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番外編-9- ゴースト |
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ひりひりと痛むこめかみの辺りを、まるで使えとでも言うように放置されていたアイスパックで冷やしながら、ベッドに浅く腰を降ろしていたヒューが室内をぐるりと一度だけ見渡す。デスクに備え付けのスタンドが一つだけ灯っているのが、背の高い布製の衝立越しに感じられるここは、旧知の女医、ステラ・ノーキアスのプライベートオフィスだった。 少年を庇う形で側頭部に貰ったクラバインの一撃は、見た目派手だっただろうが大したダメージをヒューに与えていない。しかし、インパクトの瞬間頭を振って衝撃を逃がすには逃がしたものの、さすがは元スレイサー道場の師範代か、直撃を避けたのに一瞬ではあるが完全に意識が飛び、気が付いたのは、傍に居たステラに名前を呼ばれてからだった。 ただでさえ薄暗い室内。更には光を遮る衝立の奥に置かれた簡易ベッドに座ったまま、ヒューがうんざりと溜め息を漏らす。今頃になって身体のあちこちがぎしぎしと痛み出したのに、否応ない事実を突き付けられた気分だ。 もう何年もまともな訓練など行っていないはずのクラバインは、それでも、誰より強いとヒューは思う。彼は昔からそうだった。地味な外見で相手を油断させておきながら、その実、人より多い練習量に裏打ちされた正確な打撃を確実に急所に入れてくるのが得意な男だ。 ぼんやりと虚空を見つめるヒューのサファイヤが、ゆっくりと細められる。笑みというほど明らかではないがそれは、なんだか可笑しげな表情に見えた。 反省と言い訳はないが、考えるべき事は多い。しかしヒューはそれらを考えても、口に上らせる機会を探ったりしないだろう。 言えないのではなく、言わないのだ。言いたくない、か。と回転数の遅くなった頭で胡乱に考え、また一つ溜め息を零す。酷く疲れているのは、気のせいではない。 ヒューはふと、以前電脳班の執務室でだったか、デリラとしたどうでもいい会話を思い出した。とはいえ、完璧完全、ある意味不自由な程に鮮明なミナミの記憶ではないから、多少都合よく脚色されているかもしれないが。 そう、確かあの時ヒューとデリラがしたのは、普通は自分を勘違いされたくないから言語を尽くして世間に接しているのだというような話だった。その時の流れから行くと今の自分は相当ハルヴァイト寄りだなと内心で呟き、つい、呆れた失笑を漏らしてしまう。 まさか自分をハルヴァイトと同じ思考回路の持ち主だとは思わないが、今の心境で言えば極めて近い場所にくらいはいるとヒューは思う。誤解や勝手なイメージなど、どうでもいい。 身じろぎ一つせずベッドに座り込んだまま、ヒューは耳の上に当てたアイスパックの冷たさに眉根を寄せた。こめかみの付近とパックを支えた指先の感覚が、麻痺している。 静か過ぎる部屋に隔離された状態のヒューは、この後自分に下されるだろう処分については何も心配していなかった。というよりも、何が来ても驚かないし、拒否するつもりもないのか。 多分。 それだけの事はやったと思う。いつかと同じに。 しかも。 なぜそういった行動に出たのか、理由は言いたくない。いつかと、同じに。 さすがにこれでは、最悪馘首(クビ)だなと…。 ヒューが自分の馬鹿さ加減に思わず失笑を漏らした刹那、白い衝立の向こうで微か、ドアの開く音がした。 小さくて軽い足音が、戸惑うようにゆっくりと部屋の奥へ進んで来る。それに合わせて、白い布製の衝立に華奢な影が滲んだ。 ヒューは、その朧な影を目で追った。迷いなのか恐れなのか。