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16.全ての人よ うらむなかれ |
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特務室に到着するまでの間にタマリは、手短にだがミナミに起こった事とデリラたちがタマリを探していた事情を聞いた。それで、室長室に飛び込んだ時には既に大まかな事情を知っていたから、そこに見知らぬ白衣の女性が居るのを気にしつつも、とりあえず、タマリを待ち構えていたのだろうドレイクとアン、執務室に戻っていたアリスと、その見知らぬ女性に軽く頷きかけて、着いて来るなと言い残し、足早にミナミの私室へと向かった。 遅れる事数分。いつもながら颯爽と現れたヒューはしかし、室長室窓際に設えられたソファにふんぞり返っている白衣の女性、ドクター・ステラ・ノーキアスを見付けるなり、あからさまにイヤそうな顔を彼女から背けた。 「物凄く失礼な反応だな、スレイサー」 「医療院から来てるドクターというのは、精神科のカウンセラーなんじゃなかったのか?」 「胡散臭ぇヤブ医者なんぞよこしやがる医療院のお偉いさんに文句のひとつも言ってやろうと思ったら、なんでなのかこちらのドクターがいらっしゃったんだよ」 ステラの向かいに足を組んで座っているドレイクの、珍しいくらいに剣呑な表情をちらりと見遣ってから、ヒューが小さく肩を竦める。お前がそんな顔でお客を出迎えようというんじゃ、医療院のお偉いさんも恐れをなして逃げ出すだろうな、と言ってやろうかどうかヒューは少々迷ったが、そこで、ドアの横に立っていたアンにそっと長上着の背中を引っ張られ、余計な口を開くのは辞めた。 それもまた、判っている事実。 ハルヴァイト・ガリューが「消えて」、ドレイク・ミラキの仮面も、剥がれた。 一瞬重苦しい静寂の満ちた、室長室。不安げな表情でしきりに奥のドアを気にしているアリスと、アン少年。デリラはどこか機嫌悪そうに空の次長ブースを睨み、ドレイクとステラはお互い顔を見合わせもしないが、お互いの様子を探っている。 ヒューはわざとそこで溜め息を吐き、停滞している室内の空気を掻き回した。 ミナミのようだと思う。膠着した室内が。何かきっかけがなければ動き出さないのは何もミナミだけでなく、この「事件」に関わる全ての人間が実は、それを待っている。 そして、なぜそれに自分だけが目ざとく気付いたのか、という疑問を、ヒューは抱かなかった。
わたしは班長を信じた。 班長はいかにも彼らしく、わたしの描いた無色透明な道筋を確実に暴いている。 その志の高さが邪魔をして、 感情に流される前にそれらを斬り捨てる事が出来るだろうとわたしは彼について予測し、彼は、わたしの予測を全く裏切らず、その志の示す通りに行動している。 今回に限って言うならば、彼は冷静であり、傍観者だ。 事実を正しく受け止めている。予想と希望を混ぜようとしない。
そして恋人も、実は、このからくりにもう気付き始めている。
もしも自分がハルヴァイトだったら、というありえない話ではなく、自分がヒュー・スレイサーであってこの重大事象に巻き込まれたという事実を鑑みてみれば、例えばドレイクだとかアリスだとかのように、ハルヴァイトに様々なものを「期待」し「信用」しようとしていない分、言葉は悪いが、冷たいくらいいつもと同じに振る舞える。 もし、ハルヴァイトがなんらかの意図を隠し「どこかへ行った」としたら。あの、一秒先の近近未来を予測し尽くす悪魔が「こちらの行動を予測」し、その上でなんらかのヒントをばら撒いて行ったとしたら。 ハルヴァイトが必要としたのは、イレギュラーなし、一本道を進む「道標」ではないのか? そう考えたなら、ヒュー以外にその「真っ直ぐに進む」役割を振れる相手が、いない。 