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14.機械式曲技団 |
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機械式の展示天幕は、主天幕の四分の一程度の大きさだった。 何本も立ち上がった支柱に支えられた上部天幕から、色取りどりの布が垂れ下がっていて視界が悪い上に、その支柱に真白い布が巻き付けてあったりして、妙に眩しい。 「飛行タイプの昆虫型ですね、入り口付近は。意外に小さいんだなぁ」 「甲虫ですよ、ハチくん。これ、「ビートル」に似てますね」 展示天幕に入るとすぐ、左右に配置されたガラスケースに収められていたのは、赤茶色の固い翅を閉じた八十センチくらいの昆虫だった。見た目が地味で固そうなので、これならタマリの「アゲハ」を見ている方が余程楽しいだろうに、とアンは思ったし、ヒューは率直にそれを口に出したが、ハチヤは「アゲハ」を見た事がないので、ヒューが何を差して言ったのか判らないような顔をする。 「で? これにはケーブルがないが、何で動かしてるんだ?」 滑らかなガラスケースの表面を手で撫でながら、ヒューが呟く。 「遠隔操作式ですよ、ヒューさん。リモコンで飛ばす飛行機の、程度のいいやつですね」 普段ならもっと混み合っていてもおかしくない展示天幕だが、隣りにリリスの本物が来ているからか、アン達の他には誰もいない。だからそこは薄気味悪いほど静かで空々しく、動くのは、アンとヒューとハチヤ、それに、微かな空気の流れでゆらゆらと揺れる、天井からぶら下がった細長い布だけだった。 「あ、これ、レビューでラインダンス踊るダンサーだ」 何種類かの甲虫が展示されているガラスケースの向こうには、華やかな衣装の機械式人型(ひとがた)が、目を閉じて、笑顔で、両腕を広げ横一列に並んでいた。全部で十体。女性を模して作られているのか、レビューダンサーたちの胸元は緩やかに膨らんでいて、腰から下は長いスカートで覆われている。 「二足歩行式は操作が難しいらしくて、これ、スカートの中に上下稼動しか出来ない飾りの足が付いてて、それを上げたり降ろしたりして踊るようです。移動は、そのスカートの裾に取りつけられたキャスターでするみたいですね」 ダンサーに近寄り、表示されている説明を読みながら解説する、ハチヤ。背の高いハチヤよりも更に上に顔があるところを見ると、ダンサーの背丈は二メートル五十近くあるのだろう。 ほっそりとした、ダンサーたち。凍り付いた笑顔と閉じた瞼がアンバランスだった。 白を金糸で飾ったビスチェに、半透明なチュチュのスカート。なるほど、良く見れば、スカートの中に円筒形の骨組みがあり、その下にキャスターが付いている。 ヒューがふと天井を見上げた。支柱と支柱の間が垂れ下がっているのは、この建物が本当の「テント」だからだろう。だとしたら、支柱を一本倒せばテントそのものが倒壊してしまい兼ねない。 不安になる。不利過ぎる。何かあってこのテントが倒れたら、主天幕に被害が出るかもしれない。 それに。 ヒューは黙って、じっとダンサーを見上げているアンの横顔に視線を戻した。 少年は、薄水色の瞳を見開いてダンサーの笑顔を見つめている。見上げられているダンサーたちは、晒した鎖骨や喉元、その上の顔は全てが同じで、長い金髪を頭のてっぺんに巻き上げ七色の羽飾りで飾っていた。 「これ、電源はなんなんでしょう…」 アンは誰とも無しにそう呟いて、でも、すぐダンサーには興味を失ったようだった。ハチヤに急かされて先に進もうと一歩踏み出し、そこで、ヒューの視線に気付いたのか、上目遣いで問う視線を投げかけてくる。 「いや、なんでもないよ」 ヒューは薄っすらと笑い、早く行け、とアンに手を振ってみせた。 少年は、不思議そうにもせず色の薄い瞳を眇めて歩き出した。遠ざかって行く淡い色のジャケットと、小さな背中。百六十機もの魔導機を扱うようには到底見えないが、少年はか弱く頼りなさげであり、実は強固な意志を持っている。 意志…志か。はたまた、意地なのか。 しかし少年は、間違いなく衛視であって、魔導師であって、護られなければならない「王都民」ではない。 と、ヒューはその時、自分に言い聞かせた。
