歩を放り出すように身を引いた半兵衛が、ふて腐れて吐き捨てる。 「そういうどうでもいい顔されたんじゃ、俺のプライドが傷付く」 身を引いたものの開放するつもりはないのか、捉えた手首を放す事はぜずに、ふん、とそっぽを向く。その子供っぽい横顔を小さく笑った散歩が、いつものようなやわらかい口調で彼をなだめた。というよりも? 「随分と安いプライドもあったものですね。わたしの他に片手で余るほど女も男もいるくせに、どんな顔をしろというんですか?」 責めているのだろうか。 「それは何か? 基本的に俺の行いが悪いと言いたいのか?」 さぁ、どうでしょうか? と微笑む散歩を睨んだ半兵衛が、言いかけた言葉を無理矢理飲み下す。 散歩の言い分はある意味間違っておらず、ある意味まったく的外れだった。 確かに、半兵衛には掃いて捨てるほど男も女もいたし、武義に言われた通り、バーで誰かを口説いてベッドに引きずり込むのにものの一分かからないかもしれない。ただ、なぜ彼がそんな「どうでもいい」行為を機械的に繰り返すのかと問われたら、そこには、今目の前でひねた応えを叩き付けてくる散歩がいるのだ。 唇が触れて、それで済む子供ならいい。しかし、そんなお幸せな時代はとっくに終わった。欲求は、牙を突き刺して貪り、骨を噛み砕き、甘く切ない血を啜り、全てを咀嚼し尽くし腹に収めること。 望むを恐怖する暗く翳った感情。たった一人を求められない苛立ちに、人身御供を千人支度しそれでも満たずにまた苛立つ半兵衛が、俺のどこが悪いと開き直って当然だ、と思って、誰にそれを咎められよう。 何もかも、判っていながら無防備すぎる、散歩が悪い。 覆い被さる半兵衛を見つめていた散歩が、続かない言葉を待つのに終止符を打つ、小さな溜め息。降りる沈黙の意味を知りつつ、淡い色彩の唇が感情なく告げる。 「半兵衛は、卑怯だ」 自嘲の笑みを浮べた半兵衛が、散歩の頬に軽くくちづけを見舞う。 「卑怯か。その分類が気に入ってる」 それだけで今度こそ本当に身を引き剥がし、彼は畳の上にごろりと転がった。 「猫が戻って来る前に、狐を呼んでくれないか。いくら俺でも、疲れた気分であの二匹と渡り合う自信はない」 半身を起こし、向けられた背中に視線を据えた散歩が、小さく、微かに震える声で何かを囁く。彼に対してひどい事を言ったと思いはするが、詫びる言葉は出ない。だから望む通り、散歩は「狐」に呼びかけた。 「我に従うもの、来よ「九の狐」。・・・・・・白」
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