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番外編-4- 星の回り/夜想曲 |
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5)星の回り | |||
次々と買い求められていく甘いお菓子は、蒸発して消えた何かと似ている。 彼は今でもああやってそれを惜しげも無く、別け隔てなく誰にでも振る舞い、幸せそうに微笑み、「彼」はあの時、差し出されたそれを受け取る前に気付いてしまった。 擦れ違いではない。 始めから、その星は自分に巡らない場所にあったのだと。
アンは戸惑った。 何があったというのか、不意に気配そのものまで掻き消えて、しかしそこにただ佇んでいるヒューに対する言葉が思い浮かばない。その、冷えた視線の先にあるのが目的の場所だというのは理解出来たが、甘い菓子の並ぶ小さな店と傍らの男の物騒な顔つきがイコールで繋げなかった。 店先に並ぶ人の列が徐々に短くなり、最後のひとりが白い箱を受け取って立ち去る。それでいっとき訪れた空白は非情にも、ガラスケースに隔てられたスペース内を忙しく歩き回っていた男の顔を上げさせてしまった。 白いマオカラーのシャツに黒いサロンを巻いた、女性的でもないし可愛らしいとも表現出来ない、しかし、繊細そうな背の高い男。長い睫に飾られたダークブラウンの瞳が大きく見開かれ、同時に、白いシャツに包まれた薄い肩が傍目でも判るほどぎくりと強張ったのに、少年もまた男を見つめて凍り付いた。 何かが判りかける。癖のない栗色の髪を清潔に整えたひとの目尻や口元に憶えがあって、落ち着きのない気持ちになる。 ふと、凝り固まったアンの頭上に短く洩れた吐息。諦め混じりのそれに何かを確かめようと顔を上げた少年は、ヒューの口元に浮いた苦い笑いを目にした。 「時間に遅れたらひめさまにひっぱたかれるな」 言いながらそっと肩を叩かれたアンが我に返れば、ヒューはすでに件のガラスケースへと歩み寄っていた。 完全に動きの停止した店員の前、綺麗に磨かれて天井からの柔らかな光を散らすガラスケースの上に紙幣を一枚載せたのは、あの固い指。 「久しぶりだな」 ぶっきらぼうにヒューが呟き、瞬間、凍りついていた男が、ひく、と息を吸い込んだ。 「あ…ああ……そうだね」 うろたえた答えと、逸らされた視線。俯いた横顔は頼りなく、今にも泣き出しそうだった。 「これで、買えるだけ。箱はふたつに別けてくれ」 注文しているというより命令しているような口調でヒューが言うと、男は微かに落胆したような、やっぱり泣きたいような顔で口の端を震わせ、トレーを手にしてガラスケースを覗き込んだ。 「変わりない…んだっけ」 「まぁな」 「まだ、あそこに勤めてるってね」 「…………判っているのに確かめようとする癖が直ってないな」 「だって」 男が顔を上げる。もう、あの泣きそうな表情はなくなっていた。 「そうでも言わなくちゃ、お前は何も話してくれないじゃないか」 「そうだな」 責めるような呟きに、ヒューは笑みさえ含ませた声で答えた。 「それにしても、まさかお前が来るなんて、予想してなかった」 「頼まれただけだ」 「…………そう」 酷く危うい緊張を孕んだ空気が、雑踏と喧騒を拒絶している。それが判ってなのか、それとも違うのか、アンはただ会話するふたりを後ろから見つめるだけだった。 ガラスケースに隔てられたふたりは、どこかぎこちない。 「……来てくれた訳じゃ…ないんだよね」 トレイに載った無数のシュークリームを白い箱に詰めていた男の視線が、ちらりとヒューの背後、アンへと流れる。探るような視線に晒されて少年はまた戸惑い、助けを求めるように見ていた銀色の流れる広い背中から、自分の足元へ視線を落とした。 「ああ」 短くなんの飾りもない答え。蓋を閉じピンクのリボンを飾られた箱がガラスケースに置かれると、それを無造作に受け取ったヒューが、小さくなって俯いたアンの顔の前に差し出す。 「どうぞ」 言われて、「はい…」と消え入るように答え、箱を受け取る少年。 「余計な事だと思うけど」 「じゃぁ言うな」 「相変らずだな、お前…。