ただの人間の子である」の理由

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コロちゃんさん
全ては嘉助の早とちりから始ったのではないでしょうか。子供たちがそんなに意識しなければ三郎は何事もなく普通に転校して行ったはずです。

KIKYAUさん
最後に二人が見つめ合ったのは三郎が人間であるにもかかわらず二人がそんなに迷うことになったのはなぜかという作者の問いであると思います。

ペン華さん
ある時は又三郎のようであったり、ある時はそうでなかったりするのは狐憑きのようになっている状態だから。

朝焼けワンワンさん
嘉助は八月三十一日の夜、今年も半分泣きながら宿題帖をやりました。そのときそばでおじいさんが風の又三郎の話をしてくれたのでした。又三郎がにやっと笑うと風が吹いてくると言う話です。嘉助は翌朝さっそくそれを思い出したのです。前日おじいさんが偶然その話をしたばかりに、また嘉助が宿題をなんとかやっつけた開放感から、とっさの思いつきを叫んだばかりに、話がとんとん進んじゃったというわけです。(じゃないかな、と思う。)(なぜおじいさんが又三郎の話をしたのかの理由付けはそのうちに思い付くでしょう。)

ゆいさん
理由は馬が逃げた後嘉助が目がさめた時、三郎が平気な顔をしていなかったこと。

田田田さん
もし三郎が風の精なら最後に正体を隠したまま去って行くのは中途半端すぎ、最後に一郎と嘉助が顔を見合わせたのも間抜けすぎる。

掃除委員Bさん
クラス委員Aさんの意見は否定はできませんね。しかしそれは「風の又三郎」を幻想文学と見た場合の話だろうと思います。私は純文学と見ます。

生徒会長Dさん
私はラストシーンの後、遠くの峠で父と一緒にはるかな学校の方角を振り返る三郎の姿を感じました。アカンベーはしていませんでした(^o^)。

(いきなり生徒会長はズルイ。)元掃除委員兼副会長立候補者Bさん
「風の又三郎」の中心は主人公三郎よりも回りの子供たちの描写にあると言われます。あくまで人間を描いた作品なのです。

いわしさん
風の又三郎だぞと言い当てられても消えないところを見るとただの人間である。

いなか者さん
イエスキリストと呼ばれている人を、神の子だとは思えないように、私は三郎も、この作品の舞台では一風変わった、ただの転校生だと考えます。

城山からすさん
賢治はあれほど魅力的だった風野又三郎の飛翔場面を禁欲的にすっぱり諦めて、あっさりとした夢の一場面のみに留めた。これは核心(この問題)についての完全な方針転換がなければ不可能なことだった。

高田孫三郎さん
僕のおじいちゃんは三郎といいます。昔、岩手の山奥に転校した時にひどい目に会ったといつもこぼしています。

たまさん
宮沢賢治の考えをなぞれば、答えは出ますよね。

初代帰宅部部長さん
ただの憑依と脱魂であり、もとは人間であるから。。

風使いさん
もともと風の又三郎とは転校生や、なにかほかとは違う雰囲気を持っている人のことを表現した、異国人的な扱い方のことではないかと思う。

JACKさん
人間です。

ブドリ氏さん
ただの転校生であると思います。

一郎さん
三郎が去ったとき先生のしていた格好は当たり前の単衣であった。つまり大人にとって高田三郎はただの転校生に過ぎず、先生の格好がそれを言外にはっきりと表している。子どもたちは現実と伝承の世界をはっきりとわけられていないだけ。補足ですが、「転校生が去った」ということは現実をほかのものと混同しない大人たちにとっては単なる普通の出来事である。当たり前の単衣というくだけた服装がそれをはっきりと表しているということです。

嘉助さん
話者が三郎と又三郎を混用しているのは、話者が次第に子どもたちに視点を寄り添わせることで、巧みに私たち読者を三郎が又三郎と思わせるための工夫であり、それを根拠にはできない。

os-sa-nさん
ただの転校生と読むほうがずっと面白いと思います。これだけリアルな物語に超自然的な存在を持ち込むのはもったいないと思いませんか。

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