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番外編-8- 平和的同時多発恋愛事件 |
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(1)キャロン・ヒス・ゴッヘル | |||
その人がその場所に姿を見せた瞬間、それまでざわめきに満ちていた室内にしんと静寂が落ちた。しかし、ちらちらと盗み見るような視線などお構い無しに緋色のマントを翻したその人…スーシェ・ゴッヘルは、一般警備部執務棟にほど近い休憩用のカフェ・テリア最奥で立ち上がったカーキ色の制服を目にして、色の薄い双眸を眇め優雅に微笑んだ。 丸い小さなテーブルにデッキチェアが二客という組み合わせの座席が三十も雑多に並ぶホールをほぼ一直線に突っ切ってやって来る従兄弟を眺め、直立した「女」警備兵、キャロン・ヒス・ゴッヘルはちょっと笑いたい気持ちになった。ほんのりと優しい空気を纏い、普段は大人しいくせに意外と沸点の低い本家の若様も、こうして見ればなるほど、「魔導師らしい」と思う。 注がれる、数多の感情が複雑に入り混じった視線を緋色のマントで跳ね飛ばしたスーシェが、ようやくキャロンの元へ辿り着く。くすんだカーキ色と濃茶色のアクセントに溢れたこの場所で、彼の纏う赤は鮮烈だ。 「わざわざのご足労に感謝する、若様」 こちらは、華奢な少年兵より数段ものになっているだろう、しかしまだ真新しい感の拭えない制服を着こなしたキャロンが会釈すると、スーシェは羽織っていたマントの合わせを解きながら軽く首を横に振った。 「硬い挨拶は抜きにしよう、キャロン」 たたんだマントを椅子の背凭れに預けたスーシェが、ほんのりと笑いながら木目の剥げかかった座面に腰を下ろす。 「とりあえず、警備軍入隊おめでとう。…とはいえ、こっちもごたごたしてて、お祝いの言葉が随分遅くなってしまったけど」 促されて着座したキャロンが、いいや、とこちらもきっぱり首を振る。 「若様の小隊は今、魔導師隊とは別の命令系統に属し特別任務に就いていると噂に聞いた。たかが一般兵のわたしを気にかけてくれる必要はない」 ルー・ダイ家との婚約騒動からしばらく。素晴らしい迅速さで処理されたキャロンの警備軍入隊手続きが終わって彼女が職務に就いてからも既に一ヵ月が過ぎようとしているこの時期に、今更おめでとうもないかと苦笑を漏らしたスーシェに薄い笑みを見せたキャロンが、もう一度ゆっくり首を横に振る。 そわそわと近付いて来たウエイターにコーヒーをふたつ頼んだスーシェは、さっさとあっちに行けとばかりにサロン姿の青年を手で追い払った。それを見て、キャロンが薄蒼い双眸に先とは別の赴きある笑みを浮かべる。 「…魔導師というのは大変だな。若様でさえ、それほど尊大に振る舞わねばならないとは」 言われて、スーシェは組んだ足の上に手を置き、わざとのように眉を寄せて笑った。 「ぼくなんかまだまだだよ。そのうちもっと凄い皆様にお会いする機会があるだろうから先に言っておくけれど、緋色のマントを見たら常識を棄てろ、というのは大袈裟な言葉じゃないからね、キャロン」 などと言われても、キャロンにはいまひとつその…同僚から聞いた言葉が果たして本当なのかどうか、今でも判らなかった。何せ彼女の知る魔導師といえば目の前のスーシェと、破談したが非常に好感が持てると公言して憚らないアン・ルー・ダイくらいのものなのだ。どう考えても、その二人は彼女の耳にする噂には当て嵌らない。 ようやくざわめきの戻り始めた周囲をちらりと窺い、キャロンは意味もなく「そうだな」と呟いた。 「ところで、急にどうしたの? 暇があるなら会って話したいなんて。何か、問題でも?」 女性であるキャロンが警備軍に入隊するには、ファイラン王都民のほとんどを占める男性が入隊するよりも様々な手続きが必要だった。紹介状やら身元保証のサインやら入隊後に受け入れてくれる連隊の長の承認やら、何の証明なのか意味不明のものまである始末だ。 「いや…そう大した理由ではないのだが、若様にお尋ねしたい事と、先にお耳に入れて置きたい話しがあったんだ」 キャロンがそこで、新しいコーヒーが運ばれて来たからだろう、一度言葉を切る。