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番外編-10- からくりキングと嘘つきピエロ

   
         
(15)

     

さすがに泣きはしなかったが痛々しく打ちひしがれたドイルを自室に誘導したクレイは、質素な部屋のソファに俯いたきりの執事を座らせ、意味もなく、室内をぐるりと見回した。

どこで何があったのか。

どうしてセイルはあそこまで怒っていたのか。

事情を訊こうにも気軽に会話する空気でない事だけは確かで、結局、ドイルが何か話してくれるのを待つ他なかった。

そんな、ともすれば当惑気味のクレイの視線がふと停まったのは、そう広くない室内に備え付けられた飾り棚の目の高さに置かれたフォトフレーム。いつの物なのか、見知った壮年と見知った青年たちが笑顔で寄り添った、一枚の写真の上だった。

中央に映り薄く微笑んでいるのは、ユアソン・ドリー。結局卒業を待たずに飛び出してしまった大学院の教授で、ドイルにとっては恩師のはずだ。

そのドリー教授の傍らには、明るい黄色のワンピースに白いエプロンドレスを付けた少女が満面の笑みを浮かべて写っている。その二人を囲んでいるのは、数人の青年たちで、クレイの記憶に間違いがないのなら、これは…ドイルがまだ在籍していた頃の同期生だ。

その一番端に、少しはにかんだ笑みを浮かべて写っているのは、今よりずっと若いドイル。

クレイの目の前から掻き消えてしまった、あの頃の、執事の姿。

思い出。

急に動きを止めてしまったクレイを訝しんだのか、違うのか、それまで俯いたきりだったドイルがのろりと顔を上げる。それにも気付かない男の視線を追って飾り棚に視線を流し、途端、執事は弾かれたように立ち上がると、佇む脚本家を押し退けてフォトフレームに飛びつくなり、それを力任せに床に叩きつけたではないか。

ばりん! と表面がひび割れ、振り撒かれていた笑顔に亀裂が走る。ドイルはそれを憎々しげに睨むなり、力任せに足裏を叩きつけて踏みにじった。

「ちょ!」

砕けたガラス片を狂ったように踏み付け続けるという奇行に一瞬面食らったものの、クレイは慌ててドイルに駆け寄ると、彼を羽交い絞めにしてその場から引き剥がした。

「離せ!」

「落ち着け! とりあえず、落ち着けって!」

「煩い、煩い、煩いっ! 誰も、何も、知らないくせに! ぼくがどんな思いで学院を去らなければならなかったのか、どんな思いでこの屋敷に来たのか、どんな思いでここに居続けたのか、そうしなければならなかったのか、誰も知らないくせにっ!」

「それは、確かに、誰にも判らないかもしらんが!」

「だったら黙っていろ、ぼくの事など放って置け! のうのうと生きて来たくせに! 明るい表舞台で脚光を浴びながら、なんの不自由もなく生きて来たくせに! 好きな事をしてちゃらちゃらと遊び歩いて、ぬくぬくと、生きているくせに!」

ずるずるとソファまで後退した所で、ドイルは急に振り返りクレイを突き飛ばした。

良い大人が子供みたいに喚くのを、床に尻もちを突いたままぽかんと見上げ、暫し。クレイはふと苦笑を漏らし、そのまま胡坐をかいて座り込んだ。

「三年で大学院は辞めたよ。好きな事したいというか、したい事を探したいって甘ちゃんな理由で。で、おれはめでたく勘当されて、着の身着のまま、無一文で家を放り出された」

恥ずかしげに頬を掻いたクレイを、今度はドイルがぽかんと見つめる。

「苦労したかったワケじゃないけど、食うや食わずで朝から晩まで働いてさ。それまで遊んで暮らしてた二十歳かそこらのガキだったもんだからアルバイトも失敗の連続で、屑とかカスとかさんざん罵られて、誰かのヒモでもやりゃいいんじゃないかとか言われながら、でも、おれは絶対に腐ったりしないって歯ぁ食いしばって…。

それが、おれの選んだ道なんだって必死に言い聞かせて」

クレイは床に座り込んだまま、呆然とするドイルを見上げた。

「短編小説が入賞したのはどん底に貧乏な頃で、おれの部屋には通信端末と少しの着替えとベッドしかなかったよ。仕事もなくて、もしかしたら一週間後に干からびた死体で発見されるのかもなと思ったら、怖くなって、偶然見つけた短編小説の作品募集に、寝ないで書いた小説を応募した。入賞したかったんじゃない。忘れたくなかったから、おれはあれを書いた」