割れんばかりの歓声が主天幕に満ちる。普段、滑らかに動く機械式とそれを操る演舞師に向けられるだろう拍手喝采よりももっと盛大なそれが、熱した空気を更に熱しようと天幕全体を覆い尽くす、瞬間。眼底が焦げそうなスポットライトを全身に浴びて、彼、リリス・ヘイワードは、歓声を冷ますよう静かに宣言した。 「僕を支えてくれた全てのひとに感謝を。僕と僕の仲間たちが創ったムービーを観てくれる全てのひとにも、感謝を。そして、僕が今日ここにこうして居る喜びを、何にも換え難い最愛の家族に。 ありがとう」 しん、と静まり返ってリリスの声に聞き入っていた観衆が悲鳴のような歓声を上げて立ち上がり、戻る、満場の拍手喝采。それに答えるように右胸に手を当て、会場と背後に並ぶスタッフ、それから、今日のみならず新作ムービーのために丸盆(ステージ)を提供してくれたサーカス・オブ・カイザーハイランの関係者に紳士の礼を向けたリリスは、最後にスーツの内ポケットから一枚の写真を取り出して掲げて、表面にくちづけを捧げる。 それは、リリスが舞台や撮影の最初と最後に必ず見せるパフォーマンスだった。 前に一度、インタビューのレポーターにその写真を見せて欲しいと言われた時、リリスは「家族との約束だからそれは出来ない。彼らはそれぞれが仕事を持つ普通のひとであり、僕はムービースターで観られることを生業(なりわい)にしているけれど、彼らはそれを好まない」と断固拒否を貫き通し、いっとき、家族への感謝の言葉もパフォーマンスもファン獲得のためのスタイルに過ぎないなどと報じられたが、それにもリリスは、「誰かの言葉を借りるならば、そんな、言いたいヤツには好きに言わせておけばいい。例えば誰が信じなくても僕の家族は僕の言葉を信じてくれるし、僕は、彼らの信頼を失う事こそ恐れている」と毅然と答え、家族を重んじる若いリリスの姿は更に幅広い年齢のファンを獲得するに至った。 リリス・ヘイワードは、本当に「家族」を愛していた。 彼を見出してくれたジョンソン・ヘイワード監督の名を貰った「芸名」を使っても、彼は本当の家族を誰より愛していたし、彼の本当の家族はリリスを……愛している。 ステージの上でスポットライトを浴びながら、リリスは内ポケットの写真に思いを馳せた。 長い撮影は終わった。 弟たちにお土産を買って、手の掛かる父親には初版のパンフレットを持って行って、顔を見せてくれるのかどうか判らない兄とは、上等のバーボンで祝杯を上げたい。 色が白く細身で、整った顔立ちに不似合いな、吹き替えなしの本格アクションスター。全身が汚れ、鉤裂きだらけになった衣装を纏い、小柄ながら、悪の組織に立ち向かい勝利を収める定番のヒーロー。非力さに挫折し、それでも立ち上がり立ち向かう真摯な眼差しは、リリスに興味のない観衆までもをいつの間にか惹き付けてしまう。 目尻の吊り上がった、気の強そうな青年。緑というより濃いオリーブ色の瞳は酷く印象的で、腰まで長い金色の柔らかな髪には癖ひとつない。 いつか必ず僕は飽きられるよ。とリリスは、よくスタッフに笑って言う。それでもいいよ。それまでにきっと、弟たちも大きくなるから。と。 「ねぇ、リリス? 今回のムービー、一番観て欲しいのは誰? もしかして、恋人かな?」 ざわめきが収まって、ステージ袖から出てきたレポーターがリリスにマイクを差し出すと、彼は茶目っ気たっぷりに肩を竦めてウインクしながら、こう答えた。 「恋人? 恋人を作る暇があったら、家に帰ってゆっくりしたいよ。だから、新しい僕を一番観て欲しいのは、リリス・ヘイワードのムービーを今まで一度も観た事のないひとたちだね」
