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番外編-7- ステールメイト |
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(2)一日目 09:05 | |||
「今日の居残りはわたしとドレイク?」 「昼までにゃデリも登城する予定だぜ。休暇はアリスだけなんだが、昨日随分遅くまで仕事が掛かっちまって、どうも疲れてるっぽいからよ、アンにもこっち来なくていいつっといた」 それで、もう一日休暇の残っているデリラを半日呼び出したのだと、ハルヴァイトが執務室のドアを後ろ手に閉ざすのとほぼ同時に奥の仮眠室から出て来たドレイクが言う。 だらしなく緩んでいるネクタイを解きながら部屋の隅に置かれた姿見に近付き、乱れた白髪と白シャツを手で撫でて整える、ドレイク。昨日は泊りだったのだろう彼の背中をハルヴァイトは、自分のデスクにやる気なく頬杖を突き、見るともなしに眺めていた。 思考は、反芻する。連続する。 「ドレイク」 「? あぁ? なんだ?」 呼ばれて、ドレイクは鏡に映る自分の肩越しに見える、あらぬ方向をぼんやりと眺めているハルヴァイトに視線を流した。先に話し出すなんて珍しい、天変地異か? と内心上官に対して失礼な事を思い浮かべたが、あえて口には出さない。 最早、この弟の引き起こす天変地異に、いちいち驚いてやる気力もないし。 「今朝、ここから出ました?」 「? いや。昨日の夜食…つっても二十二時過ぎに隣行って戻ってからは、一度も出てねぇな」 鏡を介して注がれていた視線が逸れて、ハルヴァイトは虚空に投げていた視線を鏡の中のドレイクに戻した。 鏡に映る、浅黒い肌に映える見事な白髪と、曇天の瞳。襟まできっちり糊の利いたシャツはきっと、泊りの際着替えるようにとリインが持たせていたものだろう。あの執事頭は、着衣の乱れや汚れを酷く嫌がる。 そういえば、ミラキ家とハルヴァイトの関係が明らかになった途端にああでもないこうでもないと煩く言い出したのも、リイン・キーツというミラキ家に仕える壮年だった。いらないと断ったはずが週に一度は家にやって来て、甲斐甲斐しくというよりは口喧しくだらしない格好をするなとか皺の浮いたシャツを着るなとか磨いていない靴は履くなとか、他の事はどうでもよくて部屋を散らかそうがなんだろうが黙っているくせに、そういうものだけは口を酸っぱくして散々言い散らかされた。 おかげで、どんなに生活能力がないと評価されようとも、衣服だけは必要以上に乱れなかったなとハルヴァイトは、感謝するでもなく思う。 「それがどうかしたのか? ハル」 余計な事を思い出していたハルヴァイトを、身支度の済んだドレイクが振り返った。 「班長に会いました? 昨日」 「ああ、昼過ぎに隣で少し話して、それっきりだがな。ほれ、ルニ姫さまの一件があったつったろ? そん時だ」 デスクの上に放ってあった長上着を手に取り袖を通しながら、訊かれてもいない詳細まで話してくれるドレイクのなんたるかに苦笑を漏らしつつも、ハルヴァイトは内心でふうんとまた気のない相槌を打つ。 やはりそうなのかと思う。気にした事などないけれど。 恋人は何か知っているのかと思う。訊いてやる気もないけれど。 ただ。 正しく固定されるだけだ。 何をすればいいのか。 あくまでも、ミナミのために。 「班長」 ハルヴァイトは、デスクに頬杖を突いたままドレイクに顔も向けず、ぽそりと呟いた。 「失踪したらしいですよ。ネームプレートごと」 「はぁ? おめーでもあるまいし、なんで班長が失踪すんだよ。つうか、そのネームプレートってのはなんなんだ」 「詳しくはお隣でどうぞ。ついでに、戻って来る際コーヒーなど運んでくださると、大変嬉しいんですが」 おめー、そっちが目的だろ、とわざとのように剣呑な表情で睨んで来るドレイクに軽く手を振り執務室から追い払ったハルヴァイトは、椅子を回転させてデスクに背を向け、長い足を組んだ。 