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番外編-7- ステールメイト |
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(27)三日目 22:42 | |||
例えば。 意志を持って働きかけ、成るべく事象を成るべく進路に誘導する事は容易いのだろうか。 世界の形状は真円。「自分」を中心にした小さな囲い。無数のそれらが集まるこの世はしかし、独立した円形が隣り合っているだけではない。 あなたはわたしを囲む一点であり、わたしはあなたを囲む一点でもある。わたしの周囲にはあなたの知らない無数の点があり、あなたの周囲にはわたしの知らない無数の点がある。それぞれが中心に在って、派生する点と点とを繋ぎ描き出される幾何学模様。三次元で重なり合い関わり合いわたしから見れば棘や亀裂や断裂も、あなたから、あなたの関わる誰かから、わたしに関わる誰かから見れば、それもまた真円を描くラインに過ぎない。 全ては不確定要素の集合。ほんの少しの確定された点を通っても通らなくても、中心がわたしである世界を呑み込んだ「真円の世界」は、滞りなく存在する。 だから結局、意志を持って働きかけ成るべく事象を成るべく進路に誘導しようとする事は容易いが、複雑に混在する点の全てを思い通りにする事は、事実上、不可能なのかもしれない。 点=あなた=わたし=誰か=全ての人よ。 重ねてしかし。 もしその「あなた=わたし=誰か」を囲む点の幾つかが、それぞれの思惑に沿って同時にとある「解答」へ至る道筋を、透明な絵の具で刷いたとしたら。 その定点は、必ず「わたし=あなた」の進行方向に存在するだろう。 つまり? 単純な話。 わたしを囲む真円の世界を思い通りに出来るのは、中心に在る「わたし」だけなのかもしれない。
そういう事だったのかと、ハルヴァイトは非常階段室の壁に設えられた薄暗い光を放つ照明をぼんやり見上げ、思った。 ルー・ダイ家で騒動の事後処理(?)を行っていたスーシェから特務室に電信が入って、直後、ハルヴァイトは、モニターに噛み付いているドレイクと呆気に取られて伴侶の弱った笑顔を見つめているデリラに気付かれないよう、電脳班執務室から逃走を図った。 とはいえ別に、何かしでかしてしまった事を都合悪く思ったとか、電信後に詰め寄って来るだろうドレイクの相手が面倒だとか思った訳ではなく、スーシェの報告して来た結果がミナミの耳に入り、それから恋人が現在失踪扱いの銀色を捻じ伏せるまで介入すべきでないと判断した上での、いわゆる戦略的撤退? みたいなものだが。 ドレイクの下城時刻まで適当にあちこち移動して追跡を躱し、彼が屋敷に戻ったのを確認してから、ようやく本丸へ足を向けた。さすがに深夜なら話は別だが、まだ宵の口から夜半にかけてという時間帯、城の中には思いの他人影がある。 どうでもいいのだが。 ただ、そんな事を思い浮かべただけで、理由などなかったのだが。 人、というキーワードを使って、彼はいつもそうであるように詮無い思考を繰り返した。回答も解答もいらない、ただ休まずに考えるだけの行為はハルヴァイトの日常に過ぎない。 世界に関わりない第三者になって「世界」を眺める。 思考で繋がれた「世界」を、外側から。 その、つもりだったのに。 本丸大階段前で一度足を停め、日中に比べれば人影のまばらなエントランスをぐるりと見回して、感慨もなく、斜め上空に投げていた視線を水平に戻しまた歩き出す。傍から見ればたったそれだけの、本当に他意ない行動だったが、ハルヴァイトはその刹那に気付いてしまったのだ。 漆黒の長上着の裾を捌き、常用的に使用している非常階段室の鉄扉を開けて、その向こうにあった冷たい空気が足元を撫で過ぎたのに、つい口の端が歪む。 気付いた。 判った。 そう思っているだけかもしれないが…。
やられたなと思った。
