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番外編-8- 平和的同時多発恋愛事件

   
         
(10)ハチヤ・オウレッシブ

     

「呼び出しおいて済まないんだが、急患ですぐに診療室に行かなくちゃならない。悪いがアンくん、明日の十九時頃にもう一度来て貰えるか?」

 鮮やかなオレンジ色の短髪が振り返りもせず早口で言い放ったのに、たった今ドアを開けたばかりのアン少年は慌てて「構いませんよ」と答えた。

「本当に、済まないな」

 相変わらず少年に背を向けたままステラは、散らかったデスクの上から幾つかのファイルを発掘し、仕切りらしいカーテンの向こうで待機している看護師の腕に突っ込んだ。空いている手術室にどうとか、両親に連絡をとか、まるでそこに無関係なアンなど居ないもののように素早く指示を出しつつデスクを離れて、壁のフックに預けていた白衣を取り上げ袖を通す。

「それとな、セリ、薬剤師をカウンターに待機させておけ。ただし、両親が精神安定剤を要求しても絶対渡すなよ。何かそれで文句を言ってきたら、構わない、すぐわたしに連絡を入れろ。あのお嬢さんのヒステリーとノイローゼの原因は、自尊心ばかり高い両親そのものだ」

 険しい表情で素早く呟いたステラに頷いた看護師が清潔そうな紗幕を揺らして姿を現すと、アン少年はドアの横に退けつつ軽く頭を下げた。

 無言ながら笑顔で会釈した看護師が足早にドクター・ルームを出て行く。その後ろ姿を背中で見送りつつ、アンは内心首を傾げた。

 どこかで見た覚えのある、背の高い青年。

「まったく、患者が女性だというだけで、専門外のカウンセリングもしなくちゃならんとはな。この際だから、外科医の看板を総合医療に取り替えた方がいいんだろうか?」

 ぶつくさと吐き棄てるステラに視線を据えたアンは、返答に困って苦笑を漏らした。

 白衣の襟元を正して乱れた前髪を手櫛で整えたステラの翡翠が、当惑する少年を捉えて笑みを浮かべる。清潔なカーテン越し、穏やかサンドベージュの壁に焼き付いた漆黒の陰影はしかし、その白い小さな顔、色の薄い金髪、真冬の晴天に似た蒼い目を得て、作り物の清潔感で埋め尽くされたこの場所の薄暗さを抉り出す。

 アン・ルー・ダイという健やかで清らかな人の前では、医療院などただ消毒臭いだけの四角い建物だ。内心嘆息しながらステラは、デスクの中央に鎮座し、何か…メールのようなものがひとつだけ表示されていた端末の電源を、無造作に落とした。

「じゃぁ、明日の十九時頃にまた来ますね、ドクター・ノーキアス」

 それでステラが急いで退室して行くのだと思ったアンが、桜色の唇に笑みを載せ直して小首を傾げる。

「……ああ、何度も悪いな、アンくん」

「いいえ。お仕事がんばってください、ドクター」

 ぺこり、と丁寧にお辞儀して踵を返した少年が、ドアノブに手を置く。

「一人でなくてもいいぞ。ただし、アイリー次長と電脳班の連中の同行は許可出来ないがな」

 思い出したように付け足されたステラの台詞に、アンは、きょとんと蒼い目を瞠って振り返った。

「はい、判りました。…でも、なんでミナミさんたちはダメなんですか?」

 別に誰かと来るつもりはなかったが、酷く限定的な物言いを訝しんだ少年が問うと、なぜかステラはオレンジ色の唇を微かに吊り上げ、弱ったように眉を寄せて首を傾げた。

「君くらいの位置関係が丁度いいんだ。電脳班の連中やアイリー次長では、ちょっと…近過ぎる」

「? はぁ…」

 果たしてなんの話しなのか、ステラはそれ以上何を言うでもなく、一方的に手を振ってじゃぁまたなと少年を追い払った。

 何か釈然としないながらも、明日また尋ねれば判るだろうとアン少年は、ぱたりとドアを閉ざしてステラのオフィスを後にした。ここは関係者以外立ち入りを禁止されている区画だったから周囲に人影もなく、居心地悪いほど静かな白い廊下にアン一人の靴音だけが響く。

