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9.アザーワールド オペレーション | |||
(4'')
本丸を出て、自宅ではなく城に隣接した官舎へ向かい、待機名目でミナミを待っているヒュー・スレイサーを訪ねる。 「いや、うん。あのさ。別に驚かねぇけど、少し部屋は片付けた方がいいと思う」 「…忙しいんだよ、俺は。いつ呼び出しが来て登城するか判らない上に、ここのところ変則シフト続きで、部屋に戻っても寝る暇しかない」 意外にも、ヒュー・スレイサーの部屋はミナミに懐かしさを感じさせるほど、雑多に散らかっていた。 苦笑いしながらそう言ったヒューが、ドアを後ろ手に閉ざす。 「まぁ、暇があっても片付けるって行動を知らねぇひとと暮らしてると、気にはなんねぇけどな」 「…ガリュー?」 「うん。あのひと、玄関入りながら制服脱ぎ散らかして、部屋から持って来た本は手当たり次第床に置いて、出したものは出しっぱなし、あっちからこっちに持って来たのはその辺に置きっぱなし、で、邪魔になったら横にどける程度」 「そうは見えないな。もっと、神経質なのかと思ってた」 淡々と述べるミナミの横顔に苦笑いを向けてから、ヒューがフローターの運転席に乗り込む。 「だらしねぇんじゃねんだよな。ただ、「片付ける」ってのを知らないだけで」 「どう違うんだ? 俺には、同じに聞こえるが」 ふわりとした感覚に続いて、滑るようにフローターが動き出す。よく考えてみれば、個人の所有が限定されているこの移動手段をミナミが使うのは本当に何度目かで、その何度かは全て最近、ミナミがハルヴァイトのところに来てから経験したものだった。 流れていく風景を見るともなしに見ながら、ミナミは微かに眉を寄せる。 ひとりでは生きて行けないのに、誰かとの共同生活は長続きしない。定職にも就けない、人ごみもだめ、下手をすればまともに通りも歩けない。それで、逃げ込んでいい場所があって始めてなんとか生きていたミナミ・アイリーが、上級庭園を知ったのも、上級居住区に遊びに行くようになったのも、もっとダイレクトに、衛視、警備兵、貴族や王様とまで知り合いになったのも、………この一年で「ミナミ・アイリー」という、壊れかけの内情を押し込んだ綺麗な鋳型の青年そのものが大きく様変わりしたのも、全てがあの、数値と陽炎の「世界」をただ無関係に見つめるだけしか…しようとしなかった…鋼色の恋人のおかげだったのか…。 「………平面て、極端に情報量が少ねぇんだよ。だからあのひとは、広い場所だとか何も置かれてない場所だとかは、嫌がんだよな。だからって「嫌」って訳でもねぇし、「嫌い」って言う訳でもねぇけど、「落着かない」つってさ。あのひとのは、だらしねぇんじゃなくて、…………自分の回りに目印を置いて、それでやっと、「世界」ってのがどういう形をしててどういう色をしてるのか、「識別」してる感じ」 いつの間にか判ってしまった、ハルヴァイト・ガリューというひと。 だからミナミは気付いてしまう。 「臨界」とはつまり異次界であって、現実面でもある。 「さすがミナミと言うべきか…、そう言われても、俺にはさっぱり訳が判らない」 第八エリアまでの最短距離を進むフローター。 「それにしても、ミナミがそうやってガリューの話をするのは珍しいな」 「そうだっけ?」 微かに笑いを含んだミナミの確信的にとぼけた答えに、ヒューがちょっと意地の悪い笑みで切り返す。 「あぁ、そうだ。いつもお前は、ガリューの事をそんな風に「ちゃんと判ってる」と思われそうな話は、わざとみたいにしない。本人が目の前にいる時は特にな」 「俺は、あのひとの事なんて何も判ってねぇよ。ただ、そう思うだけ。そういう風に感じるだけ。それが当ってるかどうか、確かめる気もねぇし」 不思議と落ち着いた声に、ヒューは訝しそうな顔をミナミに向け、はっとした。 というか、思い切り狼狽えた。 「待て! 俺は何かとんでもなく都合の悪い事でも言ったか?!」 「………………ごめん、なんでもねぇ。俺もびっくりした…」 どうにも場違いな受け答えの後、ミナミは…………。 瞬きするたび膝の上に置いた手の甲にはらはらと落ちる水滴がなんなのか理解出来なくて、恐る恐る自分の顔に触り、指先に付いた透明な粒がつまり…とうの昔に枯れ果ててこの先死ぬまで再会しないだろうと信じていた物だったのに、ミナミ自身大いに狼狽えていたのだ。 