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番外編-10- からくりキングと嘘つきピエロ |
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ソレ。佇む薄い肢体の右に位置するベッカーにも、左に位置するセイルにもまるで無関心を装っていたドールは、間違いなく半壊した家主の部屋にあったものだった。 完成間近だったドールは殆どのパーツを組み上げられ、関節部分も繋がれていたものの、その接合部分の強度は極めて低い。だとしたらここは無理に自分が手を下す必要もないだろうと、廊下に飛び出して前方で対峙するセイルと人形を視界に収めた時、ベッカーはほっと安堵の息を吐いたのだ。 青年は、ドールの数倍は固いだろう機械式を素手で破壊した男の系譜に繋がる者で、だから二、三発打撃を入れてくれれば、あの薄いボディシェルなど一溜りもなく砕かれて、動かせるものも動かせなくなり、つまらない襲撃事件はお終いだと高を括ったベッカーの予想を裏切ったのは、なぜなのか、急激に勢いを失くし反撃を「止めて」しまったセイルの行動の方だった。 縺れ合うドールとセイルに走り寄りながらおかしいと感じ、考えるよりも先にバックボーンで展開したでたらめの陣を青年の頭上に描き出した瞬間、からくり人形を天井からつるしていたフレームの残骸が過剰エネルギーに接触して消滅する。 その、人智を超えた現象にびくりと肩を跳ね上げたセイルが呆然とする中、それまでそ知らぬふりを決め込んでいたドールが、錆び付いたドアノブを無理矢理捻るような、ゆっくりと軋んだ動きでベッカーを「見た」。 「主演放棄のムービースターは退場。お前の相手は、オレだよ」 睨み合う恰好になったドールから目を逸らさないベッカーが面倒そうに腕を上げて、力を失ってしまったかのように棒立ちのセイルに、手で廊下の端まで行けと示す。 それでセイルから興味を失ったのか、わざとそう振る舞っているのかは知らないが、ベッカーは玉虫色に似た金色の瞳をゆるりと動かして、爪先を自身に向けて来たドールに薄い笑みを見せる。 「いやいや、まさか「お前」と喧嘩するとは、意外過ぎてびっくりだわ、オレも」 言いながらベッカーは、無駄とも思える複数の、意味のない小さ目の陣を天井付近や中空に描き出した。それで何をしようというのか、当然セイルには判らず…。
「…まずは動いてるこいつをどうにかするつもりか。ふん、馬鹿なヤツ」
ドール…からくり人形には、動きを制御するための操作系は、ない。だとしたら、これは不可視の「手」に似たもので動かされているのだろうとベッカーは予想する。大きな人形遊びかと思ってちょっと笑いそうになったが、突如床に手を着いたドールがまるで獣のような動きで跳躍し、天井に貼り付いたのを目にして、余計な事を考えるのはやめたが。 ベッカーが動く必要はない。もしドールが飛び掛かって来ようものなら適当なプログラムで相手をあしらう、または、過剰エネルギーを溜め込んだ陣の一つもあれば、粉砕するのは簡単だ。 ところが、男の目的の為には、早々とドールに退場されても困るのだが。 それまで四肢を駆使して天井に食い付いていたドールが、不意に両腕を伸ばして背中から落下しようとする。さて、なんでまたそんな無駄な動きを、と眉を寄せたベッカーが落下地点に視線を戻せば、そこにはまだ、セイルが呆然と立ち尽くしているではないか。 舌打ちするよりも先に邪魔な陣を全て吹き飛ばしたベッカーが、絨毯を蹴って飛び出す。ドールの自然落下よりも早く青年の元に辿り着けないとみるや、男は迷わず頭上にエアード系の魔法を放ち、細った指先を伸ばしてセイルに掴み掛ろうとした人形を再度天井まで吹き飛ばした。 瞬間的に圧縮した空気を解放する事で起こった小爆発に押し戻されたドールが背中から天井に激突し、どこかの部品をばらりと撒き散らしながら仰け反って、今度こそ制御を失い床に叩きつけられようとする。