 それで、なんとなく思い出す。

 この前医療院に来たのは、確か、ヒューが入院してすぐだったなと。

 隔絶された白い部屋。

 そこから喧騒と騒動の只中に戻るまでの間、あの銀色は、この静寂の中で何を…考えていたのか。

 その前も。

 その後も。

 今も。

 変わっていないようにして、何かが…。

 意味もなくふっと息を吐いたアンが蛍光灯のちらつく天井に視線を向けて、刹那、十字に交差した廊下の左側から、白衣の小柄な人影が駆け込んで来た。

「あ、すみません」

 ぶつかりそうになって、慌てて足を止めたアンは言いながら廊下の片隅に退けようとした。しかしその人影が急に伸ばした手で少年の腕を取ったものだから、結局、ぎょっとその場に硬直してしまう。

「衛視の方ですよね!」

 詰め寄るようにして言われ、アンは目を瞬いた。

 艶のある栗色の髪を肩まで伸ばした、緑色の目の、若い…看護師。

「近衛兵ではないですよね!?」

 緊張に震える声で、必死の形相で問いかけられて、アンはこくこくと頷いた。

「えと…、はい、衛視の方です…けど?」

 指先が食い込むほど握り締められている左腕をぎくしゃくと動かし上腕に掲げた腕章を見せると、その青年看護師が急に、安堵したような顔で肩を落とす。

「よかった…。それで、あの、不躾とは思いますが…」

 そこでようやく開放された左腕を身体に引き寄せ、アンは内心苦笑した。どんな力で握り締められていたものか、鈍痛がすぐに消えない。

 しかし、そんな素振りなど見せずに「なんですか?」と微笑んだ少年に改めて向き直った青年看護師の、俯き加減の顔を見て、アンは再度目を瞠った。

 どこかで見た覚えのある青年。

 入院していたヒュー・スレイサーを尋ねて医療院を訪れ、ステラ・ノーキアスと知り合った日。

 途中の廊下で言い争っていた看護師のカップル!

 先にステラのオフィスで会ったセリという看護師と、今目の前に居る青年看護師…ウィニー・メイスンという名だっただろうか…があのカップル(?)だと思い出したが、アンはやっぱりそんな素振りは見せなかった。

 ただ、少し、何か、嫌な予感を抱く。

 医療院の看護師、と、言えば…。

「これを、特務室のヒュー・スレイサーさんに…渡していただけませんか!」

(…出た)

 デジタルペーパーではなく、どうやら本物の「手紙」らしい、清しい香りを微かに振り撒く書簡を胸に押し付けられて、アン少年は頬を引き攣らせた。その頼みを断わる断わらないよりも先に、「この人か!」と思う。

 華奢で頼りなさそうで。

 正直…。

 かわいい人。だと思う。

 見た目もそうだが、雰囲気が、と言うべきか。彼がちょっと困っていたりしたら迷わず手を差し伸べてあげたくなるというか…。そういう、何か放っておけないような空気を纏った、可愛い感じの人だった。

 長い睫に煙る碧の瞳が、何かを訴えるように、縋るように見つめて来るのを半ば呆然と見返すアンの複雑な心境など知る由もなく、すぐには断わられなかったからなのか、ウィニー看護師はくしゃりと破顔するなり、一歩少年から離れて深々と頭を下げた。

「すみません、お願いします。勝手に押し付けられたって言ってくれていいですから、彼に」

 彼に。

「渡してくださるだけで結構です。お願いします」

 顔を上げるのと同時に踵を返し、声を掛ける間もなく逃げるように走り去って行ったウィニーの背中を見送って、アン少年は暫し呆然とその場に立ち尽くしていた。

 その必死さが、胸に迫る。

 少ししてアンは、指先に触れた紙片の感触をぼんやりと感じながら、ようやく歩き出した。

           

         

 果たしてこの中に綴られているのは許しを乞う言葉なのか。

 それとも、消えない愛を訴えるものか。

 どちらにせよ恨み言ではないだろうなと、漠然と思う。

 ポケットに入れて皺になるのを嫌ったのか、違うのか、アンはウィニーに渡された手紙を持ったまま医療院を出て一般居住区へ繋がるエレベータに乗り込んだ。

 四角い小さな箱の中、素知らぬふりで天井を見上げていた色の薄い瞳がすうと急落し、垂れた手の先で頼りなく揺らめいている白い封筒に移る。淡い紫で花のシルエットが描かれたそれはなぜか、少年を酷く落ち着かない気分にさせた。

 恋文。

 それを綴った彼の心情を思えば、受け取るべき人に渡すのが当然だろう。

「でも…なぁ」

 まず、あの銀色の機嫌が傾くのは目に見えている。なんでこんなものを迂闊に受け取ったのかとかなんとか、理不尽にも叱られるに違いない。だからといって、断わる暇などなかったと言い返すのも癪に障る。

