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16.全ての人よ うらむなかれ |
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(4) | |||
異変はすでに、あのサーカス主天幕から始まっていた。 残された緋色のマントを抱きかかえたミナミは、俯いて長い睫の先を微かに震わせ、何か問うように唇を動かしただけで、一言も発しなかった。 その後、設備を半ば放置した状態でジョイ・エリアから引き揚げ、特務室で彼らの帰還を待っていたグランたちと話をし、通達を待つようにと言い渡されてそれぞれが執務室に戻るまで、ミナミは口を開こうともしなかった。 ただ、いつも以上に無表情なまま、ソファに座っていただけだ。 その直前までああも取り乱していたウォルでさえ、ミナミたちが特務室に戻る頃には落ち着きを取り戻していて、胡乱な蒼い瞳で室内を見回したミナミに痛ましいような表情を向けた時以外は、気丈にも、いつもと同じように振る舞っていた。 この世にひとり残された恋人の心情は、誰にも計り知れない。 だから、ミナミに掛ける言葉すら見付けられず、誰もが、ふらりと私室に足を向けた彼を見送った。 見送って、後悔し、なぜ誰もハルヴァイトを停められなかったのかと自らを責めただけだ。 安っぽい慰めはない方がいいと思いながらもウォルがミナミの私室を訪ねたのは、せめて、彼の傍に居てやろうと思ったからなのか。 ウォルが私室に入った時、ミナミは床に座っていた。抱えた緋色のマントを膝に流し、ぼんやりと天井を見上げて、ゆっくり、緩慢に瞬きを繰り返す。 薄闇にぼうと浮かんだ白皙からはなんの感情も窺い知れない。元より無表情な青年だったが、今はまるでその存在まで希薄になってしまったかのような、そんな空っぽの横顔。ウォルは暫しそれを見つめ、それからミナミの正面に座って、触れてはいけない彼の深過ぎるダークブルーを覗き込んだ。 何を語りかけたのか、よく憶えていない。 どこでミナミがウォルに顔を向けたのかも、憶えていない。 気がつけば青年は真っ直ぐにウォルを見つめ、緋色のマントを掻き抱き、微かに唇を動かして……………………。
ふと、笑みを零した。
はっとするほど透明で綺麗な笑顔だった。儚いけれど。幸せそうだとさえウォルは思った。その、刹那の安堵が真っ暗闇に突き落とされたのは、すぐ次の瞬間だったが。 ミナミが唇を動かす。なんだ? と仄かな笑顔で小首を傾げても、ミナミは言葉を紡がない。ただ微かに淡い色彩の唇を開き、すぐ、何かを諦めたかのように閉ざし、それで、お終い。 瞼を閉じて、俯いて、ほんのりと微笑み、首を横に振る。 薄蒼い闇の中で毛先の跳ね上がった金髪が揺れ、ウォルは悟った。 廊下に飛び出す。 誰の名前を呼んだのかは、記憶にない。 ただ、最初にその、半狂乱で喚く彼を支えるように腕を伸ばしたのは。 忘れたつもりの、煌くような白髪と曇天の瞳。 膝から床に頽れそうになったのを支えられ、縋り付いて、ウォルは彼の顔を見上げた。 全てを棄てた男。 護るために自分を切り捨てた男。 それでも誰より先にその手を伸ばした男。 判っている。 その手は、ウォルに差し伸べられたものでは、ない。 やっとの思いでミナミの様子がおかしいと訴えたウォルをクラバインに任せ、ドレイクはなんの未練もなく彼の手を離した。 何があったと訊いてもミナミは答えない。ただ繰り返し首を横に振るばかりで、言葉を発しようとしない。 その後、急遽医療院から呼び寄せられたのは、精神科のカウンセラーだった。
ミナミはその時、ぼんやりとカーテンを引いたままの窓を眺めていた。 ノックの音がしたが、答えるべき「声」がない。だからミナミはうっそりとドアに顔を向けただけで、それが開くのを待つ。 ドアはすぐに開いた。そこから顔を覗かせたのはドレイクで、だからミナミは小首を傾げて何か問うような表情を作って見せただけだったが、その後ろに佇む見知った男の顔を見た時は、さすがに、ちょっと驚いたように目を見張る。 「医療院精神科のカウンセラー、ドクター・ラオだ。つってもよ、おめー、アレだろ? 昔、ドクターがまだ看護師だった時に、会ってんだよな」 ドレイクが無理して笑いながら説明したのに、ミナミは微か眉を寄せた。無理などしてくれる必要はない。どうして何も言わないのかと責めてくれてもいいのに、なんでミラキ卿はそうなんだろな、と言ってやりたい。 「久しぶり、だよね」 ドクター・ラオ・ウィナンは、ミナミの記憶にあるのよりも随分大人びた笑顔で小さく会釈してから、口元に昔と変わらぬ人懐こい笑みを浮かべた。 飴色の癖毛を短めに整えた、穏やかな、というよりは、文句なく誰でも安心させてしまうような、優しい笑顔。柔和という表現がもっともしっくり来る印象は、歳を経たからなのか、あの頃より一層彼のものになっていた。 ミナミが、微笑みかけるラオに力ない笑みを返しながら、唇を動かそうとする。しかし、ラオはすかさず自分の唇に立てた人差し指を当て、青年の…無駄な努力…を遮った。 「謝罪とか、言い訳とか、そういうのは聞きたくない。それよりも僕は君に、僕の話を聞いて欲しいんだよ、ミナミくん」 言われたミナミが、床に座ったままどこか不思議そうに小首を傾げる。 「聞いて貰いたいんだ、僕は。君が……何かを僕に話したくなるまで」
