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17.フレイム

   
         
(20)女王-2(臨界)

  

 イチ・プラス・イチ・イコール・ニ。

 イコール。

 イチ・カケル・イチ・イコール・イチ。

 この、自然界では絶対に成立しない等式が容易く成立するのもまた、臨界の摩訶不思議。

「1と1は1であり2である側面をも持つ「絶対1」から派生した臨界的数値であって、現実面でそれを維持する事は…」

 さらさらと揺れ続ける記号の草原を当てなく歩き回りながら、ハルヴァイトは呟いた。

 不透明な鉛色の双眸をやや俯けて前方でそよぐ緑の草葉を眺める穏やかな表情は、まるで気持ちのいい草原を時間など気にせず散策する時のものと似ている。しかし、彼が歩き続けるここは「草原」などという美しくも和やかな場所ではなく、「世界の全てをデータで表示し干渉するために構築された空間」であり、気を抜けば、胡乱な彼の存在そのものがその数値に取り込まれてしまうかもしれないのだ。

 しかし、ハルヴァイトの表情はあくまでも穏やかだった。

 彼は、この「臨界」の「悪魔」と呼ばれた男は、不名誉にもそう呼ばれるからこそ、この空間を怖れる必要がなかった。なぜならハルヴァイトは「悪魔」なのだ。常識など覆せばいい。数値に取り込まれたら、またやり直せばいい。最初から、ではなく、「取り込まれた瞬間から経過した時間をプラスし、そこから」だ。

「…出来なくはない、か。漏れる残影を干渉させればいい。音声を再生しようとするなら余計なプログラムを組んで稼動させなければならないが、意志の疎通が成り立つのなら、言語は必要ない」

 思考をわざと音声で確認するのは、ここがあまりにも静かで騒がしいからだった。草原に似た文字列のうねりを誘う風がハルヴァイトの身体を通り過ぎる度、ハウリングのように不安定な音声が断続的に再生されて、気が散る。

 それでも、全く気が散っているようには見えないゆったりした足取りで、ハルヴァイトは歩き続けた。

 グロスタン・メドホラ・エラ・ティングに干渉していた「ハルヴァイト」を回収するのと同時に、臨界に置いていた現実面干渉プログラムが稼動を開始した。そのタイミングの良さにハルヴァイトは驚きもせず、というよりも、「絶対時間の存在しない臨界面」の一部に「時間的要素を書き込み終わった」時と「現実面干渉プログラムの稼動」を合わせたのだから、驚くまでもない。

 臨界に在るからと言って、まるで予言者のように未来が見通せる訳ではなかった。否。もしかしたら、今ハルヴァイトの周囲を囲むデータの中には、六億年前の出来事と一兆年先の出来事が混在しているのかもしれないが、時間的要素が書き込まれないままでは、それが「いつ起こる事象」なのか判らないのだ。

 そして、迂闊に時間的要素を書き込み過ぎると過去のデータは手を加えられない文字列として固定され、未来のデータは在り得ない未確定のものとして処理されて、読み取り不可能になる。

 歴史も未来も変えてはならない。という所か。

 そもそも過去にも未来にも興味のないハルヴァイトは、これから自分の実行しようとするプログラムと手順を脳内で確認しながら、文字列の草原を歩き回った。彼は、この空間の中心を探している。

 そしてふと、気付いた。

「ああ…、そうか。中心はつまり、折り重なった無限の空間を貫くそれは、だから、別に中心でなくここでもいいのか」

 言って歩を緩めたハルヴァイトは、自然に身体の脇に垂らしていた腕をゆっくりと差し上げ、やや前方を指差した。

「そこ、とか」

 瞬間、「そこ」にボウと現われた白い光がうねうねと蠢き、寄り合わされて固まって、ぼんやりとした人型を取る。

「あいでぃー、ト、ぱすわーど、ノ、入力ヲ求メ、まス」

 草むらから立ち上がったその、ふらりゆらりと揺れる白く発光する人型が、妙に機械じみた硬い声で要求すると、ハルヴァイトは立ち止まって腕を組んだ。

「イー・エル、スラッシュ、ディ・アイ・エー・ビー・エル・オー」

 噛んで含めるようにゆっくりと紡がれた記号の羅列。

 揺れていた白い人影が、ふわ、とその動きを停めた。

「あいでぃー、ト、ぱすわーど、ヲ、承認しま、しタ。検索項目、ヲ、入力し、テ下サイ」

「母星重力の操作システムを呼び出せ」

 言われた途端、その、丸い頭に薄っぺらい上半身とまるでロングスカートを穿いたかのような下半身を草むらから生やした人影が、うんざりと肩を竦めて首を横に振ったではないか。