その、ぎりぎり下を擦り抜けたベッカーは、なぜなのか悲鳴の形に口を開けたセイルの胴体に腕を回して掻っ攫い、廊下の突き当りまで一気に距離を空けた。 「何してる! 邪魔だ、どいてろ!」 ほとんど突き飛ばすようにしてセイルの身体を廊下の壁に押し付けたベッカーは、床を這いつくばるドールから視線を逸らさず、即座に踵を返そうとした。 「ダメっ!」 セイルの胸倉を掴んでいたベッカーの手が離れる寸前、青年は悲鳴のように鋭く叫んで、逆に男の腕とシャツの胴体に指を喰い込ませた。 行かないでと。 行っては、ダメと。 その必死さに思わず振り向いたベッカーの玉虫色を見返したセイルが、まるで今にも泣き出しそうに眉をぎゅっと寄せ、何度も首を横に振る。 男は、困惑した。 「何言って…」 「だって、あれは、あなたの物なんでしょう!」 目を逸らさずに言い募る青年の意図が、判らない。 ベッカーは目を離したドールが全身のバネを使って即座に起き上がるのを軋む発条の小さな音で感じ、咄嗟にセイルを抱きかかえて床を転がった。刹那後には、さっきまでセイルの背にしていた壁に生き残っていたもう一方のフレームが突き刺さり、すぐに引き戻される。 ぐずぐずと訳の分からない言い争いをしている暇ではない。ハルヴァイトの、ミナミの言う通りならあのドールを操作しているのは明らかな悪意を向けて来る「敵」であり、自分たちに不都合な「記憶」を持ったセイルを害そうとしている。そしてベッカーの「仕事」は、その敵から青年の身を護る事なのだ。 「口喧嘩がご希望ならちょっと待て。後で、幾らでも付き合ってやる」 廊下の隅に追いやられたベッカーは、青年と視線も合わせず溜め息混じりにそう吐き付け身を起こした。絨毯に染みついたセイルの淡い色のシャツの裾だけを視界に収めて、後は、何も、見ない。 ベッカーにとって、今ここで驚異になっているドールを粉砕するのは、簡単だ。高圧的に、絶対的有利を印象付けて相手を怯ませるために魔導機を出す。または高度なプログラムを立ち上げて彼我の差を見せつけるなど、造作もない。しかし、出来ればもう少し時間が欲しい。 普段覇気もやる気も見せないながら、やはりベッカーも魔導師だった。だから、その少々おイタが過ぎる不可視の敵を、「黙って帰すつもり」はない。 さて、っと。 ベッカーは内心で一つ息を吐き、倒れたきりのセイルを完全に放置して、またもや瞬く間に立ち上がったドールに向き直った。 相手のスペックが判らないとしても、一つだけ確実な事がある。とその時、両腕を振り上げて絡み付いたワイヤーをこれ見よがしに振り回すドールを緩い表情で見返しながら、ベッカーは思った。話に聞いた機械式、または、臨界の使者である魔導機の代わりとして引っ張り出されたドールの操作師は、屋敷の中ないし極近くに居なければならない。そう、遠隔操作するにしても、対象と操作師の距離が離れ過ぎる事は絶対にないのだから。 左右の腕を交互に振って、それだけでも十分に凶器と成り得るワイヤーの一撃を仕掛けて来るのを、ベッカーは極めて冷静に、自分とセイルの前面に展開した空気の壁でことごとく跳ね返した。見えない壁に遮られてあらぬ方向に弾かれる遠距離武器の軌道がごく自然である…つまり、途中で意図的に操作されない…事に、男は薄笑みを零す。 相手はまだ、自分の正体を悟られたくないらしい。 ドールを動かす延長上でワイヤーにも微細な動きを付加するには、それなりのスペックが必要だろう。しかし、向こうはそれをしない。と、いう事は、だ。 バックボーンの容量は、そう多くない。 これがさすがにハルヴァイト級…とまでは行かずとも、比較的バックボーンの通信容量が大きい攻撃系の魔道師なら、手足胴体ワイヤーの先端まで微細に操作するだろう。だとしたら、相手は制御系か。 ベッカーはドールから視線を外さないまま、様々な可能性を考慮しつつ視線をしんと静まり返った俳優たちの控え室に流した。今の状況でも向こうで騒ぎが起こっていないとすれば、「敵」はまだ正体を現していないのだろう。 つまり、相手はなりふり構わず電脳陣を出していない。