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番外編-8- 平和的同時多発恋愛事件

   
         
(3)ベッカー・ラド

     

 いつもダルイが今日もまたダルイなと思いつつ、王都警備軍電脳魔導師隊第九小隊副長ベッカー・ラドは、だらだらとスラムの通りを歩いていた。背がひょろりと高く、痩せぎす。だからといって風景に紛れてしまうほど遠慮がちな訳ではなく、どちらかと言えば、周囲のペースに巻き込まれないだらけた空気が際立って逆に目立ってしまうタイプかもしれない。

 身に着けているものはそう悪くなかった。丈の短い白い開襟シャツと、腰の浅い細身の黒パンツに、濃茶色のハーフコート。踵を踏み潰した壊滅的に傷だらけのローファーと、白地に赤と黒で模様の描かれたバンダナを海賊被りにしているのを除けば、取り立ててどうこう言われるでもない恰好だろう。

 それにしてもダルイなー。と、一般居住区に比べて煩雑な細い通りをぐだぐだと冷やかしつつ、ベッカーは一つ溜め息を吐いた。

「…つうかアレか、気持ちの問題か」

 二年も付き合った恋人…と呼んでいいのか甚だ不明だが…の浮気現場に踏み込んでしまった間抜けな男の心境としては、妥当ではないかとベッカーは思う。別に、落ち込んでいる訳ではない。ただ、酷く疲れている。疲れている事にさえ飽き飽きしている。

 不規則な仕事のせいで、恋人に構っている時間がなかったのは確かだろう。それで、こりゃいつか浮気されるなともう随分前から思っていたから、事実それが我が身に降りかかった所で特に感想もない。

 約束もなく、気紛れに恋人を訪ねたのは、いい加減疲れていたからかもしれない。果たして想像通り、顔立ちも生活も地味な元・恋人は、寝乱れた姿で戸口に現われ、慌てて彼を追い返そうとした。

 んじゃぁ別れようかと素っ気無く言ったのは、ベッカーの方だった。

 言われた瞬間、ボタンを掛け違えたシャツの裾をコットンパンツに突っ込もうとしていた青年は、虚を突かれたような顔でベッカーを見た。

 彼は、疲れていたのだ。騙される事に。騙されているフリをする事に。

「いや、ホント。オレも大概緩いわ」

 いつもと同じレベルでそんな些細な別れなどどうでも良くなって、ベッカーはやっぱり生気なくずるずると踵を鳴らして歩いた。途中、古いアパルトメントの取り壊しに反対する住民の集団に遭遇し細い路地の端に避けた時も、こんな熱くなって疲れないモンかねぇ、この人たちは。くらいの感想しか抱かない。

 叫ぶ住民の声を背中で聞きながら、ベッカーは内心首を捻る。

 酷く疲れている。

 恋人に棄てられた…流れ的には自分が見限ったようなものだが…男の心情としては凪いでいるくらいなのに、どうにも、纏わり付いて来る疲労感が払拭できない。

 何か、だとベッカーは思った。

 何かがどこかで燻っている。

 自分の内側。

 それが気持ち悪くて、少しだけ考えてみた。自分の事を。

 恋人…というよりも、愛人と呼んだ方がいいのかもしれない…との別れは、いつか来ると判っていた。

 妻と離婚したのはもう半年以上も前だから、それは今更なんの原因にもならないだろう。さすがに、訪ねて来た義母に面と向かって「うちの大事な娘はこんな種なしに傷物にされたのか」と罵られ、法外な慰謝料を請求されて母親が寝込んだ時には、疲れる前に驚いたが。

 新興したばかりのラド家はこれでお終いだと、世界の終わりみたいな顔で両親が呟いたのを見た時は、何も感じなかった。

 こりゃぁどれも原因になり得ねぇなと、ベッカーはさっさとそれらのデータを切り捨てた。もう、どうでもいい事だ。取り返しも…つかない。

 では、仕事。

 と、思って、不意に彼は眉を寄せた。ありゃダメだ。厄介事が多過ぎて、解析する気も起きない。対人恐怖症の相棒と気弱な新人事務官だけでも大変なのに、電脳班に目を付けられた辺りから全てがおかしな方向に行っている。