長い睫に飾られたダークブルーの双眸から零れ落ちるのは、自分のためでなく誰かのための「感情」。どうにかして生きて行く事ばかりを考えていた頃、偶然と必然が噛み合って自分の「造られた」理由を知ってしまった時、それに、自分を「造り上げた」誰かの抱えた情欲と真相を思い出してしまった瞬間でさえ内側に溜まるばかりだったそれが、ほんの刹那、瞬き一回にも満たない瞬間、ミナミの抱えた「後悔」を包む恋人の横顔で呆気なく外側に溢れ出してしまう。 「……………俺は、卑怯だ」 呟いて、ついに両手で顔を覆い俯いてしまったミナミの華奢な肩に視線を置いていたヒューが、深く長い溜め息でいくつかの疑念に終止符を打つ。 訊かずにいようと思っていた、本当は。 昨日ミナミと議事堂で別れ、その足で資料室に行き調べた五年前の事件。それで幾つかの事を知り、幾つかの怒りとかやるせなさだとかを抱えてレジーナ・イエイガーに電信を入れた彼に、レジーナは「今すぐにでもミナミくんに会いたい」と言ったのだ。
「いいかい? ヒュー。何も訊かずにミナミくんを連れておいで。君は…残念だけど、本当の事を知らないんだ。だから、訊いてはだめなんだよ。ねぇ、ヒュー。…おかしいと思わないかい? 君は。「そういう」目にあったミナミくんが特務室詰めになったのには、何か………理由がある…」
訊くなと言われた。そのつもりだった。 「……………ミナミ…。お前、何をするつもりなんだ? レジーに会って…」 しかし、ミナミ・アイリーという綺麗な青年が、ファイランという閉鎖空間に虐げられながらも誰かの面影だけで流す涙をまだ持ち合わせているのなら、「知らない」という言い訳だけで見送っていいものか。 「何も無かった事に出来りゃいいけど、それ無理だから…。俺に出来るのは、ファイランの命を少しだけ長らえさせる事と、あのひとを………………」 傷つける事だけ。 と、ミナミは溜め息のように呟いた。
第八エリアに到着したのは、昼に近い時間だった。 ヒューは、ここには商業関係の工房区というのがあり、現在レジーナ・イエイガーは、ガラス工房のいくつか集った区画に住んでいる、とミナミに説明した。 警備軍の派出所にフローターを預け、少し歩く。王城エリア程混み合っている訳でもない大通りを胡乱に眺めるダークブルーの瞳が何を思っているのか、ヒューは極力考えないように勤めた。 ミナミが何をしようとしているのか、それを聞いて、口を衝いて出そうになったのは「やめろ」という言葉。しかしミナミはヒューがそれを吐き出すより先に、たった一言で彼を黙らせてしまったのだ。 行き交う人の間を誰ともぶつからず器用に歩く、ミナミ。毛先の跳ね上がった見事な金髪と、人形よりも整った綺麗な面差しに、ダークブルーの双眸。それが例えば「人為的」であれ、今ミナミの纏う危うげな気配は間違いなく「ミナミ・アイリー」の培って来たものであり、産まれ出てファイランの地をその瞳に捕えた瞬間から、ミナミは間違いなく「個人」であるべきだったはずなのに…。 「最後に一つだけ訊く。…陛下は、全てご存知なんだな?」 「エル・マイスター」と看板の出ている小さな工房を訪ねて応接室に通されてから、ヒューはミナミに背を向けたままそう呟き、ミナミはそれに、小さく「うん。知ってるよ」とだけ答えた。それでヒューが一度溜め息を吐き、黙って部屋を出て行く。 テーブルの上には質素な応接セットに不似合いの、華麗なガラスのオブジェ。なんとなく、こういう物造ってんだ、とぼんやり考えて、ミナミは小さく笑った。 テーブルに置かれたそれが何を模しているのか判らなかったが、自分と同じに見えたのだ、ミナミには。 いつか壊れるだろう脆いガラスの装飾。 それと同じに、すぐに壊すつもりで造られた、ミナミ。 意志があり、自我を持ち、違いは、それだけの事だった。 ふと手を伸ばし、それに触れてみようとして思いとどまり、やめる。 それは、ミナミと同じ。外界に触れたらきっと、後悔ばかりして壊れる瞬間に脅え、支度された「死」という消滅を恐れ、何も感じないと思いながら、また後悔する。 だから、そっとしておこう。 ミナミの事は、誰も放っておいてくれなかったけれど。 ややあって、急にドアが開け放たれた。 「………ミナミくん?」 掛けられた柔らかな声に答えて、ミナミが立ち上がる。 振り返り、開け放したドアの前に呆然と佇むひとに薄い笑みを向け、ミナミは…頭を下げた。 「………ごめんなさい…」 全ての、ミナミに関わる人に、「天使」を模して造り上げられた青年は頭を垂れる。 「本当に、ごめんなさい…」 今はそれしか、出来なかった…。