「まさか、問答無用で破り棄てたりはしないだろうけど…」

 手元に落としていた視線を水平に戻して、アンは嘆息した。

 それと同時にベルが鳴り、エレベータが停まる。小さく振動した小部屋が外界と繋がって、鉄製のドアがするすると左右に開いた。

 俯いてボックスから出たアンは、通りを流しているキャブを拾って王城までと告げた。王城エリアとほぼ同じ広さの上級居住区、その外れに位置する医療院から直接一般居住区に出てしまうと、城は意外にも遠い。本来なら上級居住区で待機している移動用のフローターを呼んで中央付近まで移動し、そこからエレベータを使えばすぐに城に戻れるのだが、ルー・ダイ家と絶縁し上級居住区には職務以外で足を運んではならないという制約のあるアンは、律儀にも一般居住区まで戻ってから城へ戻るルートを選んでいた。

 暫し無言で、流れる町並みを見つめる。もう夕暮れに近い時間、忙しそうな人々は家路を急いでいるのだろうか。

 なんだか今日は色々と厄介な事が重なったなと内心溜め息を吐いた頃、キャブは一号大路へ出て王城正面通用口の前へと滑り込んだ。

 カードを取り出して支払を済ませ、笑顔でお礼を述べてキャブを降りた少年は、通用口の小窓を軽くノックして開門を促した。運よく外出時と同じ兵士が駐在していたらしく、面倒な入場手続きは必要ない。

「おかえりなさい」

 出迎えの兵士の前を、お仕事ご苦労様ですと微笑んで通過。何かある毎にこれでは面倒なので、思い切ってフローターの免許でも取ろうかなどと考えつつ内門を抜けた、途端。

「あ! お帰りなさい、アンさん!」

 私服のハチヤが、待機室から転がり出て来た。

「? ハチくん、今帰り?」

 ひょろひょろと背の高いシルエットが不安定に左右に揺れながら駆け寄って来たのに驚いた顔を向けたアンは、足を停めて青年を見上げた。相変わらず寝癖みたいなぼさぼさの髪と眠たげな目の青年が、満面の笑みのまま首を左右に振る。

「もっと前に下城許可は下りてたんですけど、訊いたら、アンさん外出中だって言うんで、戻るの待ってたんですよ」

 ハチヤは言いつつ、きょとんと目を瞠っているアンの背に手を添えて、待機所のベンチを勧めた。その様子では、ハチヤが、私用で出かけていたアンの拘束時間がとうに終わっていると知っているのだろうと思った少年は、勧められるまま硬い椅子に腰を下ろす。

「それで、ですね」

「はい?」

 小首を傾げたアンの傍らに腰を落ち着けたハチヤが心持ち緊張した声で言う。

「流星、見に行きませんか?」

 狭い待機所。肩先が触れ合いそうな位置にありながら、ハチヤはアンの顔も見ず、正面を睨んでいた。

「流星? って…プラネタリウム?」

「いや…、そうじゃなく。ほら、一週間くらい前からしきりにニュースでやってたじゃないですか、四十年ぶりの天体ショーとかいって」

 天井を指差し顔だけをアンに向けて来たハチヤを見上げて、少年は唸る。最近忙しくてニュースも見る暇なかったなぁと、微妙に観点のズレた反省もした。

「それで、王城エリア外苑のプラント地区の一部が、市民に開放になってるんです、今。王城エリアは上に上級居住区があるんで普段は夜空なんかはっきり見えませんけど、プラント部分なら、よく見えるらしくて―――」

 数時間の間に数百も、数千もの星が流れ落ちる様は素晴らしくロマンチックだったとわざわざ外苑まで赴いた同僚が言っていたから、是非アンと見に行きたいのだとハチヤは少し顔を赤らめて俯き、言った。

「その開放期間が、明日までだって聞いたんで」

 だから慌てて誘いに来たと続けたハチヤの横顔を見つめていたアンが、少し困ったように眉を寄せる。

「あ…の、ごめんなさい、ハチくん…。ぼく、今日は二十時から二次拘束時間で官舎から出られないし、明日は先約があって、ちょっと出掛けるんですよ」

 折角誘ってくれたのに断わるのは忍びないと思いつつも、アンはハチヤに頭を下げた。ステラの緊急呼び出し(?)に応じるため拘束時間を前倒しして一旦解除して貰ったが、その後の官舎待機は通常通りなのだ。

