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17.フレイム

   
         
(10)臨界(始動)

  

 それは、意識。構築されないデータを纏った。

 それは、ここに、現れた時からずっとその場に立っていた。

 ここは、草原。地面から立ち上がった柔らかい葉が、走る風に煽られて時に激しく、時に緩やかに、間断なく波打つ、緑。

「この弱々しい緑の、地から吸われ葉脈に流れる文字列を見たか? 全てがデータだ。世界にはそれしかない」

 それも、意識。構築されないままのデータを纏った。

 それは、ここで、気付いた時からずっと歩き回っていた。

 ここは、草原。頭上には薄水色の冷たい空が拓け、その向こうには無数の星が瞬く夜空さえ見える、摩訶不思議。

「興味ない」

 それに問われそれが答える。微かに熱を帯びた質問に返るのは、平坦で冷たい声。というデータ。

 一瞬の接触を経て、…便宜上質問者としよう…が、なびく草原の風に乗ってするりと逃げ去って行く。それを見送るでもなく追いかけるでもなく、…便宜上回答者としよう…は、また黙して佇み、質問者が再度近付いて来るのを待った。

 回答者は、ずっとその場に立っている。だから質問者には回答者の姿を見る事が出来た。回答者は立っている。その姿を晒している。それなのに回答者の姿は酷く曖昧だった。

 始めは突如現れた回答者を警戒し、遠巻きにその姿を眺めるだけだった質問者の「全ての興味」が回答者に集中するまでの時間を、一秒としよう。

「一秒は最短か? 時間とはどこに存在し効力を発揮するものなのか」

「一秒は最短であり永遠。お前の時が動かなければ時間はどこにも存在せず、だから効力などない」

 質問者に回答者は答える。

 回答者は、回答するためにここへ来た。

 回答者の時間もまた、この草原には存在していない。だから回答者はもしかしたら一兆年立っているのかもしれないし、一秒も経っていないのかもしれない。

「歴史は積み重ねか? 全てが同時に発生し終息し連続するループのデータは記録だ」

「記録はデータであり、データは歴史と名を変える。データを縦に積め。それでそのデータが歴史になる」

 回答者は、回答する。

 回答するためにここに来た。

          

解答を与えるために、ここへ。

      

        

 不毛な質問を繰り返す質問者に、回答者は回答する。草原は気持ちのいい風に撫でられ、淡い緑が揺れる。

 質問者の質問は回答者が現れた時からずっと続いていた。ひとつとして同じ質問はない。ただ、意味のないもののようにも思えた。

 回答者は何にも興味を示さない。回答するだけだ。質問者の質問に。

 始めは短い質問を時たま繰り出していた質問者が、回答者の手足に絡む若草に紛れて頻繁に接触して来るまで、果たしてどれだけの時間が経ったのか。

「存在しない時間を計れるか? …また時間だ。時間ばかり気にしている」

「お前には計れない。わたしには計れる」

 回答者の回答を読み取りながら、質問者はまた通り過ぎた。それはただのデータの塊。文字列だけの存在。「世界」の全てに繋がる葉脈に沈み、また草原に、ぽ、と姿を現す様は、淡く輝く人魂のように見える。

「隣人の評判が気になるか? それもデータだ、罵詈雑言さえも」

「興味ない」

 質問者の質問には統一性がない。しかし、回答者の回答には意志があった。回答者は回答するためにここへ来たが、与える解答は唯一であって、その解答を導き出すための質問にしか回答せず、興味も示さなかった。

 近付いて質問しては刹那で遠ざかる質問者。

 与えられた質問に回答し続けるだけの回答者。

 回答者は、立っている。

 草原の只中。

 薄水色の空の下。

 満天の宇宙の中に。

 質問者が回答者に頻繁に接触し始めると、回答者の回答が明らかに解答へと偏り出す。それまでは、どうでもいい質問にも三度に一度の割合で適当に答えていたものが、最早、無意味な質問は「興味ない」の一言で一蹴されている。

「宇宙は絶対か? 神の神の神の神はどこに居るのか」

「興味ない」

 回答者は即答する。

 質問者は通り過ぎる。

 質問者は回答者にしきりに質問した。しきりに質問するために頻繁に回答者に接触した。

「間隔を計れるか? 今の問いとその前の問いの間隔は、その前の問いとその前の前の問いとの間隔よりも短い。…また時間なのか。時間ばかりだ」

「わたしには計ろうとすれば計る事が出来る。間隔は、時間で表せる」

 草原を、風が走る。柔らかく穏やかな緑が、萌える。

 回答者は。

 曖昧でも朧でもなく、実は全ての「彼の時間」を混在させたデータであり、だからフラッシュするように少年から青年へと姿かたちを変えていた。しかし回答者に接触する質問者はデータの塊であり、回答者が見せるような外観の混濁は起こっていない。

