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15.赤イ、毒ニ濡レタ月

   
         
(15)

  

 一直線の廊下を行き止まりまで進み、ミナミたちは周囲の小部屋をひとつひとつ解放して、内部を探索した。一辺が五メートルばかりの正方形の部屋はイルシュの監禁されていた場所よりも狭く、調度品は何もない。本当にただの空白みたいな寒々しい光景に、それぞれの室内を覗き込んでは何か物証を見つけ出そうと歩き回る衛視たちも、徐々に口数が少なくなっていた。

 こんな場所に長期間監禁されていたとしたら。

 背筋を冷たい汗が伝う。

 衛視と伴に室内を巡回するブルースは、静かに息を吐いた。

 この空間を見れば、判る。理解出来る。

 ひとりを怖がり、無口で滅多に笑顔を見せないながら執務室に詰めている事の多いウロスの向かいに座り、何時間も黙って過ごす忍耐だとか、スーシェの居る小隊長室に入り、ドアは開けたままでいいかと申し訳なさそうに問う蒼褪めた表情だとか、意地悪ばかり言うタマリの後ろを、それでも嬉しそうにくっついて離れない、零れるような笑顔だとか。

 そういう、イルシュの、気持ちが。

「判る、ってそういう高慢な言い方は出来ません。でも、僕にも理解出来るような気がします」

 幾つかの部屋を見て回った後でミナミの元へ戻ったブルースは、赤銅色の瞳を床の一点に据え、呟いた。

「…正直、あなたの事は判りません。スゥ小隊長から話も聞きましたが、僕には、あなたの感じる「恐怖」は一生理解出来ないと思います。でも、今は少しだけ、僕に何が出来るのか、考えられます」

 少年は、少年の言葉を紡ぐ。

「イルシュの手を突き放してはいけないのと同じに、あなたには、ガリュー班長を見失わせてはいけない」

 理解しようとする努力を、少年は。

「…そう思ってくれる君が居るって、俺には、それだけで充分だよ。だって俺は…」

 ミナミは言って、自分の掌を見つめた。

「いつか、君と握手したいな、とか、ちょっと思う」

 その時ブルースは始めて、あの、ミナミの口元に登る儚い笑みを見た。

 ふわりと弧を描いた色の薄い唇。

 溜め息の出るような、綺麗な笑顔。

 目の離せない、危うさ。

「………………」

「何そこで色気出してんのさ、うちのガキはぁ!」

 で、真横から突進して来たタマリに思いきり突き飛ばされて、惚けた表情のまま佇むジュメールに突っ込んで抱き止められた。

「さぼんなボケ。あと、みーちゃん口説いたらハルちゃんに半殺しにされるのよ、この国では」

「つうか国単位になったのかよ、その法則…」

「全世界単位でもいいよ、別に。そういう勢いでしょ? ハルちゃんときたら」

 うはははは。と相変らず気に障る声で高笑いするタマリを、ジュメールに抱き留められたまま睨む、ブルース。それで、一瞬降りた重苦しい空気が浮上し、衛視やウロス、ケイン、イルシュまでがくすくすと笑い出す。

「まぁ、どういう勢いかはさて置き、近いものはありますね。だって、陛下でさえ、ガリュー班長を黙らせたいならアイリー次長を味方に付けろと仰いますから」

 こちらも相変らずにこにこと言い足したルードリッヒの横顔を見上げて、ミナミが唸る。

「俺、そんな話知らないんだけど? いつ誰が言ったって?」

「は? 僕、何か言いました?」

 うわ、出たよ、隠れエスト卿め。と誰もが内心吹き出し、言い返す言葉を失ったミナミが無表情のままルードリッヒから顔を背ける。

「…なんか俺さ、最近、このネタで旗色悪いのは気のせいか?」

「まー、最近のハルちゃんの暴挙はみーちゃんでもどうしようもない時あるからね、しょうがないんじゃないの?」

 一通りあちこち探索していた衛視たちも戻り、先にも進めないという状況で、さてどうしたものか、とミナミは首を捻った。その間、タマリとブルースは適当に選んだ部屋へそれぞれ入り、臨界式データ解析で室内を調査してみようと話し合っている。