さすがに向こうを人質に取られてはどうしようもないから、それはそれで好都合だった。 「―――だからって、楽なお仕事ってワケじゃねぇんだろうけどもさ」 壁際に座り込んだセイルの位置をちらりと流した視線で確かめたベッカーは、大きく一歩、青年から離れた。ビートルとスカラベを出すつもりはさらさらないが、少々込み入ったプログラムを稼働させるためのダミーとして、あえて陣の描き出しスペースが欲しい。 背後のムービースターを護るためなのか、ベッカーは目立った攻撃を仕掛けようとはせず、その場所から動きもしなかった。 それが、一歩、動いて。 「ダメ!!」 咄嗟に跳ね起きたセイルは向けられたベッカーの背中に噛り付き、ただでさえよれたシャツを鷲掴みにすると、ぎょっとして振り返った男に再度首を横に振って見せた。 動くのと同時に脳内に複数のプログラムを呼び出していたベッカーは、青年が背中に突っ込んで来た衝撃で、幾つかの命令文を崩壊させてしまった。 それに、イラつく。 「邪魔だ!」 「でも、ダメ!」 背中にしがみ付くセイルを振り払おうとしても、青年は器用にも男の腕に肘を当ててその動きを受け流す。こんな些細な所でスレイサー一族の面倒さに直面したベッカーは、最早やけくそ気味に放った空気の塊をドールの胴体に叩きつけた。 「やめっ!!!」 「うるせぇ!」 蒼ざめて悲鳴を上げたセイルの腕を掴んだベッカーが、思わず怒鳴り返す。 「オレぁ今最っ高に忙しいんだよ! お前にとって何がダメなのかなんて、どうでもい…」 「だってあれはあなたの物じゃないか! それを傷付けるなんて、僕はイヤだ!」 どこかの部品なのか、はたまたボディシェルの破片かを廊下に撒き散らしたドールが、背中から床に激突し、バウンドする。その時、踏み荒らされたドアの残骸に生き残っていたフレームの名残が引っ掛かり、不自然に腕が捻じれて、また、肘の辺りのパーツがそこここにばら撒かれた。 確かに、それ、は、ベッカーのものかもしれないが。 「馬鹿か、君は。あれは君の命を狙ってる。壊すか、操作師を停めるかするまで、ずっと、狙い続けるぜ」 だから、それを。
「勝手に揉めてろ!」
まるで両肩を不可視の手で掴まれ持ち上げられるかのように、不気味に、ドールが音もなく立ち上がる。それと同時、最早ワイヤーは邪魔と判断したのか、鉄製の飛び道具は指先を巻き込んで爆散し、剥き出しの内部機構が昏い鈍色の光を放った。 その両腕を突き出して突進してくる、無表情なドール。 纏わり着いて離れないセイルを庇ったままでは、避ける事もままならない。 ベッカーは咄嗟に青年を抱き込み、使える容量を限界まで使って自分の身体の表面にカウンター系の魔法を展開した。 直後、脇腹付近に呼吸も停まるような衝撃を受けたがセイルを抱き締めたベッカーはびくともせず、逆に、一旦突き出していた両腕を身体に引き寄せて踏み込みながら尖った指先を押し込むように突っ込んで来たドールの方が、派手に水平に押し戻されて後頭部から床に叩きつけられた。 一瞬息を詰めたベッカーは、ドールが床に転がってすぐ脇腹を押さえて激しく咳き込んだ。いやもうなんかこんな無茶するもんじゃねぇな。と悪態の一つも吐いてやりたいが、接点ゼロ、つまりはこちらのダメージを正確に返す種類の魔法を無謀にも人体に対して使ったせいで、悪態どころか呼吸もままならない。 アンタが嫌なんだかなんだか知らんけども、そのまま駄々捏ねてるとオレがどうにかなると言ってやりたい。まだ暫く言えそうもないが。 次のドールの動きを警戒しつつ乱れた呼吸を整える間、床に四肢を伸ばして仰向けに倒れたそれは、ぴくりとも動かない。動けないのか? とも一瞬思ったが、そこここにばら撒かれたパーツの数を見るにつけ、稼働部位が完全に壊れている様子もないから…。 相手のスペック問題か。バックボーンだけでアレを動かしているとしたら、操作端末に対する衝撃でプログラムにエラーが返り、再接続に時間が掛かるのだろう。 だからこの一瞬はベッカーにとって好都合だった。