そういった内情の見え隠れする重たい足取りで一歩一歩進んだ影がついにデスクのある診療スペースとベッドを区切る白い仕切りの端で停まり、一呼吸、逸れないサファイヤに白っぽい人影がちらりと映った。 背負ったスタンドの灯りが、色の薄い金髪を縁取っている。 「……気は済んだか」 こめかみ辺りに添えていた手を下ろしながらヒューが問うと、少年は無言で小さく頷きながら衝立を回り込んで姿を見せた。透明に澄んだ水色はやや斜め下に向けられていて、少年の望んだ通りカタがついたのか、銀色には判らなかったが。 少年は、衝立を撫でるようにしてベッド側へ身体を滑り込ませると、そのまま俯いて立ち止まった。 「全部、話した」 ヒューの膝先、一メートルもない場所で立ち尽くす、少年。衝立に邪魔されたスタンドの光は、ベッドに座る銀色にも少年にも届いていない。 小さな、空間。 「ロミーに、さよなら、出来なかった」 その小さな呟きにヒューは、始めて少年の中にある悲しみのようなものを見た気がした。果たして、人でない「何か」である少年にそんな感情があるのかどうか判らないが、短い言葉に含まれたのは間違いなく寂寥だと銀色は思う。 ヒューの沈黙をどう受け取ったのか、短い時間だけこちらも黙り込んだ少年は、それから、小さく息を吸い込んで顔を上げた。薄暗い視界の中、いやに清廉な水色だけがくっきりと浮き上がって見える。 「アンディは、ぼくを、待っててくれなかった」 目を逸らさずに小さな顔を見つめたままヒューは、もしかして少年が泣き出すのではないかとぼんやり思った。凍りついたような無表情でありながら見開いた双眸には複雑な感情が見え隠れし、だから、戸惑う。 その悲しみは。 その寂寥は。 再会する事のなかった人への思慕と。 合間見える事なかった人への悔恨は。
誰のもの。
「でも」 ゆっくりと、極自然に視線を下げ顔を伏せた少年の長い睫が、蒼白い頬に薄い影を刷く。 「何も、知らないまま、ずっと待つだけじゃなくて。ぼくは、ぼくの時間を進めてくれた、あなたと…」 小さな声で途切れ途切れに言いながら、少年は緩く握り締めた華奢な拳を一つ胸に当て、空いた手をその上にそっと重ねる。 続かない言葉を辛抱強く待つヒューの視線の先で、完全に項垂れた少年の色の薄い金髪がさらさらと流れた。弱々しい光に輪郭だけを浮かび上がらせた頼りない姿は、始めて目にしたファイランという街と流れる人々を不安げに見つめていた「少年」のようであり、いつか見た…目の前に雄々しく立つあの悪魔を見失って、同時に「自分」を見失った「アン」のようにも見える。 「…ぼく、に」 少年は、アンに。 「ありがとう、と、 ごめんなさい、と」 ああ、これは別れの言葉なのだとヒューは感じた。 「約束、していい?」 薄明かりだけがほんのりと差し込む小さな空間で、少年は今にも闇に紛れてしまいそうな声で小さく言いながら顔を上げ、ベッドに座ったまま身じろぎしないヒューを見つめた。 厳冬の晴天に澄んだ被膜。 「今度は、ちゃんと会いに来ていい? あなたと、「ぼく」に。今度こそ、ちゃんと、間に合うから、来てもいい?」 胸に抱いた白い手が小さく震えているのを目端に捉えたまま、ヒューは薄く笑って頷いて見せた。 その約束に問いはない。 少年は、きっと遣って来るだろう。 どんな姿でかは判らないが、きっと、ヒューとアンの前に現れるだろう。 「いつでもどうぞ」 自分でも気恥ずかしくなるほど柔らかな声で答えてしまって、ヒューは決まり悪げに眉をひそめて困った顔を作った。これで衝立の後ろにミナミかステラでも居ようものなら、十日は登城拒否したくなるような―――失態だ。 薄闇の中、ヒューの面に浮かんだ複雑な表情を見る事はなかったのか、少年はほっと肩の力を抜いて安堵の吐息を漏らした。 「必ず、来るから」 呟いた少年が胸に抱き締めていた腕をゆっくりと解き、身体の両脇に垂らす。 「約束はね?」 小首を傾げるようにして言葉を続けた少年の眼前、ヒューとの間に、薄い光の帯が現れる。 「守られてこそ意味があるんだって、ロミーが言ってた」 白い帯は徐々に光度を増しながら捻れ、途切れ、記号のような…もしかしたら文字のような模様を何もない空間に描いた。 水色の瞳に。銀の燐光を纏うサファイヤの瞳に。白い、文字列が映り込む。