 だからといって具体的に何がどう「おかしな方向に行っている」のかは、ベッカーにも定かでないのだが。

 それなら仕事の全部がこの正体不明のもやもやの発端ではないかと言われれば、しかし、彼は違うと答えるだろう。

 それではない。

 確信を持って、そういう…判り易いものではない。

「んじゃ、なんなんだよ、ってね」

 それさえやる気なく口の中で呟いて、ベッカーは通りから別の路地に繋がる角を曲がった。

 途端目に入る、ガラの悪そうな若者の一団。

 迫る壁に向かって半円に展開し眦を吊り上げている青年たちを、ベッカーは目を細めて眺めた。カツアゲでもしているのか、間の悪い時に通りがかってしまったなと思いはしたが、足を止める、または、踵を返して逃げ出す気も起こらない。

 ずるずるとした妙な靴音に気付いて、人の輪の外周に佇んでいた青年が一人ベッカーに顔を向けた。いかにも挑発的な目付きと、ガムでも噛んでいるのだろう蠢く口元が「さもありなん」という感じがして、呆れた溜め息が出る。

 青年たちは、五人いた。目で見て数えたのではなく瞬間的に「観測」した結果を脳内に展開したベッカーは、その輪の中心にあって他の四人と対峙している小柄な一人を確認するなり、うんざりと肩を落とした。

 またこりゃ面倒な事になったなと思う。いくらなんでも、これは「マズい」だろう。

 などと考えている間も、ベッカーの足取りは全く変わらなかった。磨り減ったローファーの踵を益々削るようにぐだぐだ進み、威嚇しているつもりなのか、先から視線を外さない青年のすぐ後ろを通り過ぎ。

 なかった。

 す、と持ち上げた細長い足。軽く曲げた膝を一旦身体に引きつけ、水平に保った踵を押し出すように、無造作に、あぁ? と眉を吊り上げベッカーに向き直った青年の腹部へぽんと当てる。

 それだけの動作。全く力んだ風もなく、勢いに載せた訳でもなく、ただ歩いて来てそのままちょっと蹴った程度でありながら、なぜなのか、蹴られた青年の身体が真っ直ぐ水平に五メートルも吹っ飛んだではないか。

 一瞬の出来事。呆気に取られた青年たちを、ようやく歩みの止まったベッカーが眠たそうな半眼で見つめる。

 暗い、生気のない、金色の双眸が薄暗がりにぼうと浮かんだ。

「お前ら、あれだ。退散を推奨」

 身体の脇に垂らしていた腕を持ち上げて、小柄な青年を囲んでいる三人を指差した闖入者のとんでもなく腑抜けた台詞に、もしかしたら助けられた恰好になっているのかもしれない青年も唖然とする。

「五秒待つから立ち去る意志の一つも見せてみようぜ? て、はい、警告開始からもう五秒経ったよな。アウトね」

 普通は言い終わってからカウントダウン開始じゃねぇのかよ。とミナミなら確実に突っ込んでいるだろう横暴を平然と言って退けたベッカーは、またもひょいと針金みたいな足を持ち上げて、一番手近な場所にいた青年の背中に当てた。

 と、今度は明らかに、靴裏と衣服の間で妙な爆発音がする。

 それを耳にして、囲まれていた青年が首を捻るのと同時、一人目に折り重なるようにして吹き飛ばされる、チンピラ。

 ベッカーは別に、物凄い体術奥義の使い手などではない。断じて。しかし彼は、かの電脳魔導師だった。だから、靴裏と対象の接触面を観測しその中間で極弱い衝撃系のプラグインをバックボーン稼動、多少の打撲程度で吹き飛ばすくらいは朝飯前だ。

 何が起こっているのか判らないのだろうチンピラたちが、顔を見合わせてから身体全体でベッカーに向き直る。敵対象の変更。オレは肉体労働向けじゃないんだけどなぁ、と思いつつ男は、やる気なく首の後ろをがりがりと掻いた。

 視界から外れた事で逃げ出す…つもりがあるのなら、という話だが…機会が出来たにも関わらず、件の小柄な青年は一歩も動こうとしなかった。口々に何事かを喚きながら握った拳を振り上げる二人の男を透かしてその青年を胡乱に見つめ、ベッカーは内心苦笑する。

 助ける必要などなかったのかもしれない。

 それでも、ベッカーが「手を出した」という事実に基づいて選択された事象を今更変更する訳にも行かないし、出来る訳もないから、だらだらと進行に流されてみる。なんとなく、通りで絡まれてるちょっとした、且つ一方的な知り合いに遭遇するなんてベタな展開だな、とか思う。

 脳内でバックボーンによるカウンタープログラムの急速展開。眼前に滑り来る任意の対象表面を観測してマーキングし、設定したゼロ点到達と同時に術式を発動。体表僅か二センチという極近接した距離で炸裂したエアード系インパクトに弾かれて迫る拳は水平に押し戻され、勢い、二人は仰向けにひっくり返った。