しがみ付いて来るセイルの腕を逆に掴んで小さく、しかし鋭くじっとしてろと言い放った男は、瞬きも辞めてドールを睨み据えたまま、脳内で索敵やら通信やらハッキングやら…その他諸々、「今必要」と思われるプログラムを高速稼働させた。 視界を侵食する、複雑な色合いの光。光の作る数字。ワイヤーフレーム。めまぐるしく奔る数字の羅列を丁寧に、しかし高速で紐解き「目当て」の文字列を探り当てては、密やかに「爆弾」を潜り込ませる。 倒れていたドールがまたもやぎくしゃくと起き上がるのをどこか夢見るように眺めながら、ベッカーは無意識にこめかみを指先で叩いた。 頭痛。 原因の明らかなそれにどこか清々しい苦笑を漏らしつつ、男はダミーのプログラムを立ち上げてはドールのボディに絡み付く文字列に接触させ、わざと崩壊させた。作ってはバラし、また同じように作っては、またバラし。その作業はまるで、今ここでベッカーとセイルに襲い掛かろうとしているドールを意味もなく弄り回していた時と似ている。 どくどくと、心音と同様に脈打つこめかみ辺りが煩くなって、ベッカーは眉間に皺を寄せ何度も頭を振った。頭痛。判っている。この頭痛の原因は、不完全なプログラムの構築と崩壊が脳に返すバックファイヤだ。 ベッカーの腕に縋るセイルの指先に微か力が篭り、男は咄嗟にそれを振り払って青年の後頭部に手を置くと、抵抗する暇も与えず力任せに自分の胸元に引き寄せた。そのままドールから…というよりも、それを含む全景からか…視線を外す事無く、乱れた亜麻色の髪を鼻先で掬って小さな耳を探り当て、緊張でなのか何なのかすっかり冷え切った薄い耳朶に唇を掠らせる。 「うごくな」 低く聞き取り難い、吐息のような囁き。 殆ど抱き締める格好になった青年の身体は、さっき触れたドールの薄い肢体と違って厚みがあり、暖かかった。それが何だか可笑しい。 マズい。ベッカーは込み上げてくる忍び笑いを喉元で捻じ伏せつつ、内心うんざりと溜め息を吐いた。 ドールが動く。 所々シェルの剥がれたグロテスクな人形が、全身を軋ませて二度、大きくベッカーたちから飛び離れて距離を取った。 その、刹那。 ドールの周囲に張った索敵エリアからベッカーの物ではない信号反応が返り、男は一度瞬きした。流れる他人のプログラムを高速で読み取りながら対象に知られずに割り込み、常駐プログラムを紛れ込ませて…。 強制切断…つまりは端末側のシステムダウンを起こさせる必要があった。 「あいつ、一発ぶん殴ってくれねぇ?」 ふふ、と自分でも何が可笑しいのか判らないまま小さな笑いを漏らし、ベッカーはセイルの耳たぶに噛み付いてしまいそうな距離でまたも囁いた。途端、それまで硬直していた青年の肩がぴくりと震える。 「壊して構わんからさ」 「い…ヤ…だ」 息を飲むような答えが返り、ベッカーは思わず苦笑した。何がそんなに嫌なのか、この強情は。と思う。命の危険? らしきものに晒されていながら、なぜなのか、青年はあからさまな悪意を向けて来る「敵」に抵抗する事を強固に拒む。 「あんなもん、ただの無機物でしょ。ばらして、壊して、それで何も問題なんか…」 「でも、あれは…」 胸元にぽろりと零れた力ない呟き。 「―――でも、あれは、あなたの「時間」だった筈です!」 距離を取っていたドールが不穏な動きを見せ、ベッカーが口元に薄笑いを張り付けたまま眉間に皺を寄せた途端、セイルは大きく息を吸い込んで男の胸倉を掴むと、きっぱり顔を上げて力強く言い放った。 「あなたが今日までに積み重ねてきた時間が、あの人形でしょう? だったらどうして、そんな風に簡単に壊すなんて言うの! ぼくは!」 言われて、引き寄せられて、ベッカーは珍しくも玉虫色の双眸を見開きセイルを凝視した。 時間。 「どんな理由があるにせよ、ぼくのためにあなたの時間を壊すなんて出来ないし、して欲しくもない!」 必死の形相で男を見上げる青年の顔を瞬き一度の間だけみつめ、ふ、とベッカーは目を細めた。 「―――そうか、時間ね。そうかもしれないな。だったら…」
邪魔者は全部纏めて、消えろ!!!!!
