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16.全ての人よ うらむなかれ

   
         
(34)

  

 ベッドに転がって、どれくらいの時間が過ぎたのか。

 アリア・クルスにとって、退屈は退屈と意識しなければ苦痛でもなんでもなかった。いつもそうだった。隔絶された青年の世界は広大な世界の片隅に浮かぶ閉鎖された浮遊都市の、更に地下(それは都市の基盤であり言葉としては適切でないが、彼らにとって地上が手の届かない理想の定住地であって、仮初めの棲家、即ち中空を漂う巨大円盤が実質的「地上」だとすれば、内容としては符号していると言えるだろう)であり、表層に現れる事もなく、彼らの主である(…としておこう)アドオル・ウインが訪れる以外、外界との接触は殆どなかったのだから。

 しかし、天使を模して生み出された青年は、イルシュ・サーンスやジュメール・ハウナスといった、「他の目的」で意図的に造られた者たちに比べれば、まだ、外界の事情に詳しかった。関わり合う事もなく、ましてやそこに存在する事もなかったが、アリアは、世界の構造を「情報」として理解している。

 まるで。

 自由に振る舞える安寧に満ちた部屋の中、膝を抱えてテレビを見続ける…彼の天使の…ように、アリア・クルスは「世界」を見聞きして来た。

 それからもう一つ、青年と少年たちには決定的な違いがある。

 それは、不運な違いだと言うべきだろうか。

 それとも、幸運な違いだったのか。

 どこかしら焦点の定まらない青い双眸で天井を眺めていた青年の耳朶を、固い金属音が打つ。幾度か重なり連続したそれがぴたりと止んだのを確かめてから、アリアは訝しそうに眉を寄せたまま上半身を起こした。

 青年が見つめるのは、唯一の出入り口であるドア。壁と同じ淡い灰色で塗られた窓のないそれは、アリアの座っているベッドから見て足下方向の壁に埋め込まれている。

 人の気配さえ漏らさない防電機構で固められた分厚い壁と、ドア。またあの白衣の女がやって来たのかと、青年は息を詰めた。

 嬉しくない。会話は、面倒だった。しかもステラは見事なまでに命令口調で、少々勘に触る。

 ただ、キレイだとは思った。「生きてる」感じがした。

 アリアが意識を逸らした刹那で、こちら側にはノブのないドアが微かな擦過音と伴にスライドし、青年はベッドに座り込んだままぎくりと肩を震わせた。

 わざとのように大きく開け放ったドアから姿を見せたのは、漆黒の長上着を着込んだ長身の男。一瞬、それをあの悪魔…ハルヴァイト…かと勘違いした青年は表情を強張らせたが、しかし、「その可能性は絶対にない」と思い当たって、無意味に力の入っていた肩をほっと下げた。

 室内に一歩踏み込み、無言で見下ろして来る男を改めて観察しながら、青年は投げ出していた足を引き寄せて胡座を掻いた。別に意味のある行動ではない。ただ、全く感情の読めないサファイヤ色の双眸がいっときも自身から逸れないのと、どこか威圧的な立ち姿に、酷く落ち着かない気持ちになる。

「…あんた、ダレ」

「…………」

 無言で佇む男…ヒューがなんの反応も示さないのに焦れたアリアが、不機嫌そうに言いながら顎を引いて、下からサファイヤの瞳を睨め上げる。その、感情剥き出しではないが明らかな起伏を含んだ声音と言い方に失笑を返したヒューは、やはり無言のままドアの傍らへと退去した。