「廊下…部屋。部屋数は確認したよな? それで、後は行き止まり。次に進めそうなのは、前にイルシュの「サラマンドラ」が開けた、下に続く穴だけ?」

「はい。目視だけですが、サーンス魔導師の監禁されていた部屋のほかには、なんらかの痕跡が残されている場所はありません。これらの部屋はどうやら、本来外殻と外殻の間にある未使用空隙にドアを取り付けただけの物のようです」

 五層あるファイラン浮遊都市外殻。百メートルにも及ぶ都市の殻。隔壁区画を除いても七十メートル以上ある都市の外側を形成する分厚い壁と壁の間にある緩衝構造を勝手に区切って作られた空間は、総延長三百メートルに達していた。

 しかし。

「今確認されてんのはこの階層と、ひとつ下だけだよな? えーと…クインズ」

「何か? アイリー次長」

 呼ばれてミナミの傍に寄ろうとしたクインズに、ミナミが小さく頷きかける。

「今まで調べたこの施設のマップさ、ファイラン外殻マップと照合して、ここがどの辺りなのか確認してくんねぇ? 俺の記憶が間違ってなきゃ、ここ、さ…」

 そこでミナミは一旦言葉を切り、眩い光に溢れた天上を見上げた。

「サーカス・ブロックの下に向かって回り込んでんじゃねぇかと思うんだよな。そうでなくちゃなんねぇし」

 え? と誰もが息を飲む。

「待ってって、みーちゃん。確かに上下はしたけど、基本的に真っ直ぐ来たじゃん、アタシら」

「うん。外壁に空いた整備用ハッチから入って、下がったり進んだりして、確かにさ、感覚としてはいっつも直線上に移動してるとは、思うんだよ。でも、さ。平行感覚として、かな、俺は途中、何度も廊下がラウンドしてるつうか………」

 上手く説明出来ないのか、ミナミが微かに表情を曇らせる。

「斜めにこう…さ」

「「ああ!」」

 ミナミの違和感を最初に理解したのは、意外にも、いや、ある意味当然か? ルードリッヒとクインズだった。

 顔を見合わせていかにも得心したように頷く、ふたりの衛視。

「錯覚ですよ、タマリ魔導師」とクインズが言うと、ルードリッヒが「そう」と引き継ぐ。

「タマリ、さっき僕らに言ったよね? この場所が広く見えるのは錯覚を利用してるって。それ、どういう事?」

 問われて、ふにゃ? と首を傾げたタマリが、少女のような顔を顰めて天井を仰ぐ。

「つまりさー、こことかもそうなんだけど、白一色で遠近感悪いじゃない? だからね、実はここ、なんつうか、距離として入り口から行き止まりまでの丁度真ん中辺りでさ、天井が高くなってんのよ。だから全体としてやけーに高く見えるんだけど、実際、この真上とかはさ、五メートルかそこらしか……」

 錯覚。

「およ?」

 そこでタマリも、気付いた。

「何箇所かエントランスみてぇな広い場所に出るだろ? ここに来るまでに。そのエントランスの形状に仕掛けがあんだよ。真っ暗な廊下から急に明るい場所に出る。そうするとさ、目が光に慣れるから、後ろを振り返っても廊下はやけに暗く見えるだけ。で、エントランスは微妙に歪んでて、進路は斜めに配置されてんのに、直線で廊下と廊下を繋ぐ線が曖昧になる」

 歪んだ渦を巻くように設計された、錯覚を利用してその渦を目隠ししている、内部構造。

「更には、ここが外殻地下であると思わせるために、一部の廊下はファイラン外層と同じ湾曲値で緩くカーブしている。もしこの施設だけを先に発見したとしても、まさかこの最奥がサーカスの地下層に通じているとは、思い難いでしょう」

 つまり。やはり、か。

「サーカスとこの場所を繋げて考えられたら困るような事があるから、かな」

 付け足すように言い置いたケインが、軽くウロスに目配せした。

「各自端末の回線をオープン」

 言われてそれぞれが携帯端末を取り出すなり、モニターに映し出される、ファイラン外殻マップ。緑で表示されたそれに、距離と形状を補正した赤いワイヤーフレームが重ね合わされて、誰もが、あっと息を詰める。