それをスーシェは、彼女にしては歯切れが悪いと思ったが口には出さなかった。 魔導師隊の執務棟に置かれている自動販売機よりはマシだが、小隊の執務室でブルースの淹れてくれるコーヒー…凝り性らしいブルースの淹れるコーヒーは、なかなか美味しい…よりはマズそうな香りのソレに微か目を細めたスーシェの顔を、キャロンが凝視する。 「皆様の尽力により無事入隊を果たしたお礼にと、先日、改めてご挨拶差し上げたい旨の電信をアンくんに送ったところ、なぜかミラキ魔導師より…丁寧な…お断りを頂いたのだが…」 やっぱり煮詰まってて苦い。と、白いカップの縁に唇を寄せたスーシェが、言われて、驚いたようにキャロンの顔を見つめる。 「ミラキ?」 慌ててソーサーをテーブルに戻した従兄弟を見つめ返し、女丈夫が弱ったように頷く。 「ガリュー魔導師もアイリー次長も職務がお忙しく、会見の場にはお越し頂けないというような内容だった」 こちらも制服同様真新しい通信端末を懐から取り出し、ドレイクから受け取ったメールを開いてスーシェの前に押し出す、キャロン。 「キャロン・ヒス・ゴッヘル殿。警備軍入隊おめでとう。気にするな。ガリュー魔導師もアイリー次長もお忙しいため、今は時間を割けないだろう。暇になったら会いに行く。…ドレイク・ミラキ」 いやこれは丁寧じゃないだろー。とスーシェは、口元に苦笑を浮かべた。 「…悪気はない。というか…」 完璧「素」だ。多分。 「特務室もそうなんだけど、ガリューとミナミさんもまぁ色々あって、ちょっと…アレなんで…」 何をどう説明していいのか迷ったスーシェが、端末をキャロンに押し返しながら苦笑いして、肩を竦める。 「ミラキも気にするなって言ってるし、別に君とアンくん…というか、ヒス・ゴッヘル家がルー・ダイ家に対して見せた不都合を咎めてる訳でもなくて、単純にね、今は忙しいからその内アンくんたちの方から顔を見に来るって、そういう事だよ」 既に温くなり始めたコーヒーを一口含んだスーシェの顔をじっと見つめていたキャロンが、ふと短い息を吐く。 「わたしはいい。アンくんとの一件については、何をどう咎められても仕方がないと思う。しかし、もしわたしの入隊を推した事で…」 「ああ、それはね、絶対ない」 ないない、と顔の前で手を振りながら、スーシェは極軽い口調で言った。 「ナヴィに会ったろう? その時、彼女なんて言ってた?」 「――わたしの入隊を歓迎すると、仰られた」 スーシェの、柔らかな色の双眸に意味不明な笑みが浮かぶ。 「他はどうだか知らないけれど、アンくんを含む電脳班やぼくら第七小隊は、誰も君を「ヒス・ゴッヘル家のキャロン」なんて識別しないよ。 ぼくらはね…嘘は言わない。間違った認識もしない。君を正しく受け取り、評価する。もちろん、これから先ね。君の真価が問われるのは今からだよ、キャロン。…それで、多分ここが一番重要なんだけど…」 健やかな少年の水色を思い出し、それからスーシェは、あの、観察者のダークブルーを思い出した。 「取り繕った体裁なんて、簡単にぶち壊されて終わる」 だから、正真正銘の「自分」で。 正しい評価を得よ。 「そうだな、そのうちぼくの部下も紹介してあげるよ、キャロン。どれを取っても一癖以上あるけれど、そこでちょっと慣れてから特務室に行くといい」 テーブルの間を歩き回るウエイターを目で追いながら、スーシェが頬杖を突いて小さく笑う。 「…何に慣れる必要が?」 「失礼とか不躾とか…」 「デリも電脳班なのだろう? それなら、多少は慣れているつもりだ」 彼女の口元を飾った薄い笑み。スーシェが、わざとのように剣呑に呟く。 「言ったね」 「事実を述べたまでだ」 大袈裟に肩を竦めたキャロンと刹那睨み合い、しかし、スーシェはすぐに相好を崩した。 「それで? もうひとつの、ぼくに言って置きたい話って?」 言いつつ身を起こしたスーシェが足を組み替えた途端、キャロンの表情から笑みが消える。 「―――母が」 ざわめきの合間を縫って聞こえた、吐息のような声。 「正式に、父と離縁するそうだ」 え? と、図らずも小さな声を漏らしてしまって、スーシェは慌てて口を噤んだ。