 複製は、似て非なるもの。

 出入り口を塞いでいた格好のヒューが退けるとすぐ、アリアにも見覚えのある数名が室内に入って来た。赤い髪の女。目つきの悪い男。色素の薄そうな少年。

 それから、煌くような白髪と、曇天の瞳。

 アリス、デリラ、アンに続いてドレイクが姿を見せた時だけ、アリアは微かに眉を動かした。だからといって何か言うでもなく、それ以上表情を変えるでもなく、ただドアを…。

 壁際に退けたその他大勢も。

 大股で部屋を突っ切り、ベッドの横、壁に背中を預けて腕を組んだドレイクも。

 まるでそこには存在しないもののようにきっぱり無視して、ドアを。

 開け放たれた開口部を背にひっそりと佇む、華奢な人影をじっと見つめている。

 自分と同じ顔の、それは。

「……………は…」

 酷く希薄な空気を纏い、どこかに感情を落として来たかのように無表情なまま、ベッドに座るアリアを見つめる、ダークブルーの双眸は。

「へぇ…」

 大袈裟に感心して見せた青年のからかうような声にも無反応を貫く、綺麗な青年は。

「ホント、俺たちってそっくりじゃねぇ?」

 ミナミ・アイリー。

「なんとか言えよ、なぁ」

 アリア・クルスの…オリジナル。

「天使」

 囁いた青年の声に沈黙が降り、ミナミは、静かに長い睫毛を伏せて、首を横に振った。

      

       

 悪夢に晒されている気分だった。

 無意識に奥歯を噛み締め、組んだ腕に五指を食い込ませて、ドレイクは正体の知れない何かに耐えた。こうなる事を覚悟して来たのだから今更愚痴るつもりなど毛頭ないが、この構図は正直…神経に障る。

 ミナミは、ベッドを見下ろしている。

 そのベッドにだらしなく座ったアリアは、にやにやと口の端を歪めてミナミを見上げている。

 途中で歪んだ合わせ鏡を、強制的に、真横から見せられている感覚。ミナミの痩せた肩越しに、アリスとデリラとアンのいかにも渋い表情を目にしてしまい、ドレイクは内心苦笑を漏らした。

 こんな時でも超然としているのは、ミナミとヒューだけだ。当事者であるミナミは相当な覚悟を持って来たのだろうから判るとしても、ヒューの平素と変わらぬ偉そうな態度と涼しい表情に、謂れない苛立ちさえ感じる。

         

      

 独白-E

       

     

 だから俺はようやく気付いた。

 なぜ、ハルからのメッセージを受け取ったのが、タマリだったのか。

 なぜ、班長だったのか。

 そうじゃねぇ。

 俺じゃだめだったから、タマリであり、班長だった。

…………………。

 だからってよ、なぁ、ハル。

 可笑しな話なんだけどな? 俺は、じゃぁなんで俺じゃだめだったんだ、って、そうは思ってねぇよ。

 お前はきっと、俺に言いたかったんだろ?

 今度こそ。

 無理すんな…ってよ。

        

      

 っつうか、だったらだったで、なんとか言ってから行けよ。…まったく。

       

      

 ミナミは、見ていた。ベッドの上に座り壁に背中を預けてにやにやと見上げて来る、自分と同じ顔の青年を。

 何か言うでもなく驚きの色を浮かべるでもないミナミの無表情に焦れたのは、やはりアリアの方だった。歪んだにやにや笑いを不意に消した青年が、わざと盛大に溜め息を吐きつつ壁から背を引き剥がし、身体に寄せた片足を抱えてミナミから視線を逸らす。

「用事ねぇなら帰れよ。俺は見せモンじゃねぇ」

 刹那で寄った眉。いかにも不機嫌そうな声音。苛立ちを隠さない青い瞳。

 ドレイクは、見ている。アリスもアンもデリラも、ヒューも、見ている。

 模造(もぞう)は複製(ふくせい)であり模倣(もほう)でなく。

 天使は創造(そうぞう)であり複製(ふくせい)でなく。

 だから。

 天使は天使。

 複製はひと。

 模造はひと。

 全ては、隔絶されるだろう。

 天使は天使。伝説の。

 ミナミはミナミ。最強の。

 アリアはアリア。それは。

         

       

個と個は個々になり別々のばらばらに。

あなたはあなた己(おのれ)と他(た)とにそれぞれに。

別れを判れ別たれて解り。

一個(いっこ)一己(いっこ)がいっこの世界を作るのだ。

表と裏とが合わされて。

一個の世界を作るよに。

       

       

 全ての人よ。

       

      

あなたの幸(こう)が誰かの不幸を踏み付ける。

あなたの不幸が誰かの幸(こう)ににじられる。

        

       

 うらむなかれ。

        

       

 

この世の真理は、真円(しんえん)にある。

       

       