「おいおいおい。こんじゃゼロエリアに来ちゃってんじゃんよ」

 確かに、ラウンドした廊下やエントランスのおかげで施設は奇妙に歪んでいた。しかし、その歪みは螺旋というよりは斜めといった風で、今現在ミナミたちの居る場所は、ゼロエリアの地下層、囚人の作業区域辺りになってしまっている。

「違うよ、ウロスさん。エントランスの形状はもっとひし形」

 じっとモニターを睨んだままのミナミは呟いて、苛立たしげに眉を寄せた。

「上手く説明出来ねぇけど、こんなに直線じゃねぇ」

 ミナミは、感じている。

 何かが、狂っている。

「判った、みーちゃん。施設全体の詳細な計測は、アタシとクソガキが後でやる。だからここでは仮定で話ししよ。

 結局みーちゃんはさ、どうしてここがサーカスの下に回り込んでなくちゃなんないって思うのさ」

「超重筒の形状から言ったら、隔壁区画の地下にそれ隠すの、無理だから」

「…まぁ、確かにそうだね」

「それに……………」

 ミナミは不審そうな周囲の顔をひとつひとつ見回してから、なぜか、高い天井を見上げた。

「さっきからずっと、頭の上で電脳陣が幾つも稼働してんだよ。とんでもない数の、さ」

 釣られて頭上を見上げた誰もが、しんと静まり返った静寂に紛れる「何か」を探すように、耳をそばだてる。

 神経を尖らせる。

 肌で感じようとする。

 しかし。

 それ、が判るのは、ミナミだけなのか。

「だったら余計に、この階層と下が通じてないのはおかしいか。しょうがねーな。おーいクソガキ。お前ちょっと…」

「タマリさん! ちょっとタンマ!」

 いかにも面倒そうにがりがりと黄緑色のショートボブを掻き毟ったタマリが、眉を寄せて不愉快そうな顔をするブルースにこっち来いと手招きした途端、はっと表情を固くしたイルシュがタマリを制した。

「ブルース。この前ここに来た時、ジュメールを探した時に紛れ込んでたアスタリスクの原型って、データに残ってる?」

 何が判ったのか。何に気付いたのか。それまでどこかしらそわそわと周囲を見渡したり、恐々小さな部屋を覗き込んだりしていたイルシュの琥珀が、今はぴかぴかと光っている。特別誰も口には出さなかったが、この地下施設に入ってからずっと、電脳魔導師隊第七小隊の面々はイルシュとジュメールの目の届く場所に必ず誰かがおり、少しでも少年や青年に変わった所、例えば不意に緊張した面持ちで背後を振り返ったり、目の前のドアノブに手を出すもののそれが開けられなかったり、があれば、何気無く近寄って声をかけ、その手を握り、行こうと促し、また別の誰かがにこりともせず手招きしていたものだ。

 ミナミは見ていた。その全てを。戸惑うジュメールやイルシュが少しでも不安を感じないようにと、仲間たちが心を砕いていたのを。

 ああ、そうか。とその時イルシュの顔を見て、青年は思った。

 自分もそうやって、少しずつ、変わっていたのだと。

 ドレイクや、アリスや、アンや、デリラや…。

「あのひとも、陛下も、ヒューも。もちろん、ルードとクインズもさ」

 呟いて、ふ、とミナミの口元に零れた淡い笑みに視線を向けたルードリッヒが小首を傾げ、何か確かめるようにクインズへ視線を移す。それに、不思議そうな表情で首を傾げて見せた部下の顔を見遣ってからミナミは、「なんでもねぇよ」と溜め息みたいに囁いた。

「アスタリスク? んなモン報告になかったじゃん」

「え? あ…。あー。えーと。報告し忘れてたって言うか…」

 何やら顔を突き合わせてああでもないこうでもないと言い合うイルシュとブルースにつかつか歩み寄ったタマリが、かなり座った目付きで少年たちを睨む。別にそれが怖かった訳ではないだろうが、ふたりは同時にタマリから視線を外し、イルシュだけがすぐあたふたと小型の臨界式モニターを立ち上げて見せた。