「ありがとう。ごめんなさい。 少しの間、さよなら。 ぼくはロミーとアンディには間に合わなかったけど。 あなたと、 彼が、 離れ離れにならないように。 ちゃんと。 間に合ったよね?」
大きな水色を眇めて晴れやかに微笑んだ少年は、中空に留まる文字列を突き破って一歩進むと、先から微動だにせずただベッドに腰を下ろしたままで少年を見上げているヒューの肩に手を置き、身を屈めた。 瞬きしないサファイヤを掠める色の薄い金髪。柔らかですべらかな感触が頬に触れてから、肩に置かれていた細い腕がするりと伸びて、ヒューの首に巻きつく。 「彼が来てくれてよかった。あなたが一緒でよかった。 ぼくは、今、人間じゃないけど…」 密着していた身体を少しだけ離し、少年は小さな声をヒューの耳に吹き込んだ。
ヒト、だったコロのコト、を。少しダケ、思い出せた。
唐突な告白に一瞬目を瞠ったヒューの目尻に柔らかく微笑んだ桜色の唇が触れて、すぐ、絡んだ腕に微か重みが掛かって、銀色は咄嗟に少年の薄い身体を抱き留めた。 混乱しなかったといえば嘘になるだろうが、頭のどこかで膨らんでいた疑問がぱちりと音を立てて弾け、目が覚めたような感覚に、ヒューは少年…アンの華奢な胴体に腕を回したまま、二度瞬きする。
その悲しみは。 その寂寥は。 再会する事のなかった人への思慕と。 合間見える事なかった人への悔恨は。
全て、「彼」のもの。
どうしてか。なぜなのか。それは遥か遠い過去なのか数分前であったのか。アンの中に在った「少年」はいつか「人間」であり、時の停滞した世界に取り残されて一秒か一千億秒かを経てロミー・バルボアと出会い、こうしてこの世に顕現し得た。 僥倖か。運命か。イレギュラーだったのか。最早解明されない発端の末路に「少年」はその内から失われた感情を稀薄ながら取り戻し、もう一度「この世」をやり直そうとしている。 そんなバカなと鼻で笑って否定する事も出来ただろう少年の告白に、しかし、ヒューには残念ながら肯定する要素がある。もしも、だ。 もしも、「あの時」、ハルヴァイトが臨界から現実面へ戻れなかったとして、その意識だけがあの閉じた世界で存在し続けていたとしたら。偶然に偶然が重なり、その意識の先端がもう一度「この世」と繋がってしまったとしたら。 そんな夢物語のような事象が起こらないという証明は、誰にも出来ないのだ。 カミサマは居るのか、居ないのか。居るといえば居る。居ないといえば居ない。居る、と証明されてはいないが、居ないとも証明されていない。 だから、「判らない」。 だから。 少年が人間であったと証明も出来ないが、人間でなかったとも、言えない。 ややこしいな、勘弁してくれ。とうんざり天井を仰いだヒューはそれから、胸元に凭れているアンの頭に視線だけを落とし、ふと、唇の端を歪めた。 「―――次は許さないなんてかっこいい事を言っておきながら、二度目だな――」 何の話なのか、さらりと流れ落ちた金髪から覗く皮膚の薄そうな耳元に唇を寄せて吐息のように呟いたヒューが、腕の中で小さくなっているアンの襟足に掛かる毛先を指で静かに払う。 薄い闇色に閉ざされた狭いスペースに、押し殺し損ねた弱々しい嗚咽が零れた。
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