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番外編-10- からくりキングと嘘つきピエロ |
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薄暗い画面。 剥がれかけた壁のクロス。 不恰好に波打つ絨毯。 傷のついたソファ。 荒れたままの室内。
隙間なく壁面を飾る幾何学模様のプリントが、天井に近付くほど不鮮明に霞む薄暗さの中、光の加減で濃灰色の光沢を波打たせる暗いボルドー色のロングコートを手にした青年…リリス…が、床に垂れているのだろう裾を引き摺る衣擦れだけを伴ってゆらりと、ふらりと、何処かしらとぼとぼと、虚ろに滲んだ薄い翠の膜を張った琥珀の瞳で虚空の一点を見つめたまま、現れる。 音楽は、無い。 リリスは、上品な飴色のラウンドに縁取られた深緑色の三人掛けカウチの座面手前にするりと近付くと、その、無機質な暗い光沢で曲線を浮かび上がらせる肘掛に、手にしていたボルドー色のコートを無造作に引っかけた。 ぱさり、と。 コートの襟元と袖周りは毛足の長い黒いフェイクファーで飾られていて、それだけが逆に、薄暗がりに輪郭の滲んだ曖昧な光景の中、際立って、漆黒。黄昏色の陽光、暗色の衣装。まさしく誰そ彼と呟きを漏らしそうな、世界の終りみたいな風景の中、リリスの青白く固い表情とその漆黒だけが、際立って。 だらしないのではないがどこか怠惰を思わせる、着崩した開襟シャツは、極濃い沈んだ玉虫色。ベルトのないスラックスはノータックの細身で、黒に近い灰色で、結局、やはりすべての境界は曖昧だった。 リリスは、カウチの表面に流れたロングコートのフェイクファーが震えるように揺れるのに目線もくれず、三人掛けの中央辺りに、疲れたようにぽとりと腰を落とした。 俯いて、瞬きもせず。 呼吸さえ厭うような息苦しさの中、ふと、リリスが顔を上げる。 真っ直ぐに前を見て。 そこに「誰」かが居るかのように。 緊張に蒼ざめた面で。 やや、顎を上げる様な位置を。 真っ直ぐに。 刹那。 戸惑うように茫洋としていた視線がひたりと正面に据わり、緑がかった琥珀に力が戻る。 一呼吸。 しかしその「力」は受け止める「誰」かに届かなかったのか、いなされたのか、また刹那で漲った気概を急激に霧散させ、寂しげに、少しだけ下がった。 伝えようとしても届かない。 もどかしさはない。 諦めでもない。 それは酷く複雑な表情で、本当に、本当に複雑過ぎて、リリスの胸の内に渦巻く感情は「誰」にも伝わらない。 緊張感は、消えない。 不意にリリスは、それまで固く強張っていた肩の力を抜き、ゆっくりとカウチの背凭れに身体を預けた。 引き結ばれた唇が、微かに、震える。 消え入りそうに。
「僕ばっかりが、 好きで、 好きで、 しょうがないみたいだ」
呟きは、吐息に少しだけ混ぜ込まれた色のように掴み所なく、室内を締める暗がりに吸われて霧散する。 ふた呼吸。 リリスが、下げていた視線を更に左に下げた。
「僕、ばっかり」
浅く吸い込んだ息を浅く吐きながら、そう漏らした、直後。 リリスは瞬きする。 ゆっくりと、大きく息を吸い。 下げていた滲んだ視線を緩慢に、おどおどと上げて正面に据えながら、まるでその視線に引き上げられるかのように顎を動かし、顔を上げる。 真っ直ぐに、前を。 ひと呼吸。 微かに唇が動き。 ひと呼吸。 ふ、と。
「―――――しょうがない、か」
言って、呟いて、囁いて、リリスは流れる様な動作でもう一度だけ少し俯き、先よりもはっきりした動作でカウチから立ち上がると、座面に裾を流したロングコートもそのままに、その場から立ち去る。 振り切るように、ではない。 もしかしたら、極々判り辛くも意気揚々とした足取りで、と言っていいかもしれない。その変化は本当に少しで、うっかり見逃しそうなのだけれど。 俯いた瞬間、その口元に微かに浮かんだ脆い笑みを目にしていなければ、判らないのだけれど。 その小さな箱の中からリリスが消えて、静寂が戻る。 音楽は、ない。
「――――――しょうがない、か…」
静寂。 音楽は、ない。