「色々あって失念していただけです、タマリ「魔導師」」

「てめーぶっころすっ!」

 ふん。と鼻息も荒くそっぽを向いたブルースにカチンと来たらしいタマリが、言うなり床を蹴って、偉そうに腕を組んだ赤毛の少年に飛び付く。骨ばった握り拳でぽかぽか叩かれつつもブルースは涼しい顔を崩さず、終いには、首からタマリをぶら提げたまま平然と「ミナミさん」などと言って来た。

「つうか、相手してやった方がいいんじゃねぇ? タマリの…」

「あまり上官を甘やかさないようにと、スゥ小隊長に言われてますから」

「いや、甘やかしてねぇだろ、それは」

 うあーん、クソガキが相手してくれないよー。と悲痛な悲鳴を上げるタマリを無視して、会話は…続く。

「それで、今サーンスの言った「アスタリスク」ですが、前回の探査時に施設を臨界式データ表示したとき、言語不適合で解読不能な記号というのが現れたんです」

 ついに煩くなったのか、首からひっぺがしたタマリをジュメールに押し付けたブルースが言い、その後をイルシュが引き継いだ。

「うん。最初の通路にも実はそれがあったんだけど、おれ、そこが隠し通路の入り口だって判ったから、脳内マップにはその「アスタリスク」を出入り口ないし通路に振り分けるって命令しちゃってて、後でマップを臨界式ディスクに焼いて届けるようにって言われた時も、その解読不能記号は自動的に「ドア」の標記になっちゃってたんだ」

「? だからってそれ、別に問題ねぇんじゃねぇの? ここいらのおおまかなマップ、最初にタマリに調べて貰ったって事はさ、その、「向こう」が隠したかった「ドア」ってのも、もう判ってるって、そういう事だろ?」

 無表情に首を捻ったミナミに頷いて見せながらブルースは、バックボーンで立ち上げた臨界式モニターに現在地を含む施設のマップを表示した。

「判っているから、判らないんです」

 その微妙な物言いに、タマリも頷いた。

「ああ、判った。意外と賢いじゃん、うちのちびっこどもは」

「じゃぁ今も判らねぇ俺は賢くねぇんだ」

 いやそこは突っ込み所じゃないでしょう、次長。と、思わずクインズの方が突っ込む。

「あ、ぼくも判りましたよ、次長」

 にっこりと微笑んだルードリッヒを、ミナミはちょっと睨んだ。

「というか、次長も答えには辿り付いてます」

「は?」

 きょとん、とあのダークブルーを見開いたミナミの、どこか子供っぽい表情にますます胡散臭い笑みを向けたルードリッヒは、ゆっくりもう一回同じセリフ言って貰えますか? と小首を傾げた。

「…どれ?」

「次長の、みっつ前の発言です」

「だからって、それ、別に、問題ねぇんじゃねぇの? ここいらの、おおまかなマップ、最初に、タマリに、調べて貰ったって、事はさ、その、「向こう」が、隠したかった、「ドア」、ってのも、もう判ってるって、そういう、事だろ。……………」

 ミナミの対応の速さと、棒読みながら寸分違わぬ言葉の内容に、判っていても驚きを隠せない。この記憶力は脅威的だと改めて思う。何せミナミは、みっつ前とルードリッヒに言われて考える間も置かずに、全く同じ言葉を紡いだのだから。