ダンサーの前を通り過ぎると、支柱と支柱に渡された白い布が行く手を阻む。先に進むには布の切れ目を探し出さなくてはならなかったから、まるで、真白い迷路に迷い込んでしまったような錯覚を起こした。 退路の確保が出来ない。というのが、内部深く誘い込まれているヒューの感想だった。入り口付近には背の低いガラスケースを並べて広い印象を与え、高さ約二メートル五十センチのダンサーを配置して空間に切り換えを作り、その後は迷路。始めから迷路では狭い感じがするだろうし、支柱に巻かれた布は高さ二一メートル程度で、天井から垂れ下がった七色の布を奥まで見渡せるようにする事で、閉塞感を与えないようにしているのか。 何にせよ、ダンサーから離れてしまうと出入り口が全く見えない。直進で引き返せない上にすべてが白く、どこで布が切れているのか判らないのはあまり好ましい状況ではなかった。 幾重にか折り重なっていた迷路が終わり、今度は…。 「………ヴリトラが居る…」 四足歩行タイプの機械式たちが、のんびりと寝そべっていた。 「魔導機と同じで、機械式も二足歩行タイプに比べて四足歩行タイプの方が扱いが簡単なんでしょうね」 柔らかい人工毛の鬣を垂らした獅子。悠々と身体を伸ばし、組んだ前足の上に顎を載せて寝入っている姿は、図鑑で見るライオンそっくりだ。 「こっちのは模様が違うなぁ。なんでしょう、これ」 不思議そうに言うハチヤの前には、鮮やかな黄色に黒い縞模様の一体が、ライオンと似た格好で寝そべっている。それに顔を向け、可憐な口元に笑みを零す、アン。 「「タイガー」ですよ、ハチくん。猛獣の種類はライオンとタイガーだけですけど、ここに展示されているものの他にそれぞれ三体ずつをサーカスで所有しているそうです」 ほら、と少年が指差したインフォメーションに、機械式猛獣ショーの演舞時間が表示されていた。そこには、ライオンやタイガーの他にも、ジラフ、エレファント、バッファローなどの大型動物や、キャット、ドッグ、などの小型のものまで、数種類の演舞時間が案内されている。 それらはすべて、機械式。遠隔か、ワイヤーか、という操作方法に違いはあるが、全てが、人工的に造られたものなのだ。 「……機械式、ね。演舞師と、機械式。このサーカスは…」 眠る…動力が停止した機械式を見つめ、ヒューが呟いた。
人工のものたちでいっぱいだ。
「インターセプト・サテライト」という架空の地表を舞台にしたムービーの紹介が、灯りを落とした天幕で上映される。劇場用のショートバージョンコマーシャルではなく、舞台挨拶用の特別編集版だからだろう、ダイジェスト的に繰り広げられるリリスの活躍に、早くも場内から感嘆の溜め息が洩れた。 巨大な空間投影式モニターいっぱいに、爆炎。立ち上がり、広がって、ドーム型の建物を食い潰す衝撃と劫火に、リリス演じる「クロア」青年を助け悪の枢軸であるドーム内部に潜入した協力者の、悲痛な横顔が照らされる。 男が呟く。帰って来いよ、クロア。約束したろう? お前が「お前」を取り戻したら、今度はお前が俺を好きになってくれるんだろう? 冒頭、忘れかけのセリフを観客は思い出す。確か男はクロアに協力を要請されたとき、成功報酬でお前が俺を好きになる事。とふざけた調子で言うのだ。 失笑。誰のものなのか。 薄明かりの中でリリスは、目玉だけを動かし周囲を確かめた。 肌の表面にちりつく気配。緊張なのか、やけに空気が張り詰めている。しかしどの顔もモニターに夢中で、その緊張や失笑の出所が判らない。 おかしな気配が滲み出している。そうかと思う。この気配は会場にあってリリスの神経を毛羽立たせているものではなく、どこかからじくじくと侵入して来ているのだ。 なんだろう。とリリスは首を捻った。 妙に、胸がざわついた。
「ウェルカーム。ささ、もっともっと奥へどうぞ、ここまでよりももっと珍しいものが待ってるよ!」 「うわぁっ!」 「!??」 「……」 猛獣の展示区画を抜けてまた真白い迷路を進み、少し。不意に迷路が途切れたと思った途端、真正面に立っていたピエロがぎょろりと目を剥き、がしゃがしゃと音を立てて手足をバタつかせながらきんきら声を張り上げたではないか。 白塗りの顔、顔の半分を笑った口の占める道化師。背中の真ん中を台座に固定され、赤と白に塗り分けられた玉に乗っかった、でっぷり太ったピエロ。