「本当に、すいません」

 もう一度頭を下げたアンの姿にはっとしたハチヤが、慌ててベンチから立ち上がり首を横に振る。

「いや! あ、すいません。アンさんのシフト確かめなかったおれも悪いんですから、そんな、あの!」

 こちらこそすいません。とアンの正面に直立し、丁寧に頭を下げたハチヤはそこで、少年の握っていた封筒に気付いた。

「…ってアンさん、これ…もしかして、ラブレターですかっ!?」

 超高速で顔を上げ、食い付くような勢いで肩に掴み掛かられたアンが、息を飲みつつ背後の壁に張り付く。迂闊にも手に持ったままだった手紙に今頃気付いた少年は、意味もなく跳ねあがった胸の鼓動に急かされて、半ば怒鳴るように返した。

「多分!」

「誰から貰ったんですか!!」

「預かりモノですってば!」

 鬼気迫る表情で詰め寄って来るハチヤの鼻先に封筒を突き付ける、アン。その薄紙に押し戻された青年は、表面に書かれた文字列を寄り目になって確かめた。

「ヒュー・スレイサー様?」

「さっき預かったんですよ、これ…」

 自分の肩に置かれたハチヤの手をさり気なく振り解いたアンが、未だばくばく言っている心臓を落ち着かせるように深呼吸してから、小さく答える。

 ハチヤは、アンの翳した手紙に鼻先を突っ込むようにしたまま、なぜか酷く不快げに眉を寄せていた。普段眠そうな双眸が険しく眇められたのに、少年が首を傾げる。

「…いい香りしますね…、これ、高級紙ですよ」

「あ、やっぱりそうなんだ。入手するの大変でしょうねー」

 ここでも微妙に観点のズレているアンが、手紙から漂って来る清々しい香りを胸に吸い込み、言う。

「―――流行ってんですよ、今…。機械の書く無味乾燥な文字じゃなく、自分の文字で思いの丈を綴る恋文って」

 ゆっくりと身を離すハチヤの沈んだ声に顔を向けたアンは、一瞬黙った。

 ハチヤはなぜか、じっとアンの小さな顔を見つめていたのだ。

 何か言いたげに。

「えーと…」

 注がれる意味不明の視線になんと答えていいのか判らなかった少年は、翳していた封筒で顔の下半分を隠すように引き寄せながら口の中でぼそりと呟いた。

「まぁ、そういう事情も合わせて言ってあげた方がいいかなー、と…」

 どうせ「流行」だとかに気を付けている訳などないだろうあの銀色に。

 小さくなって俯いた少年の、当惑した気配。ハチヤは、短く息を吐いて屈めていた身を起こした。

「アンさん…親切過ぎますよ。なんて言うか…、その、余計な事かもしれませんけど」

 ただでさえくしゃくしゃの髪に手を突っ込んでかき回してから、意を決したように姿勢を正して直立したハチヤが深呼吸する。

 ハチヤにだって判っている、これは百パーセント余計なお世話だ。でも、どうしても、アンのしあわせを願う青年は黙っていられなかった。

          

「アンさん、少しは自分の事も考えた方がいいと思います」

       

 言われて、瞬間、アン少年はバネ仕掛けみたいな勢いで顔を上げ、佇むハチヤに驚いた表情を晒した。

「余計な…、…勝手な事で…、すみません」

 虚を突かれて惚けた少年に深々と頭を下げたハチヤは、そのままくるりと踵を返して足早に待機室を出た。こんな風に、逃げ出すみたいにアンを一人残すのは卑怯かもしれないが、いつも誰かに振り回されていて、自分の事は二の次にしてばかり居る少年を、彼は心底心配していたし、「あいして」いる。

 健やかに。清らかに。しあわせに。

 笑っていて欲しい。

 だから猛烈にハラが立つ。あの−−−。

 殆ど駆け足で通用門に辿り着き下城を申請したハチヤは、眼前でゆっくりと開く扉を睨んだまま苛立った溜め息を吐いた。なぜ自分ではなかったのか。なぜ自分だったのか。

 なぜ、あの少年の気持ちを惹き付けたのは、自分ではなかったのか。

 なぜ、あの少年の気持ちの行き先に気付いたのが、自分だったのか。

 通用門を通り抜けて大路に出たハチヤは、上級居住区の陰影に霞んだ夜空を見上げた。

「………。」

 大路に点り始めた常夜灯の白い光に目を細めた青年は、喉元まで競り上がって来た恨み言を無理矢理飲み込んで、人の流れに逆らうように歩き出した。

  

   
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