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16.全ての人よ うらむなかれ |
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ぼんやりとベッドの前に立ったまま、天井を見上げる。 「……」 そういえば、ミナミがどうとかアリスが言いに来たっけなと思ったが、思っただけで、なんの行動にも移れない。 疲れている。 「…………………。良くねぇな…」 それも、判っていた。良くない、何もかもが。もう少しシャキっとしなければとか、ミナミの様子を見に行かなければとか幾つもの事柄が頭の中を駆け巡っているのに、なぜなのか、瞬きさえも疎ましい。 深層意識と表層のそれがズレている。その上、身体と意識そのものが繋がっていない。 脳の片隅、一番まっとうに働いている部分が、警鐘を鳴らす。良くない状態。一旦意識をダウンさせるか、それとも「繋ぎ直すか」、どちらかを選択し現状を打開しなければ、自分の日常は戻らないだろう。 それさえ判っているのに、ドレイクはただその場にじっと立っていた。面倒な事柄など全部忘れてもう一度ベッドに倒れ込み、目玉が腐るまで眠ればいい。そうすればきっと気分も戻る。何をしなければならないのか、何が必要で何が不必要なのかきっと思い出す。それだけだ、後数時間の休眠で、全てが、元に…。 「…………戻るワケねぇだろ」 自嘲気味に呟いてふと口の端を歪めれば、それで少し気持ちが軽くなった。よく「お人好しの仮面」などとハルヴァイトに言われていた体裁を脱ぎ捨てると、こうも気楽なものなのだろうかと思う。 今更ながらあの弟に感服した。 どうしようもなく扱いが難しい。必要な事もろくに話さない。それでも最近は随分マシになったものだと思っていたが、ここに来て全部ひっくり返すような暴挙に出て自分はどこかへ消え去り、それなのに、こんなにも思い知る。 疲れて来るとお人好しの仮面が剥がれるのだと、ハルヴァイトはよくドレイクをからかった。暗に、無理をし過ぎなのだと言われていると気付いたのは、いつだったか。 多くを語らない、語らなかった弟の横顔はいつも、少し困ったように笑っている。そして彼は呟くのだ、どうせ聴いてくれる気なんかないのだろうと言わんばかりに、どうでもいいように、でもそれだけドレイクを見ているから、しつこいくらいに、言い募る。 疲れてくると…。 「つうか、おめーが静かにしててくれりゃ、疲れねぇんだよ…」 多分。 面倒になって溜め息さえ吐こうとも思わないドレイクの耳朶を、壁一枚隔てた室長室から微かに聞こえた悲鳴が撫でる。 誰だろう。今度はなんなんだよ。と思ったが、やはりドレイクは動かなかった。 ところが。 今度は明らかな何かを蹴破るような音が迫り、更に近くでバタン! とドアが開け放たれた気配に、ドレイクはうっそりと天井から水平に視線を戻した。 何を騒いでいるのかと少々訝しそうな表情で、なんとなく、右手にある仮眠室の薄っぺらい扉を見た瞬間、いきなりなんの前触れもなくそれが大きく開かれる。 そして。 何もかもに疲れ果てたはずのドレイクでさえ、唖然と目を見張るハメになった。 「ミ……………………」 はぁ? と、俄かに脳と意識と身体が繋がったような顔でドレイクが見つめる先には、当然? ウォルの腕を掴んだままのミナミ。底光りするダークブルーで睨まれたからではあるまいが、さすがのドレイクもそれ以上の言葉を失う。 何せ、ありえないだろう。しつこいようだが。 殆ど怯えたように、助けを求めるように必死の視線を送ってくる陛下の胸まで差し上げられた細い手首には、ミナミの指が…すっかり食い込んでいるのだから。 思わず、「おい…」と言いながらドレイクが腕を上げようと微かに肘を動かした、瞬間、はっとしたウォルが低いが鋭く「ミラキ、やめろ」と呟く。 