ミナミの記憶にあるレジーナ・イエイガーと、今目の前に居るレジーナの違いは、些細で劇的だった。 五年前は腰まで長かったブルネットの巻毛が耳の辺りで切り揃えられているのに視線を当てたミナミに、彼は、邪魔だからね、と困ったように笑って見せ、しきりに髪を掻き上げては居心地悪そうな顔をした。 「…少し、痩せた?」 「そうだね。君は、随分大きくなった」 「うん。……あれから五年も経ったし」 「じゃぁ、もうすぐ二十歳になるんだ」 その問いに、ミナミは答えなかった。 穏やかな笑みと静かな物言い。例えばスーシェのように女性的な美人ではないが、レジーナは不思議と中性的で、落ち着いていて、やっぱり…キレイなひとだった。 健やかな人…か。 聡明そうな広い額に、睫の長いはっきりした顔。しかし派手な感じではなく、あくまで控えめな印象。 五年前。何も知らなかった時にはただ「優しい人」だと思っただけだったが、こうして見ると、クラバインやマーリィ、アリス、それに、ドレイクやハルヴァイトが「みんな好き」と言っていた理由が少し判る。 薄い煉瓦色の瞳を眇めて、レジーナはゆったりと微笑んでいた。背丈はミナミと大差ない小柄な男だが、仕事着だというデニムの上下が妙に様になってる。 「…ミナミくん」 柔らかい声が、囁くようにミナミを呼ぶ。 「ぼくは、あの日の事をずっと後悔していたんだ。あの日…、君が医療院から抜け出して姿を消した日、ぼくはどうしても君のところへ行く事が出来なくて…。でも、そんな……仕事なんか放り出してでも君の側にいるべきだったのに、ぼくは…迷った」 膝の上で組んだ指先を握り締めたレジーナが、微かな溜め息を吐く。 「迷うべきではなかった。判っていたのだから。医師も、看護士も、全て、誰ひとりとして君に「触れられない」と知っていたのに、ぼくは…君を見捨ててしまった」 ミナミはそれに、ゆっくりと首を横に振った。 「俺は…待つべきだったんだよ、あの日。せめてあと一日、レジーナさんが来てからでも遅くなかった。どうせ…………」 どうせ。 結果は。 同じだった。 多分。 「だから、…偶然つうか…そうじゃないんだろうけど衛視になって、レジーナさんに会えたら謝ろうと思った。それから…ありがとうって…………」 「ぼくは、君に何もしてやれなかったのに」 後悔の上に立つ痛い微笑み。レジーナのそれをきっぱり否定するように、ミナミは…ふわりと笑った。 「大丈夫だって言ったよ。生きていれば、誰かが好きになってくれるからってもさ。だから俺はずっと…悪あがきみたいに必死に生きてて、なんとかやって来て、俺を…」 ずっと探していたと言ってくれたひとに逢った。 二度と傷つけないと約束してくれたひとに逢った。 ただそこに居てくれればそれでいいと言ってくれたひとに逢った。 「言葉」というデータではない方法で自分の気持ちを伝えるひとのくちづけ。 その、温度を知った。 「好きって、それだけで片付けないひとに、逢った」 レジーナは、その瞬間のミナミの微笑みに、惚けた表情で見とれた。 冷たくあしらおうとする閉鎖空間を観察し続け、人の抱えた後ろ暗い欲求に晒されても尚、なぜ、ミナミはこうも艶やかに微笑み、全てを許そうとするのか。 「恋をした?」 レジーナが内緒話をするような小声で問い掛け、ミナミはそれに……こう答えた。 「裏切ったよ」 「…………………」 「恐かった」 「…ミナミくん?」 「徹底的に傷つけて、また、俺は逃げ出すんだ」 「? それは……どういう事なんだい? ミナミくん」 「それでも俺は、あのひとが護ろうとして来たファイランを、愛してる」 「………」 曇りないダークブルーの双眸でレジーナを見つめていたミナミが、ゆっくり瞼を閉じた。 「ハルヴァイト・ガリューが居るファイランを、俺は……愛してるよ…」
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