静寂。 リリスが画面から消えて徐々に周囲に喧騒が戻るのを、雑踏の中に佇んだままベッカーはぼんやり感じた。暗転したモニターにまたリリスが登場するまで、暫く、オープンしたてのショップに詰めかけた買い物客は、思い思いの商品を手に取り笑い合いながら買い物に精を出すのだろう。 日常の中に入り込んだ、寂寥。 身につまされる様な、息苦しさ。 その映像の意味は何なのか。 波打つような静寂と喧騒を交互に身に受けながら、ベッカーは一度俯きくすんだ金髪を掻き雑ぜて、不意に踵を返す。 正面に顔を向ければ、街は明るく人々は笑い、語らい、時に暗い表情で足元に視線を据えたまま通りを行き過ぎている。その波に揉まれ、流されながらも胸に迫るものに戸惑う。 見ているものは見えているだけで頭に入らず、ただゆらゆらと漂いながら、ベッカーはハーフコートのポケットに突っこんでいた手を握り締めた。 なんてひどい気分だ。あの詐欺師めどうしてくれようと思う反面、湧き上がってくる忍び笑いを押さえ付けるのに躍起になっている自分が滑稽で、ベッカーは慌てて視線を下げた。 「しょうがない、ね」 つい呟いてしまったベッカーが、頬を引き締める。 しょうがない、しょうがない。ああ、どうしようか。そう、しょうがないんだ。しょうがない。これはもう、どうしようもなく、全てが全て。 「やられたなぁ」 ふと視線を上げて天蓋を見上げ、見えているのに認識出来ない上級庭園を思って、ベッカーはポケットから取り出した両手で口元を覆った。やばいだろ、オレ、不審者じゃねぇ? と思ったが、もう、それこそ「しょうがない」。許されるならここで人目も憚らずわーっと叫んで走り出したいくらいの落ち着かなさに、次にあの脚本家の顔を見たらまず思い付く限りの悪態を吐いてやろうと思う。 「しょうがない」なんて一言で片付けられるような過去なんて無かったと思いたい。しかし、顧みればどれもこれも「しょうがない」という言い訳で解決してしまう。 簡単に割り切れるとも、思わない。 しかし。 両親が自分に関心の無かった事も、過去に妻であった人が自分に好意を寄せてくれなかった事も、何か行動を起こす度それが裏目に出た事も、この世が自分の創る世界でない以上、誰かの思惑と行動が自分の希望に沿ってくれないのだから、そう。 しょうがないじゃないか。 諦めではない。投げやりでもない。逃げでもないし、無抵抗の甘受でもない。 前向きな「許し」を含んだ、「しょうがない」。 あの短い時間で、リリスは自分を「許し」た。自分だけが「好き」で、でも、自分が「好き」なのだから、「しょうがない」。自分は自分で、それ以外は「他人」で、だったら、思い通りにならなくても「しょうがない」。 どうしようも、ないのだ。 「あー…」 足早に雑踏を潜り抜けながら、ベッカーは意味不明の唸り声を上げた。まさか叫ぶわけにはいかないので、小さな声だったが。 全ての意味を込めて。 「良くも悪くも、しょうがない、んだろうよ。なぁ、脚本家の先生」 さて、どうやってあのシナリオライターの鼻を明かしてやろうかと、ベッカーは思いっ切り本気でありとあらゆる状況のシミュレーションを脳内に展開しその対処法を弾き出し、戦闘中に新しいプログラムを組んで敵電脳をハッキングする以上の全力を出して演算しまくった。 しょうがないんですよねああしょうがないんだなそうしょうがないんだ! くらいの、もう、やけくそで。 どんなにどんなにどんなに自分が罪悪感を持っても責任を取っても悩んでも苦しんでも、しょうがないものは、しょうがない。どうしようもない。 「そんなもん、オレの責任じゃねぇって?」 いいや。 一人じゃないけれど、一人っきりだ。 「…オレの関わったモンがオレだけのせいだなんて、自惚れんなってトコかね」 いっとき俯いて苦笑を漏らす。背中を押す、なんて例えはあるが、これは酷く乱暴で、気を抜いていたら背中を力任せに蹴っ飛ばされた気分だ。 どうにも出来なかった過去は、自分の手で粉砕してしまった。判っていた隠し事は所詮、こちらの思惑などそ知らぬ顔で物事を悪い方へと誘い、破綻して終わった。 駆ける勢いで上級庭園へ向かうエレベーターを目指しながら、ベッカーはただひたすら考え続ける。 ただひたすら、クレイ・アルマンドの鼻を明かす事だけを、考え続けた。
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