 しかし、ミナミにとってそれは問題でも驚きでもなかった。それよりも、自分の言った言葉の内容に、驚きを感じる。

「そう…だな。うん。そうか。本当なら「アスタリスク」って表示されるはずの「秘密」が明白になってるって事なんだよな、それって」

 確かめるようなダークブルーがブルースとイルシュに向けられ、少年たちは頷いた。

「つーまーりー。隠したい「ドア」の先にあるはずのモンが、この場所の「秘密」」

 ぴ、と人差し指を天上に向けたタマリが、ジュメールの腕からするりと抜け出て、にやりと唇を歪める。

「しかし、その「ドア」はすでに明白になっている」

 ブルースの涼しい顔を照らす臨界式モニターの中、壁面や天上部分までもワイヤーフレームで表示された3Dマップが、くるくると回る。

「だから。今のおれたちには「何が秘密」なのか、マップの全景が判っているから、判らないんだ」

 言い切って固い笑みを見せたイルシュの眼前で待機していたモニターに、ぽ、と…、白っぽい記号が…………燃えた。

 それが、「アスタリスク」、ドアの正体。砂嵐の描く長方形に燃える、白い炎のような。

「…………………」

「にしても、見事に読めないわぁ、これ。なんなの? 一体」

「さぁ。任意の記号とかじゃない? おれも読めなかったよ」

「取り込みの可能性もあるよ。まぁ、つまりは「当て字」みたいなもの…」

「違う」

 イルシュを取り囲む形で言い合う魔導師どもを遮って、ミナミはきっぱりと言い放った。

「当て字でもねぇし、任意の記号でもねぇし、読めない文字でもねぇ」

 ただでさえ静かに彼らの出す結論を待っていた衛視たちの間に、更なるせ静けさが降りる。その、どこか探るような気配にわざと溜め息を吐きつけたミナミは、「燃え上がる炎に似た記号」を白手袋で指差し、なぜなのか、形のいい眉をきゅっと吊り上げた。

 怒っている顔だ。と誰もが思う。柳眉を微かに吊り上げて瞬きが極端に減るのは、ミナミが怒っている証拠なのだ。

 ではなぜ、ミナミは、怒っているのか。

「それ、「ウツロ」っていってさ、空白を示す記号。…でも、その前と後に「特別」な記号が並ぶと「ゲートウェイ」に転化する」

 それが「門」になると、ミナミは無表情に吐き棄てた。

「っていうかみーちゃん。これ、読めんの?」

「…………………」

「あー。そうだね。うん、ごめんごめん。質問変えよう、素直にさ。

 あのさ、みーちゃん。これ、なんなの?」

 控えめに問い、すぐに薄暗く唇を歪め直したタマリが、全身でミナミに向き直り再度問う。訊きたい事を遠慮するのは性に合わない、というような彼の表情は、空っぽの笑みを満面に浮かべただけのものだった。

「…第一期臨界式記号。臨界の基本構築式に使われてて、その後の臨界式記号の基礎になったモン」

 自分で言って、ミナミは猛烈に………落ち着かない気持ちになった。

 何かが引っかかる。大切な事。なぜアドオル・ウインの隠匿していた施設に、その記号が存在するのか。なぜここでその…ミナミには馴染みのある炎が…燃えているのか。

「って! じゃぁ、もしかしてこれがあの」

 そこまで言って、タマリは慌てて口を閉ざした。

「? なんなの、タマリさん」

「なんでもねぇです…。忘れて忘れて」

 のほほ。と引き攣った笑いを不思議顔のイルシュに向け、タマリは数歩後退った。

 タマリはほとんど憶えていないのだが、臨界ファイラン階層制御系セカンダリ・システムとして一旦「臨界に迷った」事のある彼は、この記号に接触しているはずだった。しかし、莫大過ぎる情報が一瞬で脳に到達するため、殆どの場合記憶が吹っ飛んでしまうのだ。だから例にも漏れずタマリも「臨界基底言語」というものの変換コードを取り逃がし、結局、臨界構築式を判読出来ないままでいる。

 ただし、この言語は珍しいが使用者のいない幽霊言語ではない。証拠に、ハルヴァイトの身体に刻まれた「臨界占有率表示(プライマリ・テスト・パターン)」はこの第一期臨界式言語で標記されているし、その存在自体は魔導師であれば知ってはいるのだ。

 しかし、実物を見たものは少ないし、そもそも、こんな曲線だらけのハンドフリー記号が臨界式文字だとは、誰も思わない。

 ちょっと難しい顔で唸りながらタマリは、ふとミナミに視線を向けた。じっと燃える白い炎を睨んだまま身動きひとつしない青年の、俄かに緊張した顔が気になる。

「えと。んで、あのさ、みーちゃん…」

 そこまで言ってもタマリには、今自分が何をミナミに言おうとしているのか判らなかった。ただ、黙っていてはいけないと思う。何か言わなければならないような、そんな意味不明の焦燥に駆られて、タマリはおどおどと口を開いたのだ。

 ミナミは、見ていた。イルシュの目前で燃える記号を。文字を。何かを現す符号を。意味の有る、それ。

「群(む)」「虚(うつろ)」「有(ある)」で「ゲートウェイ」。それらを含む構築式を使用したプログラムの中には、臨界において現実面の「データ」を改竄するものもある。

 それで何が出来るとハルヴァイトは言った? それで何が可能だとあの赤い背表紙の本に記してあった? それで。

 臨界において現実面の「データ」を改竄し、その改竄したデータに乗っ取って現実面に干渉するプログラムがあると、言わなかったか?