なんだかそれは有り難くない信用のされ方だな、と内心溜め息を吐きつつも、ヒューは睨み合うステラとドレイクの間に割って入るように、わざと次長ブース、応接セットの真向かいにある、ミナミのデスクを囲むカウンターに寄り掛かった。 「話が半分でさっぱり行方が判らないから質問させて貰いたいんだがな、ミラキ」 少し前まではあちこちに巻かれていた包帯が取れたばかりの腕を組み、端正な顔の数カ所に小さな傷跡を残したヒューが、温度の低いサファイヤの瞳でドレイクを見下ろす。 「なんだよ、班長」 「ミナミがドクターを蹴り出したというのは、つまり、何が原因だったんだ?」 一旦はヒューに向けられた曇天の瞳が、すぐ、正面に座るステラに戻る。 「ドクター・ラオの話じゃ、別に、何もミナミの気に障るような事ぁ言っちゃいねぇらしい。ただ…」 何かひっかかるのか、そこで言葉を切ったドレイクを受けて続けたのは、翡翠の双眸で煌くような白髪を睨んでいたステラだった。 「無理しなくていいと言ったそうだ。アイリー次長のやりたいように、ゆっくりと、事実を受け止め冷静になって欲しい、とかなんとかな」 「………………」 ヒューはそこで。 「…ステラ。悪い事は言わない、その医者をすぐクビにしろ」 思い切り顔を顰めてステラから視線を逸らし、わざとらしくも盛大に溜め息を吐いて見せた。 それのどこにミナミの発火点があったのか熟知しているようなヒューのセリフに、ドレイクが眉を寄せて顔を上げる。 「班長、そいつぁどういう事だ?」 今にもソファから腰を浮かせそうな勢いで食ってかかられても、ヒューは涼しい顔をドレイクに向け直しただけだった。しかも、なんだ判らないのか? とさえ言い出しそうな剣呑な目の色に、アンとアリスが慌てふためく。 「事実を受け止め冷静になるのは、まず周りの方だな、ミラキ。 考えてみろ。ミナミがいつ無理をした? 今だってあいつはやりたい放題で、周りに心配ばかり掛けてるんじゃないのか? それにミナミは、ガリューが「消えた」としっかり認識して、何か「しなければならない」と判っているから、その上で理由があって、部屋に篭ってるんじゃないのか?」 どんな時も無表情を貫く青年の、逆鱗に触れたのは。 「ミナミは細心の注意を払って無責任な言動を避けてる。もしあいつが無理をしているというのなら、その「無理」の原因を作っているのは、周りだ」 誰もが、待っているのは。 「………………………。だから、ミナミは、「話さない」んだ」 話せないのではなく。 話さない。 一言も。 言いたくない。 惚けたように見つめてくるドレイクやアリス。無言で睨んで来るデリラと、ステラ。それらの顔を順繰りに見回したヒューは視線の最後をアン少年に当て、小さく肩を竦めてから、「と、俺は思うんだがな」とどうでもいいように付け足した。 「…あくまでも仮定なんですけどね…」 それきり口を閉ざしてしまったヒューの後を、アン少年が続ける。
おかしな所でおかしな事になるもので、 アンと班長は意外にいいコンビだとわたしは思う。 班長は自らの立てた仮定を全て説明し正しく相手に伝えるだけの言葉を知っている。 しかし、決定的に印象が悪い。 それについてあまり他人の事をどうこう言える立場にはないが、 とにかく、班長ではどうあっても角が立つ。 だから彼はその役目をアンに振った。 拙いくらいの言葉で必死になって何かを伝えようとする、アン。 班長は、その仮定が本当の仮定であっても、聞いた者に信じさせる最良の手を、選んだ。