ラオをミナミの私室に残したドレイクは、電脳班の執務室に戻るなり待ち構えていたアリスにソファに押し込めらた。 「それで、ミナミはどうなったの」 「…どうって……」 半ば脅迫するような口調で詰め寄ってくる赤い髪の美女から渋い顔を逸らして、ドレイクが短くも疲れた溜め息を吐く。 「ミナミに何が起こったの? どうして一言も喋らないの? なんで部屋から出て来ないの? ねぇ、ドレイク、ミナミは、どうしちゃったのよ」 たたみ掛けるような質問をどこかぼんやりと聞きながら、ドレイクはソファの背凭れに身体を預け再度溜め息を吐いた。こんな時でなんなんだけどよ、と内心自分に言い置いてから、アリスと、無言でデスクに腰を下ろしじっとドレイクを見つめているデリラにミナミの「病状」を説明すべくつい今しがた聞いたラオの説明を反芻しながらも、意識は全く別の事に囚われている。 正直ドレイクは、昨日までとは違った意味でハルヴァイトに心底感心していた。そう、全てはミナミだ。どうしてあの青年は、周囲の人間が何か起こそうとする時、こうもタイミングよく何かしでかすのか。 ハルヴァイトの言っていた事を思い出す。 ミナミには、予想も予測も意味を成さない。 ミナミが関わると、全てがゼロになる。もやもやと不安な状態ではない。余りにもクリアにすっきりと、全てが「始め」の状態に戻ってしまう。
だから、可笑しな話かもしれませんが、彼はいつでもこの世界を裏切り続け、でもそれは、やり直しという機会を与えてくれているように思います。
そう多くはミナミの事さえ語らないハルヴァイトが、ちょっと困ったように笑っていたのを思い出す。 ドレイクは、無意識に眉をひそめた。 「…なぁ、デリ。俺は、間違った方向に行こうとしてたのか?」 不意に、ドレイクが呟く。 「おれぁそう言いましたけどね」 素っ気無く返してきたデリラの横顔に視線を流し、ドレイクは微かに失笑した。 「ミナミに、停められた気がしてしょうがねぇよ…」 ハルヴァイトは無責任に姿を消し、それなのに、一言も発しないミナミが違うと訴える。なんてこった。とドレイクは再度苦々しく口の端を歪めてから、それらの思考を振り払うように首を横に振った。 「ミナミは」 常より沈んだ声で言い直したドレイクの顔を、アリスの亜麻色がじっと見つめている。 「ショックで一時的に声を無くしたんだろうってのが、ドクターの意見だ。いわば精神的なモンだろうってな。元々、ミナミの内面に脆い部分が多いのは判んだろ? 誰にも触れねぇってのと、同じような状況らしい」 「一時的? じゃぁ、すぐ元に戻るの?」 一瞬、アリスの表情に安堵の色が浮かぶ。しかしドレイクはそれを…非情にも…否定するように、益々の渋面を作った。 「すぐにかどうかは、判らねぇ…。原因は、ハルが消えちまった事以外に考えられねぇだろ。だとしたら、もしかすると…………」 もしかしたら。 「まさか、ハルが戻らなければ、一生ミナミはあのままだって言うの!」 はっと蒼褪めて両の拳を膝の上で握り締めたアリスから視線を逸らさずに頷く、ドレイク。 ハルヴァイトが戻らなければミナミは、あの苛烈で容赦ない突っ込みもなく、素っ気無いからかいもなく、ただ無表情に、時折力無く微笑み、諾々と流れ去る時をあのダークブルーの双眸で眺めるだけで、生涯を………………閉じるのか。 刹那で見失ったハルヴァイトを探し。 「そ…な……………」 大きく見開かれた亜麻色の瞳に、透明な幕が薄っすらと浮かぶ。 「そんなのって、ないっ!」 アリスは、まるで癇癪を起こした子供のように真っ赤な髪を振り乱して叫ぶなり、ソファから飛び出し部屋を出て行った。追うべきがそっとしておくべきか悩む間もなく、そんな余裕もなく、残されて、ドレイクが深く重い息を吐く。 「…タマリ、探しに行ってきますかね、おれも…。アレでしょ、ダンナ。タマリなら、ミナミさんの「声」がどうなったのか、すぐ判んですよね」 「…ああ。多分な」 喘ぐようなドレイクの返事を待たずに、デリラもまた執務室を出て行った。 残されて、ドレイクは瞼を閉じる。 なぜ、アリスは泣かないのだろうかと思った。 なぜ、自分はこんなにも冷静なのだろうかと思った。 そして。 「なんで、ミナミは泣かねぇんだよ…………………」 緋色のマントを抱えた彼の恋人は、一粒の涙も、見せてはいなかった。
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