白い室内に溶け込んだ真っ白い道化の衣装に真っ赤なぼんぼりのボタンをくっつけただけのそれが、「ささ、さーさーこっちこっち」と固定された笑顔でアンたちに手招きする。 「…自動応答式の案内係みたいです。びっくりした」 オート。と書かれた足もとの掲示板を苦笑いで指差したアンはすぐにおっかなびっくり歩き出したが、ピエロに声をかけられて一番派手に驚いたハチヤは、いまだに目をぱちくりさせて…ヒューの背中に隠れている。 「つっかおどかすなよーってカンジだよ、もう」 口の中でぶつぶつ言うハチヤを置き去りに歩き出したヒューが「演出なんだろう」、と素っ気無く答えると、なぜか、アンとハチヤが同時に彼の涼しい横顔を見上げ首を傾げた。 「ヒューさん、驚かないんですね…」 「? いや、十分驚いたがな。まさか、動くなんて思ってなかった」 …………。 「それにしちゃ、平気そうですけど?」 「驚いたよ」 言葉の内容にそぐわない平素と変わらぬヒューの振る舞いにアンとハチヤは顔を見合わせたが、ヒュー本人にしてみれば、警護班の部下がここに居なくてよかった、という最大レベルの失態だったのだ、これは。 ピエロが動いた瞬間、ヒューは立ち止まってしまったのだ。思わず。 せめてアンより一歩先に出て立ち止まるならば、まだマシだったのだが、彼は不覚にも、アンの一歩後ろで足を止めてしまっていた。 なんとなく、罪のない人形をぶっ飛ばしてやりたい気持ちと戦いながら、のほほんと笑顔を振り撒き続けるピエロの正面に立つ。白い布の壁に白い衣装に白塗りの顔。わざとのように大きく描かれた口とボタンのぼんぼりとくしゃくしゃの金髪をあちこち束ねた七色のリボンのほかには大した色彩のない、道化にしては奇妙に「地味」な出で立ちが、どうにもこうにも気に触る…。 機械式に気配はない。当然だが。だからヒューは気付かなかったのだ、それが「動く」という可能性に。虚を突かれた形で踏み出すべき一歩を踏み出せなかったヒューは、自分に、腹を立てる。 ここに彼が居る理由。 ヒューは、アンの安全を確保しなければならない。 「これ、固定式ですね。球乗りの玉は、ただの飾りかな? …。この奥に、二足歩行タイプの何体かが展示されてるみたいです」 ヒューの傍らに並んでピエロを眺めていたアンが、視線を足もとの掲示板に落として言う。 「こいつは、この台座から降りられないのか?」 「そうです。ほら、背中のとこ、ボルトで締めてありますし。このピエロは丸盆(ステージ)に出ない、純然たる展示天幕の従業員ですよ」 アンにそう言われてピエロの後ろを覗き込んだヒューが、太った機械式の背中を頭の先から爪先までしげしげと観察して、不意に背後を振り返りハチヤに手招きする。派手な光沢のロングコートに金属みたいな銀髪と、黙っていたって人目を引く二枚目のくせに、どうしてこのひとはこういうあくどい衣装を好んで着るのか、と内心呆れつつも、呼ばれたから、ハチヤがヒューに歩み寄る。 「なんですか? スレイサーさん」 「…ちょっとここに立ってろ」 近寄って来たハチヤの腕を掴んで強引にピエロの前に据えると、今度はアンの腕を取ってピエロから引き離す、ヒュー。一体何をしたいんだ? と小首を傾げて顔を見合わせるふたりをよそに、彼はアンをピエロから遠ざけると、自分はまたピエロの横に戻った。 「これは、何で動いてるんだ?」 「? 充電式みたいですよ。臨界式でなければね」 いたずらっぽいアンのセリフに、ヒューが苦笑いを漏らす。 「だからダイナモの駆動音もないのか? 動いている機械式をこんなに間近で見るのは始めてだが、普通「機械」といったらもっとこう、動くときに「騒がしい」ものだろう?」 魔導機はその限りでないにせよ…。 それと、ピエロの前に立たされたハチヤと、どう関係があるのか。 ヒューは、それきり口を閉ざしてしまった。サファイヤ色の瞳をピエロに向け、瞬きもせずにじっと凍り付いた笑顔を睨んでいる。 何がどうしたいのか判らないハチヤが、困惑したようにアンを見遣る。それに曖昧な笑顔で首を傾げたアンの動きに合わせて、微か、淡いクリーム色のジャケットから衣擦れの音が機械式の占める奇妙な静寂の空間に放たれ、ヒューは。 瞬きをやめる。 