部屋の片隅、ドアに近い場所に佇んだままのアンがぽつりと言い、アリスの亜麻色がスライドする。 「ぼくも、その…、すごく不安だなって思うんですよ。本当に、目の前で起こった事が信じられないっていうか、理解出来ないっていうか、とにかく、何を考えていいのかも判らない感じなんです、今も。 でも、なんでそんなに不安なのかって、それをね、考えたんですよ」 本当は考えたのではなかったけれど、アン少年はあえてそう言った。 ほんのいっとき、泣いて泣いて、少年は不意に判った。例えば額を押し付けている広い胸だとか、例えば優しくもなく頭に置かれたきりの大きな手だとか、そういうもので現実を感じ安堵して、霧が晴れたように。 「どうしてミナミさんは何も言ってくれないのかなって。いつもみたいに一言、笑ってくれなくてもいいから、「あの人は戻って来るよ」って言ってくれたら絶対安心出来るのに。 もしかして、ミナミさんが泣いたら、ぼくらだって……不吉な話ですけど、諦められるのに…って」 それと同じ思いを抱いたのは、何もアン少年だけではなかった。実際、アリスもマーリィに言ったではないか。 なぜミナミは、大丈夫だよと言ってくれないのかと。 「ミナミさん、ぼくらがそう思ってて、ミナミさんが何か言ってくれるのを待ってるって、もしかしたら、最初から知ってたから」 言わないのか。 無責任な慰めも。 もがきも足掻きもしない諦めも。 「だからミナミは封じた。不安も焦燥も落胆も悲観も、全部飲み込んだ。自分の分だけでなく、この事件に関わった全ての人間のそういうものを、ミナミはひとりで引き受けた。 話す事を辞めた」 ヒューが言い終えた瞬間、ドレイクが組んでいた足を解いてすぐさま立ち上がった。しかし、それを「行くな!」と鋭く制したのは、意外にも、じっと座り黙り込んだままヒューを睨んでいた、ステラだった。 「わたしは、残念ながら、アイリー次長がどういった人柄なのか知らない。だから今の話をどう受け取ればいいのかも、判らない。 だがな、ミラキ。 貴様らのそのバカ面を見て、これだけは言える。 「そう」だと思うなら、行くな。判ったなら何もしてやるな。アイリー次長がどういう人物なのかは、わたしでなく、貴様らの方がよく知っているんだろう?」 あの綺麗な青年の逆鱗に、触れる。 「…ただし、許されるならちょっと行って説教のひとつもくれたい気持ちなんだがな、スレイサー。そんな、自分ばかり判ってる極端にパーソナルな理由で、ウチの医者の自信を喪失させるなと言いたい」 「尤もだが、ミナミの方も我侭を通したと思って今頃は反省してるだろう。証拠に、タマリは追い出されて来ないからな」 立ち上がったまま凍りついたドレイクを無視して、ステラがヒューに顔を向け眉を吊り上げると、受け取ったヒューがわざと飄々と答え肩を竦めた。しかし、ふたりの無駄な努力は結局無駄で、室内にはなんとも言いしれない重い空気がわだかまり、アン少年には、傍らで蒼褪めているアリスの手をしっかりと握ってやる事しか出来なかった。 デリラが、堪え切れずに深い溜め息を吐く。室内を代表して、か。 誰もがそうしたい気持ちだった。 沈黙が重圧として降りた室内の空気が変わったのは、ややあって、タマリが奥から戻って来た時だった。 「お? なんなの、このくらーいおもーーいくーきは」 普段よりは多少力無くもへらへらと笑いながらそんな軽口を叩いたタマリを、アリスとドレイクがじろりと睨む。それで、何かその理由を知っているのだろうタマリはやれやれと肩を竦めてから、長上着のポケットに手を突っ込んだ。 「や、まぁ、そうじゃねぇかってみーちゃん「言ってた」けどさ、あのコ、すげーよね。なんつうか、もう、判っちゃってるみたいよ、全部」 「言ってた? ってタマリ!」 いきなりアンを突き放したアリスが、クラバインの肱掛椅子にぴょんと飛び込み足を組んでくるくる回っているタマリに詰め寄る。 「あん? あー。言ってたつっても、筆談ね。簡単な単語のやり取り。ま、初歩的な意思の疎通だわね」 強引に回転を止められて亜麻色の瞳に睨まれたタマリが、平然と答えつつポケットに突っ込んでいた手を引き抜く。 「みーちゃんからのメッセージは、今んとこ、こんだけ」 角の折れ曲がった掌サイズの小さなメモ。一秒前までの険しい表情を惚けたものに塗り替えたアリスの眼前に翳されたそれには、たった一言、「ごめん」とだけ丁寧に綴られていた。 何も言ってやれなくて「ごめん」。 我侭を言って「ごめん」。 