正直、悪い気分ではない。「気付いた」「判った」自分の思考の方に、驚いたくらいだ。世界は真円。見知った誰か、見知らぬ誰かが関わって、色と厚みを持った「世界」は成り立っている。 しかも、その可能性もゼロではないと途中で思い始めていたのだから、今更文句を言うつもりもない。 普段のハルヴァイトからすれば随分とゆっくり階段を登りながら、脳内で情報を整理する。事実関係? もしかして、真実? を確かめる気はなかったが、知る事が出来るなら、完敗を認めるために尋ねてもいいくらいは思う。 そんな事を、つらつらと考えた。 七階と八階の丁度中間、特務室を辞し下城しようとする時殆どの衛視が通るだろう場所で何気なく足を停めたのは、ただの「偶然」だったのか。 偶然は。 それもまた「選択肢」に至る道筋を増やし、減らし、確定するに係る、ひとつの要素。 「…………」 薄暗く寒い階段の中腹に佇み、そういう事だったのかとハルヴァイトが苦笑を漏らすのと同時、それまでしんと冷たく存在しているだけだった重い鉄の扉がぎいと軋んだ。 何か判っていたような気分で顔を上げたハルヴァイトの鉛色が、鈍い光を放つ銀色を捉える。そう、これもまた「成るべくして成った事象」と言うべきだろう。この瞬間。その刻(とき)とその刻(とき)の狭間にこの…外界と隔絶された場所で鉄色と銀色が遭遇するというのは。 強要される理解か。 はたまた、ただの悪意なのか。 特務室のある階層の鉄扉を開けて非常階段に姿を見せたのは、銀色、ヒュー・スレイサーだった。 彼が今までどこに居て、何があったのか、ハルヴァイトは気にかけたりしない。それはそもそも気にならないのか、それとも…それさえ判っているのか、真相が鉄色の口から語られる事は絶対にないのだが。 だから、数日振りにヒューの顔を見ても、ハルヴァイトは別に驚いたり何か問い質したりしなかった。いや、正直そんな真似をされたら恐ろしいけれど。いつもと同じ冷たい鉛色に蛍光灯の放つ弱々しい光を微か映して、暗い光を乱反射する銀色を見上げている。 その、もしかしたら居心地悪い視線に晒されても、やはりというべきか、ヒューも別に何か話題を提供しようとは思わなかった。まず、訊ねられないなら言う必要はない。重ねて、今回の「この件」については、陛下ともミナミとも「絶対に口外しない」と話が着いているのだから、訊ねられても言うつもりはない。 冷たいサファイヤ色の双眸で階段の中腹に佇むハルヴァイトを見下ろし、ヒューは微か唇の端を吊り上げた。 考える必要もなく、彼もまた思う。 この鉄色は、言い訳など聞いてはくれないだろうと。 ただ、ふと沸くのは、疑問。 「お前、なぜここに居る」 ヒューが短く呟き、答えの代わりにハルヴァイトは肩を竦めた。 もしこれがミナミだったら絶対に「それ、ヒューが言うなよ」と突っ込んだだろう台詞にも、ハルヴァイトはちょっと考えるような顔をしただけだった。なぜと言われても困る。ただ、偶然通り掛かっただけなのだから。 例えばこれがドレイクだったり、もっと普通に「普通の対応」が出来る人間だったのなら、また話しは変わるだろう。ここに居てはいけないのかとか、それこそなぜここでその質問なのかとか、言いようは幾らでもある。 しかし、相手はハルヴァイトなのだ。そんな平凡な問いなど口に上る訳もなく、彼は率直に、執務室に帰る途中ですと答えた。 「…いや、だから…。まぁ、そんな事はどうでもいいんだな…」 半ば呆れ気味に天井を仰いだヒューが、苦笑交じりに呟く。本当に馬鹿な事を言ったと、彼は無意味に後悔した。さっき会ったミナミが「これから屋敷に戻ってあの人と喧嘩する」と言っていたから、ハルヴァイトはもうとうに下城していると思っていたのだが、それがどうして下から来たのかちょっと気になっただけで、別に弾んだ会話を望んだ訳ではない。 なんとなく、コレと普通に会話しているミナミが偉人に思えた。 「班長は、お帰りですか」 問うというより言い置かれて、ヒューが天井に向けていた視線をハルヴァイトに戻す。 「…ああ。もう、用事も済んだ」 「そうですか」 ハルヴァイトはやはり、何の、とさえも訊かなかった。 「では、数分だけ、そのままわたしの話を聞くつもりは?」 しかし、続いた意外な言葉に、ヒューが微か片眉を吊り上げる。 「…ないと言っても話すか?」 「ないなら言いませんよ。