「…………予定変更。ルード」

 結局何を言いたいのか判らず口を閉ざしてしまったタマリにゆっくりと顔を向けながら、ミナミはルードリッヒに手招きした。

「悪ぃけど、俺、サーカスに行くから、ここ頼む。それで、タマリ」

「え? つうか、サーカスって、何さ、みーちゃん」

「…ごめん、上手く説明出来ねぇけど、俺…何か…………勘違いしてた」

 違う。そうではない。ミナミは、やっと気付いた。

「ブルースくんとタマリは、この施設内部のあの記号、全部探してマップにマーキングしといてくんねぇ? とりあえず」

「ちょっと。みーちゃんてば!」

 言いながら既にミナミはタマリ以下第七小隊の面々に背を向け、通路を逆に走り出そうとしている。まさかその腕を取って引き止める訳にも行かないものだから、タマリは慌ててミナミを追い越し、目前に立ち塞がった。

「衛視は調査続行。以後はルードの指示に…」

「ではなく、クインズの指示に従うように。まさかミナミさん、ひとりでサーカスまで行くつもりじゃないですよね?」

 掴み所のない笑顔をミナミに向けてからルードリッヒが、その視線だけを傍らのクインズに流すと、相棒はそれを受け取って短く溜め息をつき、諦めたように肩を竦める。

「どちらも言ったって利いてくれっこないんですから、ぼくは文句言いませんよ」

「そりゃアタシも同感。つう事で」

「は?」

 タマリは、に、と少女じみた顔に不敵な笑みを載せ、羽織っていた緋色のマントを外すなり、それをきょとんとするブルースに投げ付けた。

「こっち、あんたに任すわ。途中でみーちゃんになんかあったら一大事だもんね、あたしもサーカスまでちょっくら行ってくる。年長者のけーちゃんとうろんちゃんの注意はよく聞くように。それから…」

「……………」

 戸惑う赤銅色の瞳を下から覗き込み、色褪せたペパーミントグリーンが微笑む。

「イルくんとじゅーくんの事、しっかり頼むよ、“ルース”」

 そう言われた瞬間、ブルースが「あ」の形に口をぽかんと開ける。

「うし、行こ、みーちゃん」

 促されて、一旦クインズに頷きかけたミナミとルードリッヒが速足で通路を逆行する。真っ白な光に満ちるエントランスを突っ切りながら、ミナミはにやにやしているタマリの横顔をひょいと覗き込んだ。

「ルースって、なんで?」

「うん。ヘイゼンがね、そう呼んでたって言ったからさー。あいつ双子の兄貴がいんのよ。んで、ヘイゼンはその兄貴を「ローズ」あいつを「ルース」って呼んでたって」

 へぇ、と相変らず感心あるのかないのか判り難い無表情で呟くミナミの横顔を見つめ返し、タマリが不意に険しい表情を作る。

「で? みーちゃんは、何を勘違い? してたのさ」

「……………………………」

 問われて、明るいエントランスから薄暗い通路に入り何度も瞬きを繰り返しながら、ミナミは誰にも気付かれないようにぎゅっと眉を寄せた。

 明らかな不快。悔恨かもしれない。とにかく、それはミナミの顔に浮かぶにはあまりにも明らか過ぎる。

「………あのひとは、俺たちに施設の調査を命令したんじゃねぇ…」

 ハルヴァイトは。

「あのひとは、判ってたはずなんだ、全部。ううん、判ってんだよ、全部」

 ミナミを、タマリを、イルシュを、ジュメールを、ブルースを…追い払った。

「判ってて、今日、サーカスに行ったんだよ」

 目的は?

「あのひとは………」

 何を、しようというのか。

  

   
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