無駄と無為と後悔と罪悪と失望と諦念。 「過去なんてさぁ、美しくも懐かしくもないでしょ」 縺れ合う二人に向き直ったドールの、固く握って突き出した拳の周囲に圧縮されたエネルギーの層が集まり始めたのを認めて、ベッカーは咄嗟に見上げて来るセイルの頬を両の掌で包み、固く引き結ばれた冷たい唇にキスを浴びせた。 「??????????!!!!!!!!!!!!」 薄い唇が触れ、ぬめった暖かい舌がセイルの冷え切った唇を舐める。何が、起こっているのか。一瞬頭を真っ白にした青年はベッカーの胸倉を掴んでいた手を思わず緩め、男はまんまとその拘束から逃れた。 「じっとしてろ。下手すりゃ本気で死ぬぞ」 高圧のエネルギーが起こす可聴領域を超えた不快な高音に顔を顰めながら、呆然とするセイルをその場に放り出して数歩前進したベッカーは、先からドールの周囲に展開していたプログラムを維持したまま、迷わず足元に臨界接触陣を高速で描いた。 幅の広い筆で一気に描かれたような、不可解な文様。それが床を這い、刹那で上空へと立ち上がり、今日は鮮やかな色の光を放射状に撒き散らす。 黄色、緑、黄緑、金色…艶やかで眩い朱、暗い蒼。透き通る光の中に佇む男の痩せた背中を凝視したまま、セイルは息を飲んだ。 「エンター」 呟いて、瞬間。 最早限界まで圧縮されたエネルギーの層を腕に纏ったドールがひゅっと軽い足取りで突進する眼前に二つの魔方陣がひらりと描かれ、描かれるなりそれらを突き破って二つの魔道機が臨界から飛来した。 決して小さくはない二つの内、楕円形の甲殻を広げてプラズマの残滓を宙に刷くのは、ずんぐりと愚鈍な印象を持つ、縦に細長い甲虫。それは器用にも狭い廊下の天所付近できりもみしながら移動し、ドールの背後上空に位置を取る。 残る一機は、ががん! と重い音を響かせて床に着地すると、長い、幾節にも区切られた触角のようなものを頭部から生やし、蠢かせいる。 それらは、黄色、緑、黄緑、金色、艶やかで眩い朱、暗い蒼。毒々しく重く鈍い金属光沢で全身を鎧う。 ドールを挟み込むように出現した二機が「ビートル変異・スカラベ」と呼ばれる事など知るべくもなく、セイルは限界まで目を見開いてそれらと、戸惑うようにスピードを落としながらもまだ肉薄しようとするドールを視界に収めていた。 何をするつもりなのか。 あの、動くものは何なのか。 ムービースター「リリス・ヘイワード」という幻惑を現実で生きる青年がこの異界の使者…幻想のような現実…を目にしたのは、実質、初めてだったのだ。 じっと床に蹲るスカラベの、そこだけ別の生き物のように忙しなく蠢く触角の先端が、踏み込んで邪魔な甲虫を蹴るように振り上げられた爪先に触れた。 触れた。と思った瞬間にスカラベは背のプラズマ翼を急速展開。次には鞭のようにしならせた触覚でドールの足首を絡め取り、胴体の横から生えた脚で床を蹴ると、ぶわりと上空へ跳んだ。 足元を掬われたドールが成す術もなく上体を反らして、仰向けになる。まるで何かを掴むように振り上げられた腕と、内部機構剥き出しの指先が空を切り、セイルはあっと小さく悲鳴を上げた。 