「時間か…」

 不意に質問者が呟き、佇む回答者の直前に人魂じみたデータの塊がぼうと浮かび上がった。

「時間だ」

 回答者は小さな少年だった。怒りにも似た業火の燃える鉛色の瞳で、中空に浮いたデータの人魂を睨んでいる。その表情、纏う空気は、まるで手負いの獣のようだった。

「一秒は?」

「一秒」

 回答者は少年だった。灰色の服を着ていた。少年らしからぬ冷めた顔に酷い青痣が幾つもあり、不思議な光沢を纏った鋼色の髪は滅茶苦茶に切りっ放されていた。

「一分の六十分の一」

「一分は?」

 回答者は少年だった。床に蹲り、腹部を抱えて血を吐いていた。ざんばらの髪に隠れて顔は見えなかったが、なぜか、背中を震わせて…笑っているようだった。

「一時間の六十分の一であり六十秒」

「一時間は?」

 回答者は少年だった。青白い顔で、疲れたように肩を落として、ぼんやりと上空を眺めていた。その鉛色の目には、生気がなかった。

「六十分であり三千六百秒」

「時間は?」

 回答者は青年だった。深緑色の長上着と黒いネクタイ、赤い腕章でその身を飾っていた。つまらなそうな顔をしている。何もかもを見下したような、そんな無表情だった。

「時間だ」

「何が判る? 時間だ。わたしは、何も判らない」

 回答者は。

          

          

「時間だ、グロスタン・メドホラ・エラ・ティング。私はお前の「時間」を答えるためにここまで来た」

       

        

 混在する全ての時間が理路整然と整列し、現実面の「時間経過」を正しく受け取って再構築されたそのひとは、漆黒の長上着に真紅のベルトと腕章、艶消しの長靴という厳しくも凛々しい姿で、しかし、過去と寸分違わぬ鋼色の髪に鉛色の瞳をしていた。

 だから全ては繋がっている。あの暗い顔の少年が時を経て青年になり、いつしか彼、ハルヴァイト・ガリューになると。

 咄嗟にハルヴァイトとの接触を切断しその場から逃げ去ろうとしたデータの人魂を、ハルヴァイトの正面に忽然と現れた悪魔、「ディアボロ」が、鈎爪の生えた両手で包むように捕らえた。

 地から伸びる、草に似たデータの流れに乗ってまた逃げられては適わないからなのか、「ディアボロ」はすぐさま背の皮膜を広げてひらりと中空へ舞い上がった。その様子を地表から眺めるハルヴァイトの、余りにも平素と変わらぬ表情を、「ディアボロ」の手の中のデータが笑う。

「答える? いいだろう。それでどうする? データに時間的要素を加えてこの私を正しく構築し、それから? いいや、そうではない。いい事などない、ありはしない。貴様は私に答えられる訳がない」

 感情的というほどではないが、やはりどこか熱を帯びたデータの人魂…グロスタンを見上げたまま、ハルヴァイトは悠々と腕を組み、目を細め、笑った。

「正しい「時間的要素」を計る基点を持たぬ貴様に、答えなどない」

 グロスタンの吐いた、陳腐な決まり文句を。

「グロスタン・メドホラ・エラ・ティング。都市暦八八九年、皇王記七五年に誕生し、現在「現実面」都市暦九二一年、皇王記一〇七年。お前が「あの世」に生まれ出てから、三十二年四ヶ月十二日七時間四十二分三十四、三十五、三十六、三十七…」

 ハルヴァイトは、宙に留まった「ディアボロ」に囚われたデータの人魂をあの鉛色の瞳で見つめたまま、淡々とカウントし始めた。

 音のない世界。データの海。揺らぎ萌える若葉のようなデータ、データ、データ。

          

       

 世界はデータで出来ている。

 世界はデータで表せる。

 書き換えも組み替えも意のまま。

 それがデータの世界。

 しかし世界はデータであって、データだけではない。

 データ=文字列の世界。

 文字列は望めない。

 文字列は微笑まない。

 文字列は涙しない。

 文字列は憎まず不平を言わず不満を溜め込まず怒らず嫉まず悲しまず叫ばず喚かず痛まず悼まず楽しまず愉しまず喜ばず慶ばず歓ばず悦ばない。

 文字列は誰も愛さない。

           

…文字列は愛せない。

        

 三十八、三十九、四十、四十一、四十二…。

 カウントは続く。

「それは時間か? 偽装された時間という文字列。貴様の定める擬似時間に過ぎない」

 四十九、五十、五十一、五十二、五十三…。

 カウントは続く。

「これは時間。わたしの時間はわたしだけの時間ではなく、「現実面」で正しく進行する干渉不可能な絶対時間」

 一、二、三、四、五…。

 カウントは続く。

「それは絶対か? 正しく明らかに「現実面」で進行する絶対時間か」

 十一、十二、十三、十四、十五…。

 カウントは、続く。

「これは絶対。なぜならわたしは、この瞬間も「現実面」で進行している絶対時間を正しく計る事が出来る」

 二十四、二十五、二十六、二十七、二十八…。

 カウントは、続く。続き続ける。続き続けるために繋がっている。繋がっているから続き続ける事が出来る。続き続ける。カウントは永遠に続くだろう。

           

