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 これからどうすればいいのか、ちょっとだけ考えた。

 答えは見つからなかった。

 違うか。

 もう、俺には何の決定権もねぇ…。

 後は、言い忘れてた、言わなかった、言えなかった一言を、あのひとに…言うだけ。

   
   
(16)ミナミ・アイリー(A)

  

 誰もいない議事堂の証言台に立ったまま、ミナミは天井を見上げていた。

 耳に痛い静寂の中、冷たい輝きを放つクリスタルのファイランと、それを抱き締めようとする天使と、その全てを「許そう」とする悪魔。

 間違っていたのだ、ミナミは。誰もが。本当の事に気付かなかった。

 創世神話。悪魔は…天使の軍勢と浮遊都市…人を追い立てる「敵」であったはずだ、始めは。しかし彼は、たったひとり、孤独になってもなお浮遊都市を護ろうとする天使を「見逃して」やったのではなかったか?

 そして、浮遊都市を「見守る」だけしか出来ない天使に乞われて彼は、鷹揚に、敵対した世界を憎み切り疲れ果て、眷族さえも遠ざけたそのひとは、全てを赦したのではないのか?

 赦した。

 引き換えに、か弱い天使を得て。

 見守るだけの…。

 ミナミは短い息を吐いて、証言台から降りた。

 アドオルは失敗した。外観だけを天使に似せた少年を造り上げ手に入れようとしたが、ひととして生を受けた瞬間、天使は天使にあらず、ミナミ・アイリーという「ひと」になってしまった。

 ふと、ハルヴァイトが暴走騒ぎを起こし、ドレイクが議会に捻じ込んだ時ウォルがここでしたという演説を思い出す。

 子供は親を選べない。

 生まれ落ちて名を賜るまで子は親の持ち物かもしれないが、自分の手足で動き出した瞬間から、親と「家名」は子の背中を踏みつけてのさばっているだけ。子も自らの手足で動き始めた瞬間から人としての重責がある。

 たった一度聴いただけの話だったが、ミナミはそれを忘れていなかった。

 鮮明過ぎる記憶。

 アドオルは、その…自ら造ったミナミの記憶力にさえ、敗北したのか。

 証言台から離れて議事堂の大扉に爪先を向けた刹那、背後の通用口が微かに軋み、ミナミは振り返った。

 白いシャツに、出会った頃より伸びてしまった鋼色の長い髪。冷えた印象の整った面には、不透明な鉛色の瞳。

 そのひとは。

 無言でミナミを見つめ、ゆっくりと近付いてくる。

「…ハルヴァイト……」

 囁いて、ハルヴァイトに向き直り、ミナミは…口を閉ざした。

 もう何も、問い掛けてはいけない。

 昨日まではこんな時、先に口を開くのはミナミの方だった。待っても何も言いっこないし、という言い訳をやめるなら、ミナミはいつでも、穏やかな静寂と注がれる柔らかな視線に耐えられなかったから、先に口を開き、その静けさを遠ざけようとした。

 それに、薄汚い自分の全てを見られ、許され、それでいい、と言いたげにゆっくり瞬く睫の動きにさえ、耐え切れなかった。

 多分、始めて出会ったスラム近くの路地でそのひとの目を覗き込んだ瞬間から、ミナミは、そのひとに捕らえられていたのかもしれない。

 彼が悪魔であったから。

 まだ自分が天使を模していると知らなくとも。

 創世神話の時代から、天使は、悪魔のものなのだ。

「ミナミ」

 ミナミの側まで歩み寄り、足を止めたハルヴァイトが静かな声で彼を呼ぶ。広く天井の高い議事堂にその穏やかな声がひっそりと響くとミナミは、相変わらずの無表情ながら、微かに首を横に振って見せた。