ただし、誤解されたままで構わないならですけど」 さも、聞くつもりのない人間相手に話をするほど奇特ではないというニュアンスの…つまりは面倒そうな口調に、つい本気で笑みが漏れる。 誤解。その言い方が、気に入ったのかもしれない。 「誤解されたままが嫌なら聞けという意味か。お前にしては随分譲歩した言い方だな」 ヒューはそれでようやく、眼下のハルヴァイトに身体を向けた。 「そうかもしれません。譲歩…そうか、譲歩ね。まぁ、そういう事にして置きます」 ぶつぶつ言いながら手摺に背中を預けたハルヴァイトは、まるでヒューなど関係ないもののように壁の一点を見つめ、白手袋に包まれた手を無造作に上着のポケットへ突っ込んだ。 そして。 「…あなたは、何もしなかった」 いきなり切り出す。 前置きも何もなく、判っているとも結果がどうだったのかとも、ヒューが消え、またここに現れた経緯などないもののように、いきなり。 「あなたは、ただ、消えただけだ」 ヒューは何を言い返すでもなく、淡々と話し始めたハルヴァイトの横顔を見つめたまま腕を組んだ。 「消える事自体は、目的ではなかった。そもそも、あなたに「目的」などなかった。それが…あまりにも唐突過ぎたからクローズアップされてしまっただけで、あなたは…」 壁に据えられていた鉛色が旋回し、上空のサファイヤを捉える。 「「結果的に」、消えてしまっただけだった」 言われて、ヒューの唇が薄く弧を描いた。 「正直な所、あなたと今日の…ルー・ダイ家とヒス・ゴッヘル家の婚約解消にどういう繋がりがあるのか、わたしは全く興味がない。しかし、関わってしまった以上最後まで関わらざるを得なかった。 わたしはあなたを批判するつもりはない。 利用されたとも思っていない。 第一あなたは、わたしと違って、「誰も利用しなかったし、予想も予測もしなかった」」 ハルヴァイトの確信的な言い方が可笑しかったのか、ヒューの口元を飾る笑みが濃くなる。 「話を最初に戻しましょう。あなたは、何もしなかった。「今日」というタイミングに関して言うならば、それで間違いはない。関係してしまった誰に聞いても、あなたは「どこにも居なかった」と答えるでしょうしね。 しかし、あなたは…本当に何もしなかったのではない。 誰も利用しなかった。 誰の行動も予想しなかった。 あなたは…」 平坦な声で述べるハルヴァイトを、ヒューは薄笑みのまま見ていた。 「班長」 言い直されて、答えの代わりに肩を竦め先へ進めと促す、銀色は。 「誰よりも早く行動を起こし、停滞していた「事象」を動かしたんじゃないんですか?」 「それは、質問か?」 どこか面白そうな表情で腕を組んだまま、ハルヴァイトに小首を傾げて見せた。 「質問と言うより確認ですね。先にも申し上げた通り、わたしは班長に対して何か「思いたい」訳ではありません。ただ、ルー・ダイ家とヒス・ゴッヘル家の婚約に関わってしまった人間たちの気付かなかった部分に「気付いてしまった」以上、それがわたしの思い過ごしなのかどうか、知りたいだけです」 「俺がここで、そんなものは思い過ごしだと言ったら?」 「班長の言葉を素直に受け取ってそうですかと答えるには、タイミングが良過ぎます。悪い、かもしれませんが。 これまで兄上の催促を無視し続けていたアンがこの婚約を、自発的、且つ早急に決着させようとするのには、大なり小なり理由が必要です。敢えて言うなら、その「理由」は周囲から見たらどうでもいいようなものでも構いません。それこそ…今日ルー・ダイ家の言ってきた、「自分勝手」でもいいんです。 だから余計に、急ぎ過ぎているとわたしは考える」 「急ぐ理由ね。それこそ、幾らでもあるんじゃないのか? そんなもの」 「ないとは言ってません。ただ、タイミングが問題です」 「……俺が消えて?」 「それも、「結果的に」だとわたしは先に言いました」 睨み合うという空気でもない。だからと言って平素と同じでもない。どこか危うい緊張を孕んだ言葉の遣り取りが、無機質な階段に跳ね返る。 「班長が「消えた」のは「結果」です。始めに申し上げた通り、それがあなたの目的ではなかった。ここは完全にわたしの予想ですが、元々あなたに、「目的」など…なかったんじゃないんですか?」 「モノは言い様だな。お前の言う通り俺に「目的」などなかったとしよう。ではお前自身が先に言った、「誰よりも早く行動を起こし、停滞していた「事象」を動かしたのではないか?」というのはおかしい。何せ俺には、目的なんかなかったんだろうからな」 「………」 絶対に逸れないサファイヤに見下され、言い返され、ハルヴァイトは…。