「母星重力、調整端末、ハ、地表ニ、8600、機アリ、全テ正常、ニ、稼動しテ、イ、まス。ソノ、全テヲ、監視中ノますたー・しすてむ、ヲ、呼ビ出し、ま、スカ?」

 続いた台詞と行動のちぐはぐさに、ハルヴァイトは思わず額に手を当てて上空を仰いだ。

 なんとなく、8600もある重力調整装置を監視しているマスターなど呼び出しても、手間ばかり掛かって無駄なのに、と言われているような、酷く嫌な気分を味わう。

 内心歯噛みしつつ、では、何を呼び出そうかと考えるハルヴァイトの正面で、白い人影が、ぺら、と揺れた。

「…母星大気圏内、浮遊都市「ファイラン」周辺の重力を限定して操作したい。どうすればいい」

「聖杯黒ノくぃーん、ヘノ、経路、ヲ、開キまス」

 ぺらら、ぺらら、と落ち着きなく前後左右に震えながら応えた案内役(ガイド)の薄い身体が一旦限界まで縮み、今度は大きく伸び左右に広がって円を作る。その円に包まれながらハルヴァイトは、どうしてこのガイドはこんな妙な形状なのかと、どうでもいい事を考えた。

 白い光の中で。

 全てを焼き尽くすような眩しい光の内側で。

「…全て、データだというのに…」

 悪魔が呆れ気味に呟いた途端、視界を閉ざしていた光が突如二つに割れて、今度は、漆黒で塗り固めた空間に放り出された。

「臨界からの強制アクセスは違法なるぞよ。去(い)ね。造られたもうた人ならざる者」

「……だから、どうしてここはこうおかしなモノばかり取り揃えているんだ…」

 聖杯黒の女王(クィーン)だというから一応女性を想像していたハルヴァイトは、パ、と暗い空間の一点を照らしたスポットライトに浮かび上がるソレ…最早人型ですらない…を目にして、がっくりと肩を落とした。

 なんとなく、ミナミに見せてやりたいと思う。きっと、絶対、確実に突っ込んでくれるだろうから。そう、ハルヴァイトでさえつい言い返してしまうこの状況で、彼が黙っていられる訳がない。

「というか、あなた様こそ「人ならざる」者なのでは? 非常識に大きいとしても、どう見ても猫ですよ、猫」

 にゃ! と、聖杯黒の女王は、真っ黒い顔の中央にちょこんと乗ったピンクの鼻、その左右に生え揃った白い髭を、ぴゃ! と跳ね上げ、ついでにわざとらしく椅子から飛び上がって見せてくれた。

………コントか?

「わらわは猫ではないにゃ! 威厳ある聖杯黒のじょーおーなのですにゃ!」

 いや、さすがにそれはないだろう。とハルヴァイトは嘆息する。いや、多分その「システム・コア・ブレーン」自体は間違いなく「聖杯黒の女王」なのだろうが。

 椅子から飛び上がる、などという前時代的表現を使ってくれた猫の女王は始め、異様なまでに背凭れの高い金色の玉座に座って短い足を組んでいた。まるで銀紙で作ったような安っぽい王冠を頭に載せた、体毛が真っ黒で眉と髭だけが白い、エメラルドグリーンの目の大きな猫。

 それが、「猫」だと指摘を受けた途端縮んだのを、ハルヴァイトは見逃さなかった。

 空気が抜けるようにゆっくりと小さくなった猫の女王は、金色の座面にちんまりと座り、恨めしそうな顔でハルヴァイトを睨んでいる。感情の起伏が激しいのか、涙目でぐすぐす鼻を鳴らしているのが、妙だった。

 それでハルヴァイトはふと気付く。

「女王は誤作動しているのか?」

 思い当たった可能性を確かめようと彼は、斜め後方でぺらぺらりと奇妙な具合に踊っている…というか空気に圧されてよろめいているかのような…、ガイドを振り返った。

 その踊りを目にした瞬間は、さすがにちょっと気が狂いそうになったけれど。

「ばぐッ、テイルモノ、ト、推測サレま、ス。現在、母星干渉し、すてむ内、ニ、想定外、ノ、ぷろぐらむ、ガ混入し、状態、ハ、極メテ不安、定、デス」

 やっぱり。と妙に納得した。ついでに、安心もした。こんなふざけた猫の女王と2Dみたいなガイドに都市の面倒を見て貰っているなどと、もしそれが本当だったとしても、知りたくない。

 そして。

「…あ」

 その、金色の玉座に爪を立ててにゃーにゃー鳴き始めた猫の女王と、激しいファンキーダンスに陶酔しているガイドの、不調の原因? に思い当たって、ハルヴァイトは頬を引き攣らせた。

 母星干渉システム内に想定外のプログラム…。

        

       

 わたしか?

        

       

 そう難しい顔で唸ってみたが、残念ながら、にゃーにゃー鳴く猫の女王と踊り狂う2Dガイドは、今更それに気付いたハルヴァイトに、突っ込んではくれなかった。

  

   
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