 拒否や、拒絶ではなく。

「気が済みましたか?」

「判んねぇ…。気分悪くて、倒れそう」

 それでもミナミは、ハルヴァイトから目を逸らさない。

「ではここで逃げ出したりせずに、最後まで、あなたはあなたの責任を果たしなさい」

「……………」

 天井の天使は。

「今度はわたしが、あなたの側にいてあげます」

 天井の悪魔は。

「何をしても、何があっても、どんなにあなたが傷付いても、誰かを傷つけても、わたしが全部許します」

 ミナミとハルヴァイトには無関心。

「あなたの愛したものや護りたいものも纏めて全部、わたしが愛してあげます」

 笑ってしまうほど、天使は悪魔を、悪魔は天使を愛しているので、ミナミにもハルヴァイトにも、無関心。

 ミナミはミナミで、ハルヴァイトは…鋼色の悪魔だから。

「見返りに、あなたがわたしを愛してくれると言うなら」

 漆黒の悪魔より、こちらは相当我侭だし。

 不意に俯いたミナミが、小さく笑う。

「それ、なんか変だろ…。そんじゃ俺、黙ってアンタんトコ帰るしかねぇし」

「そうかもしれませんね」

「そうかもじゃねぇって。相変わらずアンタ、すっとぼけた事言ってんな…」

 俯いたまま、笑う。笑っているつもり。

 でも本当は、長い睫の先から絨毯に落ちる澄み切った水滴に侵蝕されて、視界がぼんやりと歪む。

「…ちょっとくらい怒れよ、アンタは。俺はどうしようもなく勝手な事ばっかして、きっと……アンタはそれでも俺を許してしまうんだって判ってて、わざと……」

「あぁ、それはもう終わってます。ちゃんと、ドレイクもギイルも大隊長もエスト卿も、ヒュー、レジー、クラバイン、ついでに陛下も、きっちり殴っておきました」

「ああ、そう、陛下まで………。つか、マジか!」

 それにはさすがに、ミナミもぎょっとする。

「投獄覚悟で」

「すんなよ、そんな覚悟!」

「嘘です」

「おいっ!」

 ふふん、とふんぞり返って腕を組んだハルヴァイトの顔を見上げたミナミは…既にハルヴァイトのペースに巻き込まれていた。

「最後はあなたですよ、ミナミ」

 恐ろしいほどにこやかにそう言われたミナミが、きょとんとハルヴァイトの顔を凝視する。

「わたしは、怒ってるんです」

「…もうちょっと、判りやすく怒んねぇ? せめて…今くらい」

「? あからさまじゃないですか、こんなに」

「嘘い……」

 肩を竦めていたミナミが勢い言い返そうとした途端、少し離れていたハルヴァイトがつかつかとミナミに歩み寄り、何も問わず、腕も解かず、いきなり身を屈めて、短いけれど含んだ内情の分だけ温度の高いくちづけを、ミナミに押し付けた。

 唇が触れて、離れて、間近で持ち上がった鋼色の睫を見つめ、ミナミは思う。

 そのくちづけは、問い掛けを伴なわない。ミナミの微かに驚いた顔を見たがるように繰り返された戯れではなく、いつもなら常套句の後にやって来るはずの意味あるくちづけなのに、ハルヴァイトは問わない。だから、そのくちづけを拒否する事は許されない。

 データという言葉の代りに交わされるくちづけは、一度も聴いた事のないハルヴァイトの………本物の告白。

 愛しているよ。と、言わないひとの。

「…………………あのさ…」

「なんですか?」

「触っていい?」

 戸惑うようなミナミの問いに、ハルヴァイトがひっそりと微笑んだ。

「…それで……、…その…。こう、腕を広げろ」

 命令。

「? こうですか?」

 また何やら変わった事を言い出したな、と思いながら、ハルヴァイトはミナミに言われた通り両腕を広げた。軽く肘を折ったまま、掌を上に向けて。

「……………………………」

 で。

 そのまま硬直。

 本日二度目の心停止寸前…。

 そのハルヴァイトの頬に、柔らかい金髪の跳ね上がった毛先が掠る。少し背伸びしているからだろう、ミナミは…ハルヴァイトの首に両腕を巻きつけ、首筋に額を擦りつけるように俯いて、華奢な全身を彼にそっと預けていた。

 どこにも隙間がないように。

 誰にも邪魔されないように。

 そのひとを抱き締めて。

 安堵の溜め息を吐く。

「…マズいよ、俺…。どうしよ」

 くす。と耳元で小さく笑ったミナミを、ハルヴァイトが反射的に抱き締め返す。

「なんです?」

 ミナミはくすくす笑いながら、自分の意志を無視して零れ落ちてくる涙をハルヴァイトの首に擦り付けた。

「アンタ…あったけぇのな。って思って、だからどうかって…、すげー安心した…」

 何も、恐くない。

 否。

「……ごめん。ホントに勝手な事ばっかで…………ごめんなさい…」

 自分でそのハルヴァイトを遠ざけようとした事を、今更ながら、恐れた。

        

       

「…俺…さ……………」

  

   
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