まだ判らなくて「ごめん」。 何もしたくなくて「ごめん」。 そして。 それさえも言いたくなくて「ごめん」。 どうとも取れる、簡単なのに意味の深いたった一言。顔の前に突き出されたメモをタマリから奪い取ったアリスは呆然とし、それを覗き込むなりアン少年はそっと瞼を伏せ、アリスの手からそれを受け取ったデリラは無表情に、でも、小さく息を吐いてヒューにメモを手渡し、綺麗で細い文字をひとつずつ目で追ったサファイヤが、苦笑ともなんともつかない複雑な色を浮かべる。 端っこの折れ曲がった部分をきちんと伸ばしたメモを、ヒューが最後のドレイクに渡そうとした。しかし、それをタマリが、「待てい」と腑抜けたセリフで停める。 「レイちゃんにはこっちね。みーちゃん、心配してたよ?」 そこだけ少し真剣な表情で小さく言い置いたタマリが、折り畳まれたメモをドレイクの手に押し付けながら、ヒューに目配せする。それを受けて頷いた銀色が乱暴にステラの腕を掴んでソファから連れ出し、デリラと、アリスと、アン少年も促がして、室長室から出て行った。 膝に投げ出した掌に乗る、ちいさなメモ。白いそれから視線を逸らさないドレイクに無理矢理背中を向けたタマリは、微かに震える唇を動かして何か言いかけ、やめた。 足音を忍ばせるようにして室長室から逃れ、後ろ手にドアを閉ざす。いっとき、沈黙した冷たい隔たりみたいなそれに背中を押し付けて足元を睨んだタマリが、ふん! と気合を入れ直して顔を上げると、事務官のジリアン・ホーネットと目が合った。 「電脳班の執務室でみなさんお待ちですよ、タマリ魔導師」 「うん…。で、さ。ねージルちゃん? 好きな人とかいる?」 「なんですか? 急に」 問われたジリアンが、生真面目そうな顔に意味不明の笑みを浮かべる。 「もしその人が急に目の前から消えたら、どう思う? って訊きたいの」 少女のような頼りない笑顔をひととき見つめ、ジリアンは不意に立ち上がった。 「そういう質問は、ご自分にどうぞ」 白手袋がすと伸びてタマリの細い手首を掴み、無理矢理広げた掌をタマリ自身の胸に押し付ける。それが何を意味するのか、タマリは一瞬きょとんとジリアンを見上げ、見上げられたジリアンが、また、少し弱ったように微笑んだ。 「……あなたも、やったでしょう?」 告げられて、瞬間、タマリは自分の胸に置いた手で深緑色の長上着をぎゅっと掴んだ。 「何か、お茶でもお持ちしますね」 見開かれたペパーミントグリーンの瞳に笑いかけたジリアンが、掴んでいたタマリの手首を離し踵を返すと、衝立で区切られたスペースへと消えて行く。その漆黒の背中を見送って、それから俯きばりばりと黄緑色の髪を掻き毟った男は、わざとのように「はぁあ」と盛大な溜め息を吐いた。 「怖いよ、特務室。シャレなんねぇ、ここ…」 ふえ、とわざと泣くマネをしながらとぼとぼと電脳班執務室に繋がるドアに歩み寄るタマリの足音を、ジリアンが衝立の向こうで笑っていた。
折り畳まれたメモを開いて見ようと思うまで、随分時間がかかった。 どれくらいか、ただ虚空を見つめていた。ようやくその存在を思い出し、項垂れるようにして、膝の上に載せた掌でかさりと鳴ったメモに視線を落とす。 そこにもまた、綴られていたのは短く一言。 「あなたは、どうなんだ?」と。 その一文字一文字を目で追って、ようやく理解してからドレイクは、メモをまた丁寧に折り畳み長上着の隠しに忍ばせた。 ふと、引き結んでいた唇に自嘲の笑みが登る。 同じ質問をした覚えがある、ミナミに。 あの時、彼はなんと答えただろうか。 それをなぞるようにドレイクは、無言で首を横に振った。 そして、ようやく判る。 あれは、否定ではなかったのだ。疑問でもなかったのだ。 拒絶だった。 答えることを拒む仕草だった。 ようやく判ったのに。 ハルヴァイトは、ここにいない。
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