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2.冷たい恋人 | |||
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名前を呼ばれるまで黙ってろ。というのが、ミナミに対するドレイクの指示だった。 人工樹木から切り出した一枚板のレリーフ入りドアという究極的に贅沢な両開きのそれを溜め息の後で押し開けつつ、ドレイクはそれでも、やっぱり少し「嬉しい」と思っている自分に呆れて、今日はそれにどんな「嘘」を被せておこうか、一瞬で思いを巡らせた。 室内に入り、ミナミにはその場に残るよう手で示して、クラバインを先に行かせる。一度や二度見たくらいではすぐに忘れてしまうような平凡な顔立ちでありながら、クラバイン・フェロウというのは嫌になるほど有能な男だった。だからここでも、上手く話の流れを作ってくれるだろう。 室内は、毛足の長い煉瓦色の絨毯に、濃茶色で統一されたアンティークな調度品。ソファとカウチとチェアは全て揃いのデザインで、それだけでも十二分に贅沢な品物だ。 部屋の中央辺りに置かれたソファから、青っぽいストールを体に巻き付けた青年が立ち上がった。直前、クラバインが屈み込むようにして何かを話していたから、これが問題の「ウォル」なのだろう。 そして唐突に、ウォルが振り向いた。 ブルーグレーのストールを巻いているが、中には、白いマオカラーのシャツとやや丈の短い黒いパンツを履き、くるぶしを晒している。そして、纏めて前方に垂らしていた髪は本当にぴかぴかと輝く漆黒で、長さが腰まであった。 尖った顎に細い鼻梁に、目尻の吊り上った気の強そうな漆黒の瞳。芸術的な弧を描く眉と淡い紅色の唇を持つその青年…いや…………ミナミがウォルを青年だと思ったのは、声を聞いてからなのだが。 正直に言う。ミナミは最初、彼を女性かもしれないと思った。髪が長い、とか、線が細い、とか、そういう事ではなく、ウォルはとにかく「美人」だった。 びっくりするほど…。ミナミが、瞬きを忘れてしまうほど…。 「お前が、ミナミ・アイリー?」 ゆっくりした動作でミナミに手招きしながら高飛車に言いながら、遠慮会釈なくしげしげとミナミの整った顔を見つめた後ウォルは、なんだか少し複雑そうな笑みを口元に載せた。 「クラバインが「綺麗な方」なんて面白い事を言うから、どんな形(なり)をしてるのかと思ったら、確かにそうだね。なるほど…、その姿でガリューと並んだら、目立たない方が嘘だ」 呼ばれたから近付き、「はじめまして」と呟いて、会釈する。その間漆黒の瞳はミナミを睨むように見つめていただけで、受け取るミナミも、ダークブルーの双眸をウォルから離そうとしない。 (………………おっかねぇ…) その二人を遠巻きにして、ドレイクは背中に冷たい汗を掻いた。 「僕は“ウォル”。何か質問は?」 「ねぇよ、別に」 「それは何? 僕には無関心だって、そういう事なのかな」 それまでミナミを斜に構えていたウォルが、言いながらゆっくりと正面に向き直る。 「訊きてぇ事がねぇだけ。見た通りに受け取ってそれで都合が悪ぃんなら、質問に切り替えてもいいけど?」 「…見た通りにね……。じゃぁ、お前が僕をどう見たのか、聞かせてくれないかな」 微かに首を傾げる仕草も怜悧な青年は、しかし、ミナミに対して最初からかなりの敵対心か…、何かそういったものを抱いているように見えた。 内心ヒヤヒヤものドレイクと、既に青ざめ始めたクラバイン。一触即発。どうあっても…。 「……ミラキ卿…。何かありましたら、夜までには、ウォル様の御機嫌を取ってくださるのでしょうね」 「今日は自信ねぇな。先約はミナミにあんだよ」 「やめてください…。そうでなくても最近周囲に当たり散らして大変だったんですから…。それをなんとかなだめ透かして、やっと半日スケジュールを空けて来たというのに…」 ぼそぼそと言い募るクラバインに苦笑いを向けて、ドレイクが「すまねぇな」と小さく呟いた。途端…。 「美人で偉そう」 ミナミが思い切りきっぱりと、本当に「見たまま」のウォルを的確に称し、言われたウォルと見守るクラバインは唖然として、ドレイクは思わず吹き出していた。 「? ミラキ卿…。俺、なんか可笑しい事言った?」 「いや、言ってねぇ…。当ってるだけ。