「…学者に、なるんじゃなかったのか」

そもそもクレイの生家は医療院に研究室を持つ研究者一家で、彼もその一員になるべく遺伝子研究を専行していたはずだ。

「ならなかったから、今ここに居るんでしょ」

大仰に、芝居がかった仕草で肩を竦めたクレイは、ドイルに突き飛ばされてずれてしまった眼鏡を直すと、ふっと息を吐いた。

「結局、おれが何をしたかったのか、何を考えてたのかなんて、誰にも判らんでしょ。おれにも判らんしね。ただ、まぁ、少なくとも、お前が今ここに居るのは、お前の意志なんじゃないの? おれと、同じで」

誰かに、命令されたんじゃないならさ。

言われて、瞬間、ドイルは両手で顔を覆った。

命令などされていない。ここに居なければならないと思ったのも、あの手の掛かる主人から離れないと思ったのも、どんな理由があるにせよ、確かに、自分で決めた事だった。

ああ、なんて自分は愚かなんだとドイルは痛む胸の内で悲痛な叫びを上げる。全部全部、自分で決めた事なのに。

結局、自分が、あの主人を苦しめた。

誰よりも愛される事に飢えていて、なのに、誰にも愛されなかった、あの、主人に全てを諦めさせたのは。

「…多分、ぼくだった」

     

寒々しく、よそよそしく、どんな些細な「愛」も存在しない家だった。

そこはただの「箱」で、いつもひっそりと静まり返っていた。

夫は妻を愛しておらず、父は息子を愛していなかった。

妻は夫を愛しておらず、母は息子を愛していなかった。

子供が子供らしく両親に愛されたいと願って努力しても、結局彼らは外向きに、背中合わせに「居た」だけで、その真ん中に在った息子に目もくれなかった。

だからある時を境に、子も愛されようともがく事を止めてしまった。

その「子」に、誰が手を差し伸べたのか。

寂しい話ではあるだろうが、「子」は愛される努力を放棄した事で心穏やかになった。打って戻らない響きを涙しながら待つ必要もなく、癇癪を起して泣き喚き疲れ切って眠る事もない。

そんな時「子」の前に突如現れた「青年」は、捨てざるを得なかったそれまでの生活への未練を断ち切るように、自棄気味に、抑揚なく平穏無事を願って他者との関わりを頑なに拒否していた「子」の両肩を鷲掴み、無理矢理自分の方を向けて、まるでドラマの中の熱血教師か何かみたいに、そこに閉じ籠るのは止めろ世界はもっと喜びと愛に満ち満ちていて美しい! と訴えた。

だから。

やはり「子」はまだ子供で、まだ心のどこかで愛されてみたいと思っていたから、少しずつ、少しずつ、恐る恐る周囲を見回し、優しさと愛を打ち鳴らせばいつか戻るだろう響きの存在を羨み、熱望し、「青年」に向き合った。

いつか妻になると約束された少女は、もしかしたら、与えた分だけ愛を…せめて、もっと稚拙で初々しい「好意」を、差し出してくれるのではないか。

それは「青年」の語る世界の「美しい」部分から生まれた、幻想。

だが、しかし。

始めて出会った瞬間に、「少女」が愛を、好意を向けた先は。

     

ベッカーではなく、ドイルの方だった。

     

     

天蓋の向こうは快晴。

ぴか、ぴか、と瞬く星は巨大な月の放つ青白い光に晒されて息を潜め、その巨大な月がガラス越しに室内を炙る。

冷たい光に浮かび上がるのは。

一人は、まるで息をするのも忘れたかのように、静かにソファの座面に横たわりくすんだ金髪を散らし、顔の上に腕を載せたままピクリとも動かない。

一人は、まるで身に染みる寒さを受け入れるかのように薄い肩を丸めて膝を抱え、琥珀色の双眸で中空の一点を見据えたままピクリとも動かない。

一人は、まるで今までの全てを否定するように懺悔するように項垂れて、一人掛けの肘掛椅子に座り込みピクリとも動かない。

一人は、まるで何かに憑りつかれたかのように一心不乱にがむしゃらに、ライティングビューロの上に広げた端末を叩き文字を連ねる。

誰もが背中合わせで身動きが取れないのならば。

誰もがその心の内を誰にも報せず知られずもがき苦しむというのならば。

やってやろうじゃないか! と、一人黙々と作業する男…クレイ・アルマンドは洒落たシルバーフレームの眼鏡に映り込んだ、流れる文字と乱雑に手書きされたコンテを瞬きも忘れて睨み、無言で吠える。

誰にも報せず知られずそれが元凶だというのなら、見せてやろうじゃないか。

こっ恥ずかしくも、「愛」なんてものを!

     

   
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