 不穏な空気を纏って睨み合うミナミとアリアを見つめ、傍観者たちは知る。

 ハルヴァイトが必要としたのは、正確なデータだった。ミナミを「ミナミ・アイリー」とするデータ。アリアを「アリア・クルス」とするデータ。それは、ミナミとアリアが感覚的に捉えている(自分と他人が同一でないのは、しごく当たり前なのだが)曖昧模糊とした情報ではなく、誰もが明確に彼らを分別し識別し、その上で「理解」、行動出来るようなはっきりとしたもの。もちろん、こんな乱暴且つ悲劇的な方法でなくそれを知る事は容易いのだろうが、彼らに関わる事象を組み入れた方程式を劇的に構築するためにハルヴァイトは、あえてこの手段を取ったのだろう。

 ミナミを囲う安寧を取り払い。

 アリアを閉じる妄執を突き崩し。

 無秩序運動する数多の要素に重大問題を提示して。

 方程式を括るイコールの先へ、全ての流れを収束させる。

 だったら最悪ね。とアリスは思う。

 そんじゃ最悪だね。とデリラは思う。

 それって最悪。とアンは思う。

 そりゃ最悪だな。とドレイクは思う。

 そしてヒューは、睨み合う同じ顔の青年たちを見つめ、思った。

 最悪だが、最強だ。と。

 不意に、ミナミの金髪がさらりと揺れた。青年が、無表情という基本をあくまで崩さないながらも、微かに桜色の口唇を綻ばせ、ふっと俯いたのだ。

「…何、笑ってんだよ」

 アリアの苛立った問いに、ミナミが首を横に振る。

「あんた、どっか悪ぃんじゃねぇの?」

 それにも、ミナミは首を横に振った。

「じゃぁ、なんなんだよ!」

 言って、アリアは気付く。

 酷く怯えている自分に。

 同じ顔の青年。「天使」。「天使」が在ったからアリアは生まれた。造られた、かもしれないが。しかし目前のそれは、もっと、恐ろしい生き物。

 似て非なるもの。いいや。全く別の、姿形だけが気味悪い程に似ているだけのひと。何を考えているのか判らない。何をしたいのか判らない。目の前の青年はただ薄く微笑むばかりで、ただそれだけで指一本動かさないのに、アリアを混乱させ、恐怖させ、怒り、苛立ち、焦燥、不快を植え付けて、ただ、微笑む。

 これ、が、最強最悪の。

 ミナミ・アイリー。

 急激に感情か沸点を突破する。それは恐怖。アリアが毛先の垂れ下がった金髪を掻き毟りながらベッドから飛び降りると、同時に、ミナミが一歩下がり、ドレイクが寄りかかっていた壁から背中を浮かせた。

 思わずアリアとミナミの間に割って入ろうとしたドレイクを旋廻したダークブルーだけで圧し留めたミナミが、再度アリアに視線を戻す。

 静謐な、観察者の青。

「なんとか言えよ。俺に、何が訊きてぇってんだよ。ウイン卿の事? それとも、グロスの事かよ。でなきゃ……………」

 アリアは、静けさに耐えられないかのように、喘ぎながら、引き攣った表情で吐き続ける。

「あの悪魔がどうなったのか、それが訊きてぇのかよ!」

 殆ど悲鳴に近い、しかし酷く弱々しく掠れた声でアリアが呟いた瞬間、室内の空気が零下の冷たさで研ぎ澄まされる。それが目的か? 否。ドレイクたちはどうか知らないが、ミナミの目的は、そうではない。

 だから青年は、ダークブルーの双眸を怯えて喚き散らす青年から逸らす事なく、またも首を横に振った。

 違う。

 訊きたいのではない。

 知りたいのだ、ミナミは。

 ハルヴァイトがどうなったのか。それはもう「判って」いる。誰から知らされる必要もなく、それは、もうこの複雑な方程式の中に組み込まれている。

 知りたいのは。

         

        

あなたでなければならなった理由。

とでも言いましょうか。

あなたが知りたいのはそれだけ。

なぜ、わたしに、あなたなのか。

なぜ、わたしが、あなたを選んだのか。

        

恋人に。ではなく。

解答に。

       

         

あなたが知りたいのは、

わたしの「答え」。

  

   
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