その時、ウォルの手首を掴んだミナミの、緊張に汗ばんだ指が一層強く彼の腕に縋り付いたのだ。もういっぱいいっぱいで、それでも何かに突き動かされてここまで来たミナミの限界は、目前なのだろう。 擦れ違うように視線を交わしたドレイクとウォル。それで何が伝わったのか、ドレイクは動きを停め、ミナミはそれをずっと「見ていた」。 煌くような白髪と。 今にも雨の降り出しそうな曇天の瞳と。 少し疲れたその人の横顔は。 程よく力が抜けて機嫌の悪そうな表情は。 繋がっているのだとミナミは思った。 あの人と。 鬱血しそうなくらい強く握り締められた手首にウォルが軽い痺れさえ感じ始めた頃、不意にミナミが足を動かす。ヒューならばそれを「記憶し終わったからだ」と言うだろうが、まさかドレイクとウォルにそれは判らず、だからふたりはどちらともなく顔を見合わせ、それから、当惑したようにミナミを見つめた。 完全に蒼褪めて強張った表情ながら、皓々とダークブルーを暗く光らせた青年。 睨むようにドレイクを見据え、瞬きさえせず目も逸らさずに、ウォルを引き摺ってつかつかと彼の正面まで歩み寄ったミナミは。 短く素早く息を吸い込み、呼吸を止める。大丈夫。これは大丈夫。これ、も、大丈夫。この人こそ。
わたしとあなたの全てを許した。 わたしとあなたの犠牲になる事を甘受した。 わたしが「全て」であると錯覚している。 だからあなたも「全て」だと決めた。 今は、わたしもそれを否定しない。
わたしたちは、彼にこそ、「全て」を返さなければならない。
逸らされないダークブルーをじっと見つめる灰色の瞳に笑いかける余裕もなく、ミナミは、何気無く垂らされていたドレイクの腕を力任せに掴んだ。 ドレイクがぎょっとする。しかし、抵抗はしない。動かない。驚くのは自由だが、青年が必死の思い(だろうとドレイクは思った)で取る行動を無駄にしないためにも、ドレイクはミナミに流されようとする。 だから結局ドレイクは、強引に持ち上げられた腕の中にこれまた強引に押し付けられたウォルを抱き、殆ど体当りするような勢いで突き飛ばされて、国王陛下とパズルのように絡まり合ったまま背後のベッドにひっくり返った。 思いの他少ない衝撃を受けつつドレイクの上に覆い被さったウォルが、一瞬だけ、失笑しそうな顔で天井を仰いでいる男を見、すぐ、背後で硬直しているミナミを振り返るために上半身を持ち上げようとする。しかしなぜかその行動は背中に回された白シャツの腕に阻まれ、結局彼は、長い黒髪をドレイクの胸からベッドへ流したまま、ミナミの意味不明な所行に対する少し苛立った溜め息を吐くに留まる。 青年の足音はすぐに遠ざかって行った。何も言い残さない。何も説明しない。それはウォルにとって、自ら「言葉」を封じたミナミの強情さを確かめさせられたに過ぎなかったが、ドレイクにはもうひとつだけ判った事がある。 ドレイクがどうなったのか。どうなっていたのか。そして、それにどう対処していいのか。 青年は、あの静謐なダークブルーでこの狂った浮遊都市の全てを見透かす観察者は、何も気付かないフリをして、何も知らないフリをして、見ていた。 見られていたのだ。情けなくも、棄てられない自分を。 バタン! と開いた時よりも乱暴且つ力強く閉ざされたドアが手荒な扱いに抗議するよう激しく震え、ややあって、室内には重苦しい静けさが戻る。だが隣室ではまだその余韻? とでも言うのか、何かが続いているらしく、再度大きな音が響いたと思うなり、遠くで、悲鳴やら何やらが断続的に上がっていた。 今頃ミナミはきっと床に座り込み、真っ青になって震えているだろうとドレイクは思った。 そうなる事は承知していただろうに、何をやっているのか。と力ない笑みを漏らしてみたが、無理に浮かべたその表情は一秒と保てない。 疲れている。確かにそうだ。