人目を憚るように左右を見回してからテーブルに乗り出し、極力抑えた声で「何?」と聞き返す。 「そんなに気を使ってくれなくても結構だ、若様。どうせ、幼い頃から数えるほどしか顔を見た事のない父親に、今更使う気などわたしさえ持ち合わせていない。正式に離縁すると母に告げられたときわたしは、あの男が書類上はまだ自分の父だったのかと思ったくらいだ」 さらりと言って口元を笑みの形に引上げたキャロンが、白いカップを取り上げる。その仕草を暫し見つめていたスーシェは、結局、ちょっと疲れたように溜め息を吐いて、緊張に強張っていた肩を落とした。 「これで、ベラ叔母さまも少しは気楽になるといいね」 ベラフォンヌ・ヒス・ゴッヘルの夫君、キャロンの父である「あの男」は、ベラフォンヌと結婚した当時売れない俳優だった。金髪碧眼の優男だが華の無い人物で、初演作で似たような端役を務めたアリシア・ブルックがその後主役に大抜擢されトップスターにまで上り詰めたのに、彼には準主役さえ着かなかった。 その売れない役者と結婚したいのだとベラフォンヌが言い出した時、兄であるスーシェの父は猛反対したと聞く。それを押し切って結婚しすぐにキャロンを儲けたが、ベラフォンヌの結婚生活は三年ともたなかった。 彼には、結婚前から愛人が居たのだ。いい事を言ってベラフォンヌを口説き貴族に収まった男は、ろくに勤めも果たさず屋敷にも寄り付かないくせに、今も生活費だけは勝手に引き出しているという。 「もっと早く離縁していればよかったものを、いらぬ矜持に縛られだらだらと今日まで来てしまった母を、わたしは愚かだと思う。人一倍幸せになりたがったくせに、結局自分では何も手に入れられなかった母の向ける八つ当たりに耐えてくださった若様には、なんとお詫びすればいいのか」 彼女らしくなく沈んだ声で呟き、ついと色の薄い金髪を垂れたキャロンを見つめ、スーシェは少し弱った顔で眉を寄せた。正直、思い起こせばハラの立つ事は幾らでもあったし、明日から急に打ち解けようとは思えないが…。 「今、茶会やサロンで極保守派と呼ばれているベラ叔母様が、二十五年前は今のアリスたちと同じだった、なんて、誰も信じないんだろうな」 従兄弟同士の沈鬱な呟きなど知らぬ周囲の人間が、笑いながら、口々に何か話しながら、平坦な視線を遠くに向けるスーシェの視界を横切って行く。 「なんだろうね…、ようやくぼくも大人になって落ち着いたからそう思うのかもしれないけど、キャロン? ベラ叔母様は結局、夢に失敗した自分が辛い思いをしたから、誰にもそうなって欲しくないから、今みたいにね、保守派に偏ってしまったんじゃないかな」 「若様が今そう思えるのは、好きにやって理解ある伴侶を得たからだ。母は好きにやって理想に破れ、臆病になった。そしてその臆病さを、わたしや他の女性にも押し付けようとした。お優しい若様はそういった事情をご存知だったから、母にキツく言い返しもしなかったのだろう?」 冷たい水色に見つめられて、スーシェは曖昧に微笑んだ。 「ぼくも臆病なんだよ。それだけ」 本当は。 失礼にもスーシェは、ベラフォンヌを憐れんだのだと思う。望んだ伴侶に裏切られた彼女の後ろ姿は、いつも孤独で寂しげだった。彼女は支度された未来を蹴り、失敗した。だから彼女はスーシェに、支度された輝かしい未来から逸れずに進めと言ったのだと、彼は思っていた。 まぁ、それがいつ頃から個人的な嫌味交じりになったのかは、よく覚えていないけれど。 「今」だから、判る。と言ってはおこがましいかもしれないが、「今だから」思う。ベラフォンヌもまた、あの女王陛下のように子供たちを案じる「母」だった。 「………」 ひどく複雑な気持ちで小さく首を横に振ったスーシェが、心底申し訳なさそうな顔をしたキャロンに微笑みかける。頑ななこだわりが消えてあの叔母も少しは気分が軽くなり、キャロンを不当な言い分で縛りつけようとしたりしなければいい…ついでに、スーシェとイムデ少年に、事ある毎に文句を言うのはやめて欲しいな…とも思った。
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