…補足すんなら、今までそう思っても本人目の前にしてはっきり言ったヤツがいなかったから、ちょっとびっくりした」 額に手を当て喉の奥で笑いながら、ドレイクがウォルを盗み見る。 ウォルはぽかんとしていた。それから、無表情に「脅かそうとか、そういうのは思ってねぇんだけど」と呟いたミナミの顔を凝視し、ゆっくりと、細い眉を寄せる。 あからさまに、気に食わない。という顔だった。ドレイクにも覚えがあった。ハルヴァイトもそんな顔で睨まれた筈だ。アリスと…そのアリスに寄り添ったマーリィも。 「みんな、意外に慎み深ぇの?」 「どうだかね」 ふうん、と生返事するミナミを見つめたままだったウォルが、自分から一歩後退して間合いを取る。 「今度はなんだよ…」 訝しそうに言ったミナミににっこりと…これ以上ない意地悪な笑顔を向け、ウォルは無言で、彼の眼前に手の甲を…突き出した。 「貴族式の挨拶、知ってる?」 「………………知らねぇ」 嘘。ミナミはそれを、知っている。 「目下のものは目上のものに跪き、手を取って指先にくちづけ。だよ」 ウォルが言い終えるよりも早く、ドレイクは音もなくクラバインの横を離れていた。 「ガリューの恋人は礼儀知らずだって言われたくないなら、挨拶くらいは憶えておいた方がいい。恥をかくのは、お前でなくガリューの方だ」 いつも以上に無表情なまま、ミナミは硬直していた。翳ったダークブルーの瞳と、俄かに青ざめた顔。その視線がウォルの指先から離れないのを彼は、ミナミが迷っているからだと思った。「触れない」程度の軽症ではなく、「触ろうと差し出される手」さえもミナミには恐怖であるという事までは、ウォルも知らなかったのだから。 「…………ミラキ卿…」 からからの喉でなんとかドレイクを呼び、ついに、ぎゅっと瞼を閉じる、ミナミ。 「帰っていい?」 「…ばかやろう…、その状態でおめー帰したら、今度こそ俺の命がねぇだろ…。もういいから、好きな場所まで下がれ。ウォルは、俺が叱っとく」 言うなりドレイクはミナミたちの間に割って入り、中空に取り残されていたウォルの繊手を引っ叩いた。 ぴしゃ、などという可愛いものではない音に、数歩よろめくようにして後退したミナミもちょっと耳を疑った。何せ、バシッ。で、しかも真横に手を叩き払われたらしいウォルは、反動で後ろにあったソファの背凭れにぶつかったのだ。 「……やり過ぎだってーのに…」 呟いて止めに入ろうとしたミナミを、クラバインが制す。 無言でミナミの前に立ち、首を横に振り、窓際に置かれたカウチを掌で指し示す。こちらは、ミナミの恐怖心に触れないよう計算し尽くされた動作で。 「いいんです、ミナミさん。判っているのに引き際を誤まったウォル様がお悪いのですから、ミラキ卿に叱ってもらうのは当たり前です」 「叱って貰うって…、子供じゃねぇんだから」 ところが、カウチの片隅に座り落ち着いてみると、それはまさに、ドレイクがウォルを叱っていると呼ぶにふさわしい光景だと思えた。 横柄に腕を組み首を傾げたドレイクの前で、ウォルはストールごと自分の身体をぎゅっと抱きしめ、俯いている。 「ミナミの事情は知ってたはずだな、ウォル」 「……知ってた」 「じゃぁ、なんで俺が怒ってるのか判ってるな」 「判ってる」 拗ねた子供のようにぼそぼそと言い返すウォルを睨んだドレイクが、組んでいた腕を解く。 「なら、ミナミに謝れ。そのつもりがないなら今すぐ帰ってしまえ。お前は休みが取れたかどうか知らないが、俺はまだ忙しい」 「!」 言われた途端顔を上げたウォルは、自分を抱き締める手に力を込め、長い睫の先を震わせて、今にも泣きそうな表情でドレイクを睨んだ。 「せっかく…」 「知るか」 言って、でもドレイクはなぜか、そっと差し上げた手でウォルの顔に触った。長い睫の先を指でなぞり、そのまま自然に折り曲げた背で頬に触れ、もう一度伸ばして、滑らかな顎をそっと捕える。 結んだ唇に落された、ゆっくりとしたくちづけ。触れるだけなのに、温度が高い。 ウォルは短く息を吐いて、ドレイクの手を振り払った。 「お前はずるい……」 言われて、肩を竦めて苦笑いしたドレイクをその場に置き去りにしたウォルが、カウチまで一直線に突き進んで来る。 「ミナミ・アイリー」 「何?」 「ごめんなさい」 ぺこり、とウォルが頭を下げると、艶々した黒髪がさらりと揺れた。
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