余計な事など考えず、暫く待つ。隣室の気配を探るでもなく、聞き耳を立てるでもない、本当にくつろいだまま、少し。閉ざされていたドアが微かに軋んで、コーヒーを手にしたドレイクがいやに渋い顔で戻って来るのと同時、ハルヴァイトは椅子を再度回して、デスクの向こう側にある応接セットに向き直った。 「…今度は、何が起こったんだと思うよ、ハル」 ハルヴァイトに渡されるはずのカップが、ソファにどさりと身体を預けたドレイクの正面に置かれている。だからそれはここへ来いというサインで、鉄色はそれに逆らわず重い腰を上げた。 「さぁ、なんでしょう」 立ち上る琥珀に誘われてドレイクの正面に移動したハルヴァイトは、普段と変わらずどうでもいいように呟いてから長上着の裾を捌き、ソファに座った。 「それこそおめーでもあるまいし、なんで、班長がいきなり特務室から失踪すんだ?」 「それは、方法という話ですか? それとも、理由?」 「どっちもだな」 安っぽいミステリーでもあるまいし、ヒューがここから「消えた」とすれば行き先は一箇所しかないだろうと、ハルヴァイトはカップに手を伸ばしながら思う。 「直前…、班長が姿消す直前に室長室に入ったのは、ルードもジルも見てる」 「だったら失踪方法? は判り切ってるじゃないですか。クラバインは先程わたしに、班長の行き先など知らないと言いましたよ。彼にしては珍しく、いかにも怒ったような顔でね」 あの、クラバイン・フェロウがだ。嘘と虚飾をこれ当然と振り翳す男が、「いかにも」な顔で言ったというならば。 「…陛下が噛んでるってのか…」 「それ以外に考えられないという、捻りも何もない事実でしょう。衛視室から室長室経由で行ける先は、クラバインとミナミの私室、それと、本丸最上階、陛下執務室か居室か、更にその上」 「ファイラン私邸くれぇのモンだしな」 溜め息混じりに呟いたドレイクが、背凭れに身体をぶつける。見開かれた曇天の瞳は、睨むように天井を見つめていた。 「陛下が班長を執務室か居室に呼び出す理由は?」 「他言できない重要任務」 「ネームプレートまで外させてか?」 「いつここへ戻るか判らないからでは?」 「だったら、クラバインの対応がおかしいだろ」 「では、クビにでもしたとか」 「そんじゃぁ、失踪する理由になってねぇ」 「なんらかの不祥事で解任したのなら、残った衛視に警告する意味でもはっきりと理由を公開するでしょうしね」 「だったらこいつぁ、なんの冗談なんだ?」 背中で背凭れを押したドレイクの視線が垂直に下がり、ハルヴァイトを睨んだ。 「可能性の話なんですが、ドレイク」 手にしていたカップの表面で渦を巻く湯気を見つめていたハルヴァイトの鉛色がすうと持ち上がり、覗き込むドレイクの曇天を見つめ返す。 全てを見透かす、しかしその内情を覗かせない、不透明な鉛色。 「陛下に、班長を軟禁する理由があったとしたら?」 問いかけが脳に染み、ドレイクはゆっくりと眉根を寄せた。 「クラバインにも相談しねぇでか?」 「陛下が、騒ぎを…望んでいたとしたら?」 なんの、ために。 「それから」 何かの、ために。 「班長にも、その覚悟があったとしたら?」 ドレイクはそこで詰めていた息を吐き出し、再度背凭れに身体を預けた。 「考えたくねぇ可能性だな、そりゃぁよ。まさかどっちも計算ずくじゃぁ、周りがどんなに慌てふためいても本人同士が手を引かなくちゃ、騒ぎは収まらねぇだろ」 そういう、難しい上にもどかしい事態ではないと思うんですけどね、わたしは。とハルヴァイトは内心呟き、しかし無言で、温くなり始めたコーヒーを一口飲んだ。 後は、ミナミがどうにかするでしょう。と、思いながら。
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