ちょっとムっとした。
軽く殴って遣りたい気分になった。
そんな事をしたら、ハルヴァイトの方が落されると思うが…。
それとはまた別な所で、妙に冷静な思考が働く。ヒューの取ったなんらかの行動に起因してアンがヒス・ゴッヘル家との姻戚解消を急いだという仮定は、完全に成り立たないものではない。まず、時期が余りにも噛み合い過ぎている。しかし、ヒューがなんの目的もなく突発的に行動し、結果、一時的に失踪したとするならば、アンの行動はただ偶然噛み合ってしまっただけとも言える。 では、目的もなく行動しそれが現在という結果に繋がると仮定するならば? 「目的…」 完全に面白がっているのだろう、にやにやと見下ろしてくるヒューの顔を無表情に見上げたまま、ハルヴァイトは口の中で呟いた。 「班長は、何もしなかった。関わらなかった。だから目的はない。 目的…」 それ、は。 殆ど思考停止寸前の不機嫌さで、ハルヴァイトがついに頭上の銀色を睨む。明らかな苛立ちを含んだその表情を、ヒューはさも人悪く笑った。 「…目的、ねぇ。お前の悪い所がなんなのか、ようやく判った」 言われて、ハルヴァイトがますます不愉快そうに眉を吊り上げる。対照的にヒューは蒼い双眸を眇め、厳しく組んでいた腕を解いて、薄暗い壁にぼうと浮かぶ銀髪をさらりとかきあげた。 「この世の全てに「目的」があるとは限らない。お前のように、全ての可能性、全ての選択されるだろう事柄を一瞬で思い浮かべ、なんでもかんでも思い通りの進路を取らせようとする人間だけの世界は「この世」でなく、俺は予想も予測もしない、つまりただの平民だという事だ。 本当に…俺は何もしなかった」 「……………。」 どうしてこのひとは、こうも気に触る物の言い方が出来るのだろうかと、ハルヴァイトは本気で唸った。 「目的なく行動する意味が判りません」 「お前、意外と頭悪いな」 「………………………………。班長」 「なんだ」 上着のポケットから手を抜いたハルヴァイトが、微かに引き攣った笑顔をヒューに向けたまま、その手で拳を…。 「…答えがいつでも見えている訳じゃないという意味だ。先手必勝もひとつの基本だが、完全後手で完勝という事もある。全ては相手の出方次第か」 小刻みに震えるハルヴァイトの握り拳を眺めつつ、ヒューはまるで大師が弟子に説教するみたいな口調で言った。 「俺は何もしなかった。 相手の出方を見た。 関わらなかった。 そうだな…お前にここで殴られるというのもシャレにならんだろうから、教えてやる」 ヒューの、緩んだ口元の笑みは、何を意味するのか。 「自宅に戻ってミナミに言え。それできっと、お前の俺に対する誤解はきれいに晴れる。 俺は何もしなかった。何もせず、関わり合わず、先に…退いただけだ」 最後に申し訳程度の笑みを見せたヒューが、佇むハルヴァイトの前を涼しい顔で通過しようとする。それを呼び止めるか否か一瞬迷った悪魔の顔をちらりと見遣ってから、銀色は「そうか」とどうでもいいように言い足した。 「確かに俺は何もしなかった。だが、何もせず、先に退いた事をお前が「何かした」というのなら、結局は、何かしたうちに入るのかもな」 笑みを含んだ意味不明の台詞を残し、階下の暗がりへと消える、派手な銀髪。 取り残されて、暫くの間固めた握り拳を睨んでいた鉄色が、色んなものに折り合いをつけて溜め息を吐く頃には、既に彼の足音は聞こえず、ただ耳に痛い静寂だけがハルヴァイトの周りを包んでいた。 目的もなく行動し、何もせずに相手の出方を確かめて、ただ、先に退いた…。しかし、それを「何かしてしまった」と解釈する事も、可能。 なぜそれがルー・ダイ家とヒス・ゴッヘル家の婚約解消の引き金になるのか、本気で判らず、ハルヴァイトは首を捻った。
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