どこのコだか知らないけど、怖がってるじゃないか」 男は本気でそう思っているのだろう、細い眉をぎゅっと吊り上げて一旦ヒューを睨んでから不意に相好を崩し、いかにも優しそうな笑顔をアンに向けて来た。 何か言わなければならないのかと慌てて顔を上げたアンがどきりとしてしまうような、柔らかい笑顔。アンの知るスーシェやレジーナ、それから、例えばミナミだとか、セイルだとかとは完全に違った意味で、そのひとは、ひどくクリアできれいだった。 しかし。 「怖がってる…ね」 ヒューはそれを、笑ったのだ。 呆れたように。 疲れたように。 冷たいくらい本気で、笑った。 「怖がってる人間は、俺を平気でからかわないと思うがな」 肩を竦めるようにして呟いたヒューの視線が、目の前の男からアンの頭上に流れる。 「お前も、結局、変わっていないな」 アンに視線を向けたままそう言って、ふとヒューは奇妙に、困ったような顔をした。それはきっとアンが少し困ったように眉を寄せたからであって、ふたりが同時に、「あの事件」を思い出したからであって、今更それは確かめるでもなく身に染みた事実でしかないのだと思い当たったからかもしれない。 「……………」 怪訝そうな顔で黙り込んだ男に顔を向け直し、ヒューが小さく息を吐く。 「別にそれが悪いとは思っていない。いつまで経ってもお前はお前だし、俺は俺だし、こういう風に顔を合わせても、結局、関わりあわずに終わるだけだろう」 ぴくりと男の肩が震える。 変わろうとして変えられるものと、どうあっても変わらないものがある。本当に身に染みた。呆れるくらい振り回されたのに、ヒューもアンも、きっと、ミナミとハルヴァイトも、その他の、「あの事騒動」に関わり合った人も無関係だった人間も、今は昨日と同じ日常に戻っているだろう。 「…………それでも、重なり合って、または離れて、変わってしまうものもあるな」 呟いて、思い出す。 ミナミは、どうしているだろうか。 ことりとガラスケースの上に置かれたもうひとつの箱を受け取って、ヒューは短く「じゃぁな」と言った。 「また…来てくれる?」 祈るように胸の前で手を組み合わせた男が囁き、何かを訴える視線が向けられた背に注がれたが、彼は一度も振り返らず、微かに微笑んで「もう来ない」と告げただけだった。 拒絶や拒否ではないにせよ。 通り過ぎるような別れを。 取り残されて慌てたアンが、ガラスケースの向こうで凍り付いた男にぺこりと頭を下げ、踵を返して走り出そうとした。 「あの、きみ!」 不意に呼び止められて振り返った少年を、酷く悲しげな表情で見つめる、男。 「きみは……」 「あ、あの…。同僚、です」 なぜか反射的にそう答えてしまって、アンはちょっと反省した。まてまて、なんでいきなり同僚とか言い訳してんだよ、と内心突っ込んでみたが、それ以上はどうしようもなかった。 だから、見つめてくるダークブラウンを見つめ返すだけ。 「…そう…。ありがとうございました」 男は何か納得したように寂しく微笑み、それから、丁寧に頭を下げて、アンを見送った。
人ごみを掻き分けて、ヒューに追い着く。 何も話す事がなくて、戸惑う。 そんな少年の細い肩を目だけで見下ろし、ヒューは溜め息を吐いた。 「何か質問はあるか」 だから問う。 「ないです」 簡潔過ぎるそれは、多分嘘。 ショッピングモールを抜けて通りに出ると、人ごみは随分と薄くなる。視界が拓けるとすぐに城の尖塔群が見え、大路に辿り付けば、緩やかにラウンドした城壁と、その周囲を哨戒している警備兵の姿が見えた。 兵士の交代時間にはまだ暇があるからなのか、大路を行き交うフローターの数はいつもと変わりなかったが、通りを歩く人そのものは随分と少ない。円形の城を一周する広い道を右から左に眺め遣るとすぐ、浮遊車両用信号が青から赤に変わって歩行者用信号が赤から青に変わり、ヒューは俯いた少年の腕を掴んで、白く刻まれた横断歩道を足早に渡った。 最後の一歩で歩道に上がる。 少年は、もう一歩遅れて、歩行者用信号が点滅し始めた時に、ようやく歩道に辿り付いた。 「…………………あれが、ミシガン・トウス。ダルビンの弟だ」 ヒューはそう言ってその場に少年を残し、特別官舎通用口へと爪先を向けた。
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