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18.インターミッション デイズ

   
         
(22)幻惑の花-6

  

 ここまで来て、最早抵抗は無駄なのか。

 恐怖を前面に押し出しておきたい。

 そうでなければ「ならない」。

 しかし、御方は仰られた。

          

 そうしなくては「ならない理由は」ない。

            

 言い訳は、もう「ない」。

           

         

 ハルヴァイトと顔を合わせ辛い心境で室長室だらだらと一日を過ごしたミナミは、結局、当の恋人ではなくドレイクと共に新たな生活の場、ミラキ邸に帰還した。

 ミナミに気を使った訳ではないのだろうが、ハルヴァイトは下城近くになって急に、魔導師隊地下演習室に行く用事が出来たからと言い残してドレイクにミナミを預け、さっさと執務室を出て行ってしまったのだ。

 それに安心すべき所、ミナミはやっぱり複雑な気持ちを抱く。

 とにかく。

 ミラキ邸に戻ったドレイクとミナミを迎える、使用人たち。元より暇になれば顔を出していた場所だから今更自己紹介もなく、軽く挨拶して早速離れに移動しようとしたミナミに、同行のアスカが笑顔で声を掛ける。

「夕食まで部屋でお休みになりますか? もしよろしければ、ご一緒にお茶でも如何かと、旦那様が申しておりますが」

 母屋エントランスから通用口を使って一旦屋敷を出、前庭へは向わず真っ直ぐ許可地の端を目指す。ハルヴァイトとミナミが離れに住まうとなってすぐにドレイクは、邪魔な植え込みや潅木を整備させ、本来はなかった別館への近道を作らせた。

 急遽支度されたとは思えない、完璧に整った小路を歩きながら、ミナミは少し考えた。どうせ一人で部屋に篭っていてもロクな事になりそうにないので、気晴らしを含めてドレイクとお茶を頂くのも悪くはないだろう。

「じゃぁ、着替えたら母屋に行くかな」

 承知致しました。と丁寧に答えてからアスカは、タキシードの内ポケットに吊っていたスティック式のキーを取り出し、立ち止まったミナミの前に出て、レトロな造りのドアに口を開けたスリットにそれを差し込んだ。離れのキーはハルヴァイトとミナミがそれぞれ持ち、その他に、母屋のキーステーションに合鍵が一つあって、アスカが同行する時は必ず彼が開錠する仕組みになっている。

 まだよそよそしい離れに踏み込んで靴を履き替えながら、ミナミが小さく息を吐く。このところ、登城した日はいつも酷く疲れていて、逆にそれが自分の体調の悪さを物語っているようで、なんだか苛々した。

 離れには、離れのルールがある。

 それに倣ってアスカは、リビングに入って行くミナミの背中を、キッチンの前で立ち止まって頭を下げ、見送った。基本的に、ここから先へはハルヴァイトかミナミの呼び出し(許可)がなければ入れない。

「すぐ着替えて来っから…」

 佇むアスカを振り向いたミナミが居心地悪そうに言うと、青年執事はなぜが朗らかに微笑んで、ゆっくりと首を横に振った。

「お急ぎになられなくても結構ですよ、ミナミさん。待つのも私の仕事ですので。何かご用がありましたらベルを鳴らしてくだされば、お伺いします」

 再度会釈し、そのまま顔を上げないアスカに少々戸惑い気味の薄笑みを向けたミナミが、リビングに続くドアを引き開ける。生まれた時からそういう環境で育っていれば別なのだろうが、いきなり「主人」になどなるものではないなと、ミナミは内心嘆息した。

 後ろ手にドアを閉ざし、肩から力を抜いて天井に視線を投げる。ふらふらと遊びに来ていた時は感じなかった妙な緊張に、ますます疲れそうな気がした。

 久しぶりに袖を通した漆黒の制服。ネクタイを緩めながらリビングを斜めに横切ったミナミが、寝室のドアを開ける。

 まずは負荷を軽減し、少しでも体調の回復を図る「努力」を見せる。とハルヴァイトはミナミに言った。例えばそれが目覚しい結果を生み出さなくても、ある程度青年に変化を齎せば、今ほど強固に登城を制限される事もなくなるだろうと。実際、自由登城くらいの大雑把な許可が下りれば、後はなし崩し的に通常勤務へ移行する可能性もなくはないとミナミは思っている。