垂直に跳ね飛んだビートルは、触覚で掴んだドールの華奢な体躯を軽々と放り上げ、わざと天井に叩きつけた。 固く軽い物がぐしゃりと潰れる不快な音。四肢を秩序なく蠢かせて悶える白い痩身。ぱらぱら、ばら、ばらと跳ね、飛び散ってその場にそぐわぬ軽快な金属音を立てて床に零れるのは、ドールから振り落とされた部品やシェルの残骸だろうか。 その、自らの手を掛けたからくり人形が粉々になろうとするのを、ベッカーは顔色ひとつ変えずにじっと見ている。どこかしら眠たげな玉虫色と、固く引き結ばれた薄い唇はいつもと同じ過ぎて、だからこそ、様々な色の輝き、その照り返しを受けた横顔は、天井でバウンドして宙に浮いたドールの表情のないマスケラよりも冷たく見えた。 額の左端と左目の窪み近くにうっすらとひび割れを作る、白いマスケラ。 広げたプラズマ翼を高速で震わせたスカラベは滞空したまま、触覚で掴んでいたドールの足首をぱっと解放した。それで当然重力に引かれたからくり人形は不恰好に手足を広げたまま、今度は背中から床に叩きつけられ、小さく跳ね上がった。 しかしすぐさま身を捻ったドールはうつ伏せの姿勢から瞬間的に腕を伸ばして跳ね起きると、対空する二機を無視して、佇むベッカーを睨んだ。 恨みもつらみも感じられない無表情を向けられて、男が小さく笑う。 「時間か…、過去、ね。だったら、「お前にも」、オレを憎む権利はあるんだろうよ…」 くだらない自分の拘りを押し付けられた、憐れなからくり人形には。 かしゃん、と軽い音をさせて身構えたドールが、掴み掛るように五指を広げてベッカーに突進しようと膝を撓める。 「―――でもオレは、「お前」を憐みもしないよ」
自分の、過去、など。
極短時間で組み立てて稼働実験もしない、つまりは不出来で拙いプログラムを強引に、…ドールの操作系らしき信号を辿って逆送し、臨界側の電脳に接触した所で、一か八か、急速稼働。相手にこちらの動きが読まれているのかどうかも判らないまま、ベッカーはプログラムのエンドラインにエンターを書き込んだ。
おれたちの邪魔する奴は消えろ。消えろ!
ドールの爪先が、床を蹴った。 瞬間、上空で待機していた「スカラベ」が広げたままだった甲殻を超高速で震わせ、そのずんぐりとした胴体の下に小さな火花を無数に散らす。 二機の間で交わされる、細かな眩い光の粒。 その時の光景を、セイルは一生忘れないだろう。 何が起こったのか、どうしてそうなったのかすら、ムービースターには判らなかったが。 ただ。 一歩踏み出したはずのからくり人形が。
ばしゃん。
綺麗に解けて、悲鳴も上げずに、炎も上げずに。 ただ、解けて。 壊れかけのシェル。無数の捻子。無数の発条。無数の索と。無数の骨格に。 ほどけて。 始まる前の、無垢な部品みたいに解体されて。 刹那で、床に、散らばって。 べたりと撒き散らかされた部品の山の頂上から、最早ただのひび割れたマスケラがころりと転がり落ちて歪な弧を描きながらゆっくりと走り、廊下のお終いで呆然と座り込んだセイルの膝に、ことん、と当たって。 倒れた。
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