 一瞬、見つめる青年の深い琥珀色が微かに見開かれた。

 顎の尖った小さな顔に、気が強そうに目端の吊り上った、くっきりした双眸。凛々しい眉とほとんどボウズ頭に近いくらいの、茶色のショートカット…。何度か保養所のカフェで見かけた事のある青年をベッカーは、今日も、かわいいなと思った。

 足元で呻くチンピラに視線を落とし、わざとのように肩を竦める、ベッカー。しかし、もしそこにドレイクかタマリでも居たら、どちらも「さすが」と言っただろう。元より「魔導機」だとか機械相手に行使すべきプログラムを人間に対して使用するには、かなり細かい神経を使って出力を制御しなければならない。それをバックボーンで容易く遣って退ける彼は、見た目のやる気なさを裏切って、非常に器用でプログラムの制御も完璧なのだ。

 首の後ろに手をやっただらけた姿勢のまま、ベッカーは溜め息を吐いた。最初に飛ばされた二人も、今目の前で仰向けに転がっている二人も別に怪我をした様子もないし、囲まれていた青年も…大丈夫のようだし、無用な手出しをして疲れた、くらいの感想しか抱かない。

「君さ」

 足元に落としていた視線を壁際に立つ青年に据え、ベッカーはどこかしら気の抜けた声を出した。

「特務室のお客さんだよね」

 ストレートに切り込まれて、それまで琥珀色の目の青年…セイル・スレイサーの顔を曇らせていた疑念が、少し晴れる。

「…はい…。失礼ですが、――関係者の方ですか?」

 地面に伸びている男たちを気遣ってか、セイルはあえてベッカーに警備軍の兵士かとは訊かなかった。

「いやいや。連中に直接関係あるモンじゃないけどさぁ、一緒にいんの見かけた事あるなーって、思っただけで」

 腕を抱えて唸っているチンピラを跨ぎ越えたベッカーが、無造作にセイルの腕を掴む。

「誰かに見つかるとめんどーだから、離れた方がいいよ」

 言いつつ引っ張られて、セイルは小走りになってベッカーを追いかけた。さっきの警告といい、今といい、威圧的な言葉をかける訳ではないのに、その行動は極めて独断的で他の拒否や意見を許さない。

 妙なバランスの悪さだとセイルは内心首を傾げる。

 細い路地を抜けてやや明るい通りに出るなり、ベッカーはまた無造作にセイルの腕を放した。

「あの…」

 助けて貰う必要などなかったが結果としてそうなってしまったのだから、と、セイルは乱れたジャケットの袖を直してからベッカーに向き直った。声を掛けられたからだろう、なんとなく立ち止まった彼は、やっぱり胡散臭かった。清潔そうな白シャツと細い足を益々細長く見せる、安物ではないのだろうパンツと、手入れの行き届いたコート。しかし、襟足から覗くぞんざいに伸ばされたままのアッシュブロンドを包んだ海賊被りのバンダナと、踵を潰した傷だらけのローファーが全体の印象をくたびれたものにしていたし、何より、削げた頬、細い顎、高い鼻から続くつり上がり気味の眉というそこそこ端正な顔の内の眠たげな…生気のない…金色の目が、彼を酷く疲れているように見せた。

「ああ、いや、別に君を助けたかった訳じゃないから、気にしない気にしない」

「……」

 暗い金色の表面で天蓋からの淡い光を踊らせたベッカーが、口の端を微か歪めるようにして笑う。

「万が一にもさぁ、絡まれてんのが君だって知ってて通り過ぎたなんてバレたら、あすこの連中に何されるか判ったモンじゃないから」

 あすこの、連中…。

「オレぁ、もうガリューに振り回されんのはたくさんなんで」

 緩く旋回した金色が、ぽかんとするセイルの顔を捉える。

 刹那、瞬き。

 ベッカーがふと、眉根を寄せた。

「? 何か?」

 その奇妙な反応に、セイルが不審そうな声を上げる。

「……。君じゃない…、まぁ、色々と。うん。ちょっと判っただけで」

 心の内で燻る、もやもやの意味。

 ベッカーはがくりと肩を落として疲れた溜め息を一つ吐くと、何がなんだかさっぱり意味が判らないまま突っ立ているセイルに軽く手を振り、勝手に「じゃぁね」と言い残し、またずるずるとローファーの踵を鳴らし遠ざかって行った。

 取り残されて。

「―――なんなんだ、あの疲れ切った中年みたいな人は…」

 セイルは呆れたように呟き、ああいうやる気のない人間とは馬が合いそうにないなぁと思いながら、踵を返して走り出した。

  

   
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