 何せ、特務室はいつ何時でも人手不足に喘いでいて、ハルヴァイトは容赦なく外から厄介事を持ち込む。

 では、さて。その「ある程度の変化」、具体的には睡眠障害の改善なのだが、それを誰がどう見て、登城しても良いと許可するのか。

 ハルヴァイトはそれを、ドクター・ラオがいいのではないかと提案した。

 開け放したままのドアに肩で寄り掛かり、今はまだ夕暮れの光に炙られて微かに赤っぽく変化している室内をぼんやりと眺めつつ、ミナミは少しだけほぐれた表情で薄い唇の端で孤を描いた。

 その直前まではほぼ一方的に「あれをする」「こうする」「この仕向ける」などと言っていたくせに、なぜ、ドクター・ラオの時だけは「そのように思う」的曖昧表現だったのか。

「…………」

 自身の係わるハルヴァイトとラオの確執をミナミは、長期療養開始直前に私室でステラから聞いた。当事者のラオを「秘密の約束」なとどいう出任せで部屋から追い出した彼女が、嬉々として教えてくれたのだ。そのおかげで話がとんでもない方向に逸れ、しなくてもいい打ち明け話などまでさせられて、しっかりステラに弱みを握られたという苦い思い出付きだったが…。

 綺麗にメイクされたキングサイズのベッドを暫し見つめていたミナミは、結局それから逃げるように視線を足元に下げ、ウォルの言う通りだろうと内心嘆息する。

 嫌ではない。きっと、目を閉じてもミナミの傍らに在るのはハルヴァイトだと、すぐに判るだろう。

 だからこそ、戸惑う。

 恐怖も脅威も感じない事に、恐怖を覚える。

            

 わたし・は。

          

 青年は伏せていた瞼を上げて再度溜め息を吐いてから、寄り掛かっていたドアを軽く肩で突き放して、ウォークインクロゼットに爪先を向けた。

 ちょっとだけ、自分が嫌になった。

               

          

 ミナミがドレイクとお茶を頂き、それから庭園を少し散歩して母屋に戻り、帰宅したイルシュとジュメールを加えた四人で夕食を済ませて一息吐いた頃、それまで姿を消していたアスカが現われハルヴァイトの遅い帰宅を告げる。

「いつの間に戻ってたんだよ、あいつ。夕食は…」

 母屋の食堂に、と言いかけたドレイクの少々面白くなさそうな横顔に、なぜかアスカは深々と頭を下げた。

「申し訳ございません、旦那様。ハルヴァイト様の言い付けで、夕食は離れにお運び致しました。ハルヴァイト様は、先ほど食事を終えられておいでです」

 恐縮するアスカの俯いた顔をじっと見つめつつ、ミナミが浅い溜め息を吐く。

 構造上、母屋に顔を出さず外から直接離れに帰宅する事は可能だったが、ミナミは世話になる者として、必ず母屋を通って離れに戻ろうと決めている。しかし、そんな気遣いなど彼の人生に存在していないのか、ハルヴァイトは一日目にして横暴全開、帰宅を知って(母屋のキーステーションにキーが残っている状態で離れが開錠されると、アスカの携帯端末に通知が行くようになっている)慌てて駆けつけた青年執事に食事を持って来させ、その食事が終わるまで自分の帰宅を母屋に報せるなとでも言ったのだろう。

 先が思いやられる。せめて、自分だけはアスカに迷惑をかけないようにしようと、ミナミは固く心に誓った。

「…それで、ミナミさん」

 こちらも呆れたように肩を落として天井を仰いだドレイクからミナミに身体ごと向き直ったアスカが、少々当惑の表情で身を屈める。それに小首を傾げて見せた青年に、若執事は小声でこう言った。

「ハルヴァイト様が、本日は「どちらでお休みになられますか」とお尋ねでした」

 ミナミは。

「…そりゃ、すげぇ質問だな」

 一瞬きょとんとアスカの顔を凝視してから、がっくりとうな垂れてぶつぶつと口の中で呟いた。

 やられたと思う。多分これは、裏表なく本気の質問だろうとも。

「なんかムカつく。結局、丸投げじゃねぇかよ」

 むぅ。と眉間に皺を寄せたミナミが沈んだ声で呟いたのを聞いてしまったドレイクが、妙な表情で青年の顔を覗き込んだ。

「…大丈夫か? ミナミ」

「いや、ぶっちゃけた話全然大丈夫じゃねぇ」

 ミナミ、またもや軽い恐慌状態か?