       

あなたが「あの世」に在り、

わたしが「この世」に在り、

あなたが「あの世」で「この世」のわたしを想い続けながら在り続ける限り、

わたしが「あの世」に戻るまで、

あなたの時間は正しくわたしの時間でもある。

          

       

「抗うな、グロスタン・メドホラ・エラ・ティング。お前の時間はとうに始まっている。正しくカウントされている。臨界ファイラン階層は現在、「わたし」の接触と同時に「現実面」とのシンクロを開始し、シンクロ率の低下なく「絶対時間」で進行している」

「認めない。私の時間は三十二年四ヶ月十二日七時間四十三分五十二秒前に停まった。停滞している。私は「現実面」に干渉したが、「現実面」は私に干渉する事が出来なかった」

「ディアボロ」の手の中でぼうと輝く人魂が、嘲弄を込めた文字列を佇むハルヴァイトに向けて送り出し、ハルヴァイトが明滅する文字列と接触した瞬間、「ディアボロ」は頭上高く両腕を掲げてから、地面に投げつけるようにしてその人魂を開放した。

「「絶対時間」とのシンクロを正常に終了。お疲れ様でした…、グロスタン・メドホラ・エラ・ティング」

 悪魔の手から放たれた光球が佇むハルヴァイトの正面に落ちて、弾ける。飛び散る白い光。放射状に激しく揺らぐ草の葉…データ…。薙ぎ倒されて円形に窪んだその中央に、何か…、誰かが蹲っていた。

「…なぜ…?」

 その誰か…、絶対時間という要素を得て正しく構築されたデータの人魂、グロスタン・メドホラ・エラ・ティングは、酷く緩慢な仕草で上体を起こしながら、俯いた顔の前に自分の掌を広げた。男性らしくごつごつした指。骨の浮いた手首。その、初めて目にした「自分の手」に、彼は戸惑いと驚愕の呟きを漏らす。

「それは、お前が正しく「絶対時間」を認識したからだ」

 質問に対する解答は「時間」。分散したグロスタンの意識を「時間」という概念に集中させた上でハルヴァイトは、文字列の中に正しいカウントを混ぜ「グロスタン・メドホラ・エラ・ティング」というデータに「絶対時間」を認識させた。

 悪魔が最も不得意とした、「会話」を使って。

「違う!」

 見つめていた手を地面に戻し、長く、爪先に到達するほど伸びた白髪を振り乱して顔を上げたグロスタンは、血の滲むような掠れ声で叫んだ。その酷く感情的な悲鳴を、ハルヴァイトが冷たく笑う。

「なぜ、貴様は臨界において正しい「絶対時間」を知る事が出来た? これは偽装時間だ。偽物だ」

 それは、人知れず「臨界面」で人格を形成したグロスタンが何度も試した方法でもあった。「絶対時間」。全てのデータに溢れた「この世」に、唯一存在しないもの。欠けた要素を組み込んだ時、グロスタンは「現実面」と「臨界面」を自由に行き来し、ファイランの「神」にもなれると信じて疑わなかったのだ。

 ゴール直前で足踏みしている間に追い抜かれたアスリートみたいに、グロスタンは虚を突かれたような、苛立たしいような顔をした。色褪せて艶のない枯れた白髪、眉も睫も白いのに怒りを漲らせた双眸だけが暗い紫色なのは、「極めて特異な状況で成長した」からなのだろうか。

 顎の細い、額の広い、顔色の悪い痩せた男。人工子宮の中で眠り、誰の目に触れる事もなかった赤ん坊の成れの果てを目にしても、ハルヴァイトは顔色ひとつ変えなかったが。

「わたしは、お前とは違う。「絶対時間」という「現実面」でのフラグをわたしは、「わたし」に残したのではない」

 ハルヴァイトの鉛色が、ふらふらと立ち上がったグロスタンの、逸らされない紫色を追う。

「わたしは「臨界」に落ちた。わたしは今「現実面」に存在していない。しかしわたしは必ず「この世」を振り切り、「あの世」に帰るだろう」

「だから、なぜだ」

 立ち尽くしたグロスタンの貧弱な身体を見下ろし、ハルヴァイトはふと微笑んで、小さく首を横に振った。

           

          

わたしは「あの世」に、こころを、残した。

わたしは「あの世」に生きる、「絶対時間」の中に身を置くあなたの中に、

わたしを、残した。

        

           

「お前に教える義理はない」

  

   
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