耳をそばだてる。 全ての瞬間、衛視として衛視然と振る舞い護る者として強くなければならないと自分を信じる男は、全神経を逆立たせて、機械式の「気配」さえ探り出そうとする。 出来ない訳はない。機械式という操作されなければ動けない、命令されなければ行動しないこれは、常識の範囲(なか)に留まるものだ。 何かスイッチが切り替わってしまったかのように、今まで聞えなかった音が聞こえ始める。馴染みの雑音、騒音。故あって感じたあの「noise」とは全く別の感覚ではあるが、神経を集中したヒューはその「音」を肌の表面で感じた。 鳴っている。唸っている。目の前の道化師は、機械式。 「ハチヤ」 自分の声が、遠い。 「もういいぞ。アンくんの方へ行け」 「…はぁ」 ピエロの斜め前に突っ立ってぶっきらぼうに呟いたヒューを訝しそうに見ながら、ハチヤが言われた通り爪先をアンへ向けた。衣擦れ。これは問題ない。息遣い。平常な息遣いは警戒するに値しない。微かな空気の動き。体温。瞬き。問題はない。馴染みの雑音、騒音。割り込んで来る…。 「 」 「いいから行け」 何か言い募ろうとしたハチヤを抑えて、ヒューが低く呟いた。両者のタイミングはあまりにも合い過ぎていて、アンから見ると、ハチヤは軽く唇を動かしただけのようにしか見えなかった。 呼吸。発音するための呼吸。読めている。気配。読めている。 では。 ハチヤが体重を移動する。コンクリートの床を踏むデッキシューズのゴム底。この音を拡大したら、か弱い悲鳴に聞えるかもしれない。 だから。 それ以外は。 道化師。 台座に笑顔ごと固定されたピエロの前から退去したハチヤが、佇むヒューの肩先を躱して歩き過ぎようとした刹那、それまで軽く垂らしされていたヒューの腕が霞んだ。 瞬間、アンには黒い残影が上空に弧を描いたように見えた。その残影がとんでもないスピードで動いたヒューの腕だと彼が気付いたのは、何かに行く手を阻まれたハチヤがぎょっと自分の身体を見下ろしたのと、がしゃん! と手足を軋ませたピエロが恭しくも不恰好にお辞儀したのに驚いて、全身をぎくりと震わせてからだったが。 「ごゆっくりどうぞ。ごゆっくりどうぞ」 ピエロは気付かない。太った身体を折り曲げて、右手を胸に当て頭を垂れる。 ハチヤは唖然としている。胸の前に回されたヒューの腕に邪魔されて、進む事も出来ない。 アンは見ている。ピエロとヒューと、ハチヤを。 そしてヒューは。 「確かに充電式だな。しかも電力が弱い。なるほど、これなら「普通じゃ」気付かない訳だ」 呟いて、掴んでいたピエロの左腕を放した。 ヒューは、ハチヤが離れるのに合わせて見送りの行動を取ろうとしたピエロの左腕、本来ならば肘から先を軽く持ち上げて進行方向を示すはずだったそれを、刹那で掴み抑え込んでいたのだ。しかも、ピエロの腕を殆ど動かさないためだろうか、通り過ぎようとしたハチヤの身体の前で。だからハチヤはヒューの腕に邪魔されて先に進めず、ピエロは命令通りお辞儀したが、腕を掴まれていたから礼は不恰好に歪んでしまった。 ピエロの腕を解放したヒューが、ピエロに背を向け長い銀髪と黒いコートを閃かせ、天幕の奥へと歩き出してしまう。それではっとしたハチヤが慌ててアンに駆け寄って来たが、アンはすぐに動けなかった。 驚いた。本当に。 「…………まいったな…、ぼくより…速いじゃないですか、ヒューさん」 苦笑も出ない唇で呟き、ふうっと息を吐く、少年魔導師。 「準備が出来てさえいれば、君の方が速いんじゃないのか? 気付くのはな」 微かに振り返った端正な横顔にも、笑みはない。 「だったらいいですね、って感じです。……………意地悪言わないでくださいよ、もう」 そこでやっと、アンが薄笑みを唇に浮べる。 行こうと急かされて、ハチヤがアンを追い掛けて歩き出した。 真白い迷路。 先に立って進むヒューの背中と傍らを歩くアンの横顔を交互に見遣るハチヤには、今一体何が起こりふたりが何の話をしていたのか、全く判らなかった。
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