「って待て! どの方向に大丈夫じゃねぇんだよ!」

 青年の崩れない無表情を曇天の瞳で凝視し、肘掛け椅子の背凭れから身体を引き剥がしたドレイクが慌てる。

「全般的につうか、一方的にあの人に向けて大丈夫要素みてぇのが全く発見できねぇ」

「なんだよ、そりゃ!」

「俺にもさっぱり」

 ぽかんとするドレイクに大仰な仕草で肩を竦めて見せてから、ミナミはソファから腰を浮かせた。

「とにかく、おやすみ。ミラキ卿」

「あ? ああ…」

 それこそ一方的に大丈夫じゃない宣言を言い放たミナミが、相変わらずの無表情を緊張に強張らせて、ドレイクの私室リビングを後にする。

 アスカは、離れに戻るのかとミナミに訊かなかった。ただ静かに青年の後に続き、エントランスを出る間際には小さく声を掛けてから足元を照らすランプを掲げ、先導する。

 振り上げた視線。天蓋の向こうの星が、いつもよりずっと近い。

 その視線を水平に下げれば、重なり合う木立に紛れた白色の建物の細長い窓に、柔らかな橙色の灯かりが見える。

           

 わたし・は。

         

 ドアを開けてエントランスに入るとそこは、意外にも清潔な白い光に満ちていた。ミナミがラグの上で靴を履き替える頃には既に、取り残していた外履きはきちんと揃えて棚に並べられており、なるほど、これならハルヴァイトの履が脱ぎ散らかされていないのも頷けると青年は、変なところで感心してしまった。

「あの人は?」

 軽く振り返って問うたミナミに、アスカは超然と執事らしく答える。

「先ほどはリビングにおいででした」

「…そう。じゃぁ、アスカは、もう戻っていいよ」

「はい。湯上りに何かお飲み物をご用意しておきますが?」

「適当に。キッチン置いててくれたら、後は自分でする」

「承知いたしました」

 直立不動を崩さないリインと違って、同じタキシードでありながらアスカの立ち姿はもっと印象が柔らかい。清潔で優しげな白皙に艶やかな亜麻色の髪の若執事を、時たまとんでもない失敗をしでかす粗忽物だがそれ以外は概ね素晴らしく教育された執事だと、いつかドレイクが笑いながら自慢していた。

「アスカ」

「なんでしょうか、ミナミさん」

 リビングに続く短い廊下に一旦は爪先を向けたミナミが、全身で背後の青年執事に向き直る。

「これから、よろしく」

 ぺこりと頭を下げたミナミを一瞬凝視してから、アスカはなぜだか嬉しそうに微笑んで、こちらも深々と頭を下げた。

「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。

 ごゆっくりお休みくださいませ」

 決して身を起こさないアスカに見送られて、ミナミはリビングのドアを開けた。

 床から天井まで走る窓を覆った淡い枯葉色のカーテンに、乳白色のソファと…見慣れた鋼色が映える。

 不意にその人が、小さく笑った気がした。

「今日は来ないのかと思ってました」

「そう思われてそうだから、戻って来て見た」

 それは大した天邪鬼だと笑いを含んだ声で言うハルヴァイトの背中を躱してセンターテーブルを回り込んだミナミは、大窓を背にしたソファにぽとりと座って、正面で本を広げている恋人を睨んだ。

         

「あんたは、どうしたい」

         

「あなたの許す所まで」

        

 戸惑いと畏怖を押し殺した声で問うたミナミに、ハルヴァイトは淀みなく答える。

 笑みもなく、その声音から窺い知れる感情もなく。

 それ、は、スティール。

            

「わかった」

         

 答えに答えを返してから、ミナミは今度こそ毅然と立ち上がり、ソファを後にした。

  

   
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