でも、つい今しがたまでのように訳の判らない思考に邪魔されて、安息がやって来ないという状態でもない。 ただ、疲れている。それだけだ。 「……………離せ、ミラキ」 少しの間ドレイクの胸に額を押し付けたままぴくりともせずにいたウォルが、先程よりも一層苛立った声を搾り出す。背中に置かれた腕に抵抗しようというのか、弱々しくも持ち上がった細い指先がカフスの外された袖にすがり、引き剥がすのではなく、ぎゅと握り締められる。 「お恐れながら、陛下」 「……………………」 いかにも他人行儀で儀礼的な固い声に、ウォルの背中がひくりと震えた。喉まで出かかった怒りと恨み言を飲み込むように唇を噛んでしっかり目を閉じた「陛下」が、掴んでいたシャツの袖を突っ撥ねるようにして叩き払い、両腕をベッドに衝いて身を起こそうとする。 しかし瞬間、その両手首を掴んで浮かせられ、ウォルはまたもドレイクの胸に倒れ込むハメになった。何がしたいんだこいつは! と怒りになのかなんなのか、すっかり潤んだ黒瞳(こくとう)で頭上にある見慣れた……もう二度とこんな間近で見る事は叶わないだろうと思っていた…男の顔を睨み付ける。 ドレイクはなぜか、薄っすらと笑っていた。 困ったように、呆れたように。 最早美しくも懐かしくもない想い出になった「あの頃」、わがままを言って城になど戻りたくないと彼の男にすがり付いたウォルに向けられていたのと同じ、何かと何かの狭間で戸惑うような笑みが、ドレイクの口元に浮かんでいる。 何かと何か。義務か。使命か。責任か。抗えない運命なのか。はたまたそれは。 複雑に絡み合った別種の「愛」を全て手に入れようとする浅ましい自分たちに向けられた、嫌悪だったのか。 「今しばらく…」 掴んでいたウォルの両手首を開放したドレイクの腕が、ゆっくりと華奢な背中を包み込む。壊れ物を扱うように繊細ながら決して弱くない力でしっかりと抱き込まれ、ウォルは震える睫を伏せた。 その名を呼べば、どんなに幸せな気持ちになれるだろうか。 しかしその名を呼べば、彼の男の決心は塵になり、その身を賭しても譲らないというものたちさえも無くさせてしまうだろう。 だからウォルは、ドレイクの顔を見なかった。 ただ小さく「お前、大丈夫なのか?」と問いながら、その胸に頬を寄せただけだ。
全ての人よ うらむなかれ。
ドレイクはウォルに答えず、手に触れる漆黒の髪をさらさらと撫でた。上質な絹織物のように滑らかな手触りが、ゆっくりと眠気を誘う。 時置かず、頬を載せた胸が浅く、規則正しく上下し始めて、ウォルがようやく顔を上げる。疲れていたのだろう、当然。報告を受けた限り、ハルヴァイトが消えてからドレイクは、ほんの一時間ほど屋敷に戻った以外執務室を出ていなかったようだし、殆ど何もしていなかったが、だから余計に、彼がひとりこの場にあって様々な思考に惑わされていたのだろうと思う。 背中に回されている腕からそっと抜け出し、眠るドレイクの傍らに座ってその顔を覗き込む。いつも隙なく整えられているはずの白髪が乱れて、額にまでそれが落ちかかっていた。無意識に細い指を伸ばして邪魔な髪を梳くように払い、憔悴した頬をさらりと指でなぞるとちくりとした手触り。それにふと口元を綻ばせたウォルは、幸せそうに、本当に柔らかく微笑みながら目を閉じた。 「……………そうか…。そうなんだな、アイリー。お前も、そう、だったんだ」 俯いて、微笑んで、投げ出されたドレイクの手にそっと指先で触れ、ウォルは知る。 愛されたいというエゴを脱ぎ、与えられたいという渇望を棄て、愛している求めていると知れば、それでいい。 見返りはなくても、愛した記憶は、なくならない。 彼の青年が陰惨な過去を刹那で振り払ってしまえる程のそれは。
地獄の劫火にも似た、激情なのだ。
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